第十話
「え、と、えぇっと、それは、その」
「欲しかったんでしょう? 子ども。今年の秋頃らしいですよ?」
「え、そう、なんですか? そりゃ、目出度い」
私何いってんだ。
「そうですね。きっと、目出度い」
そして、この人も何重ねてるんだ……。
「いや、え、でも」
甘ったるいキスの合間に告げられて、頭の中がなんだか真っ白……というか、若干ピンク色になってくる。なってくるけど……
「なんか、他人事、ですね?」
「まさか、喜んでいますよ。ユーナの悩みが消えた上に、五月蝿い周りも黙ってくれる。一石二鳥じゃないですか」
喜んでます。と、重ねて今度は唇に軽く長いキスをする。
でも、以前そういう夢を見たといったとき、あっさり原因と結果の成せることだと冷たくいい放ったのは、そんなに前じゃないと思う。私のなくならない眉間の皺にそっと、触れ「機嫌を直してください」と唇を寄せる。……らしくない。
「なんといえば良いのか分からないんですよ。僕、あまり実感なくて。ですから、毎日、目覚めと眠るときにお茶を淹れます。妊婦には良いらしいですし、ユーナは健康ですけど、丈夫そうではないので……」
「丈夫って……」
もっといい方ってものが……いや、元々それをこの人に求めるのは間違っている。
「重要ですよ。貴方が小さきものに壊されるのは嫌だ」
いって、微笑み、ぺろりと私の唇を舐めて「薬、相当苦いみたいですけど」と意地の悪い顔をする。だから私もなんとか頑張って切り返しを思案する。
「本当、苦いので飲めるかどうか……淹れるだけじゃなくて、そこまで責任持ってくださいね」
にこりと返せば、僅かにルイさんの頬が引きつった。ちょっぴり勝った気分だ。
「……検討します」
これから暫らく、苦いキスが続きそうだ。苦笑した私に、ルイさんは僅かに逡巡して話を続ける。
「それから、もう、二度とこんな真似はしないと、誓ってください」
私の左手に、手を重ねて絡め取ると私の顔の前まで持ち上げてくる。真っ白な包帯の奥に見えるルイさんの赤い瞳が、ほんの少し揺れて見える。傷付いている顔をしているような気がする。私が、ルイさんを傷つけた。
「これは、別に……」
「別になんですか?」
「……分からないです。分からない……」
ナイフを手にしていたときの心境が分からない。
どうしてあんなことをしてしまったんだろう? ただ、苦しくて、心の痛みがどうしようもなくて、傷の痛みが心の痛みと共鳴して、滲み出る赤が私を安心させた。死にたかったわけじゃない。そう、思うけど、分からない。胸が苦しくて、楽になりたかった。
心配を、迷惑を、掛けたくなくて……だった、はずだ。
だったら、やはり、私はこんなことをすべきじゃない。今なら分かる。普通のことだ。みんな心の痛み程度で負けては居ないだろう。痛みくらい、みんな持ってる。私、だけじゃない。
それに……
「あっ!」
「え、ちょ、どうしたんですか」
反射的にルイさんを押しのけて起き上がろうとしたら、慌ててベッドに押さえつけられる。私は挙動不審気味に、ルイさんを見上げて「部屋……」と口にした。
「私、部屋汚しちゃって……」
ほぼ確実に屋敷の調度品などはどれも誂えの良いものだ。絨毯だって例外じゃない。血痕なんて、拭いたくらいじゃ落ちないだろう。ごめんなさい、と口にすればルイさんは、胸を撫で下ろしたように肩を落として首を振った。
「そんなこと、どうでも良いです。ユーナの部屋は片付けさせました。新しいものにしたので気に病む必要はないです。気になるようなら、別の部屋を使うと良い」
「あ……すみません……ありが、とう……部屋は、あそこが良いです。ずっと、あの部屋だから、愛着がある、我が侭でごめんなさい」
手間をかけさせてしまったことが、とても申し訳なくてしょぼしょぼと告げる私にルイさんは、困ったように口角を上げた。
「構いません。ユーナがそれで良いのならそうしてください。そんなの我が侭じゃないでしょう。屋敷の中のことくらい、貴方の好きにして構いません。ユーナは僕のパートナー、正妻です。内妻ではなく、きちんと形を踏んだでしょう?」
「でも、それは立場上仕方なかったって」
「そんなこと信じたんですか? 立場なんて、なんとでもいい繕えば良いだけです。僕はただ、ユーナに安心してもらいたかっただけです。目に見えるハッキリしたものがあるほうが、自身の足元が磐石に感じるでしょう?」
――― ……そんな、こと。
私は今、物凄く間の抜けた顔をしていると思う。それと同時に、一言物申さねば気がすまない。
「そんなこと、いってもらわないと分かりませんっ。私、全然知らなかった」
「別に知らなくても良いでしょう。安心できれば」
「知らないと安心なんて出来ないです!」
ぽこぽこいい返す私に、ルイさんは「なるほど」と納得したようだ。遅すぎる。
「まあ、今分かって良かったですね」
「―― ……全然良くないです。全然良くない、けど、まぁ……今後も知らないよりは、良かったです……」
「ええ、良かったです。可愛い妻だから、つい、苛めたくなるんです。でも、過ぎたことをしたと反省しています」
いいつつ、そっと私の髪を撫でる。くすぐったい……。
それに、実は未だに慣れていない。ルイさんが表面的に、あまりにも変わらないから。だから、改めてパートナーと、正妻だなどといってもらえることに、気恥ずかしくなる。
そんな私の戸惑いに、ルイさんは、兎に角、と仕切りなおした。
「兎に角……勘弁してください。貴方がこんなことをするのなら、僕はもう外へは出ない。一時もユーナから目を離さない」
「そんなこと」
「出来ますよ。出来ます」
苦しげに双眸を伏せ、ルイさんは包帯に口づける。ゆっくりと食んで暖かい吐息がじわりと包帯越しに伝わってくる。同じだけ胸に熱いものが溢れてきて、涙腺が緩んでしまう。
「ユーナを失うくらいなら、仕事をやめるほうが良い。大丈夫、それでも、生活に困るようなことはないです……多少、ルール違反的な感じがしないでもないですが……」
「ごめん、なさい」
「怒っていません。そこまで追い詰めたのは僕です。謝る必要はないです。ただ、謝るくらいなら、誓ってください。二度としないと」
真っ直ぐに私を見下ろしてくる赤い瞳。滲み出てきた私の中の赤と同じ色……。その中に私は映り、囚われている。
「……二度と、しません……本当にごめんなさい」
瞳の赤に誓う。
私の中の赤に謝罪する。