兎の世界にさようならの裏側(後編)
妙な違和感を覚えて僕は部屋を出た。
廊下を足早に歩きながら考える……考える……考える……。
気付いたときには走っていた。
―― ……塔
屋敷のものが近寄らなくてユーナは気にしないところ。
もしかして、無くなった鍵をユーナが持っていたのではないか? その鍵を使ってどこか別の世界に……ばんっと普段では有り得ないほど乱暴に扉を開けてその不安は現実へと変わった。
フロアの中央でキラリと光る鍵を見つけてゆっくりと歩み寄ると拾い上げる。
「―― ……っ」
発する言葉が思い浮かばなくて、訳の分からない感情がぐるぐる身体中を巡っていくのを遮るように前髪をかきあげて頭を抱えた。
塔は鍵がないのに気がついて一番初めに探した場所。
もちろん、なかった。
それが今ここにあるということは、悪い予感は当たっている。
ふ、と、反射的に鍵の合う扉のノブを握ったが開けることを思い留まった。
「……犬族……ですか……」
落ち着けと自分自身にいい聞かせて、かつこつと石の床を靴で弾く。
まずは使いを出して探してもらったほうが早い。こんな時間だ。僕よりも彼らの方が鼻が利くだろう。もしかしたら、もう保護されているかもしれない。
とりあえず、保護を要請する手紙を夜目の利くものに持たせた。
迎え……それが適当かどうか僕には分からなくて……行くとは書けなかった。
その姿が消えた扉の奥を睨みつけて、静かに閉めると鍵を掛けた。直ぐに応えてもらえれば明日の朝には朗報が届くだろう。
ふらりと屋敷に戻ったら足はユーナの部屋の前で止まっていた、明かりが漏れていたからまさかと慌てて扉を開くと中に居たのはフィズだ。
「持ち主の居ない部屋に居座るのは良い趣味とはいえませんよ?」
正直がっかりした。
分かっていたけれど、落ちた肩が自分でも滑稽だった。
フィズはおろおろとしつつ深々と頭を下げて謝罪した。別に取って食おうというわけでもないのですけどね。
「あの、ユーナは見付かりましたか?」
僕が首を振ると明らかに落胆したようだ。
「フィズはユーナが好きですか?」
「はい」
素直で良い。
「なら、悪いことをしましたね。ユーナはもう戻らないと思います」
フィズの丸くて大きな瞳が見開かれる。どうしてと問い掛けているような瞳から逃げるように顔を逸らすと窓から見えた夜空に星が流れた。
「どうやら別の世界へ行ったようですから……捜索の手配はしていただけるように連絡しました。直ぐに見付かるとは思いますが……」
―― ……戻るとはいわないでしょう。
そう続けた僕にフィズはどうしてと首を傾げた。本当におかしなことを聞く。どの世界でもユーナにとってはマシなはずだ。
「迎えに行ってあげてください!」
「は?」
突然投げ掛けられた台詞に、自分でも笑ってしまいそうなくらい目を丸くしたと思う。
「迎えに! ユーナは待ってると思います。あたし、置手紙とか何か残っていないかと思って探しに来たんです。でも、何もなくて……ユーナがそんなことするとは思えない。もし本当に出て行く気なら何かしらあるはずです。きっと迎えに来て欲しいんだと、探して欲しいんだと思いますっ!」
普段では信じられないフィズの勢いに気圧される。
「……ですが……僕が行くことを望まないでしょう」
「本当にそうお考えならあたしに暇を下さい! あたしが行きます」
食い下がるフィズに益々気圧される。それを何とか持ち直してはっきりと告げる。
「貴方の代わりは他では勤まらないでしょう? 屋敷を離れることを許すわけにはいかないですね」
「ユーナの! ユーナの代わりだって誰にも出来ないはずです」
「平気ですよ。居なかった間も問題なく世界は回っていました」
自分の台詞を息苦しく感じる。
「本気でそうお思いなら、鏡を見ておっしゃってください。オーナー……真っ青ですよ」
「……っ」
思わず息を呑んでしまった僕にいい過ぎたと思ったのかフィズは頭を下げて失礼しましたと退室しようとする。
反射的に引き止めた。
丁寧に体ごと振り返ったフィズは僕が手を上げたのにびくりと肩を強張らせる。
―― ……うさぎはとても臆病だ……。
上げた手をぽすりとフィズの頭に載せてぽんぽんと叩いて退室を許した。フィズは困惑した表情のまま部屋を出て行った。僕自身も困惑している。
フィズの後姿が見えなくなってから、自室に戻る気にもなれなくてそのまま扉を閉めた。
ぽすっと整えられたベッドに倒れこむ。何となく暖かい気がしたのは都合の良い気の所為だ。
「―― ……ですが」
ごろりと寝返りを打って壁際にある机を見る。
ユーナはうっかりものであり、何か策を講じるというのがとても苦手だ。仕事であっても一つ一つはこなせてもそれらをリンクさせて考えることが苦手でミスが目立つ。
それから察するに書置き云々は、恐らく……
「出て行くことにいっぱいいっぱいだったのだと思うのですがねぇ……」
そう呟くとあまりにらしすぎて場にそぐわない笑いが零れた。
明け方近く予想していたよりもずっと早く連絡がついた。
ユーナの無事と館主の空き時間を記した内容だった。
「説明をしに来い……ということですよね……」
恐らく僕が赴こうと無視しようとユーナが悪い待遇を受けるようなことはないだろう。
ユーナは落人であるし、それでなくても他人に嫌悪されるようなタイプの人間ではない。それは寧ろ自分のほうでそのくらいの自覚はある。
とはいえ、確かに、あれはうちのものなので引き取りに行かなくてはいけないですよね。
そう決めるとなんというかずっとざわついていた心が凪ぎいた。何かを失うことを恐れる日がくることがあるなんて思いもしなかった。
自嘲的な笑いを零し、寝不足の身体にはキツイ青空を硝子越しに仰ぐ。
「今日も馬鹿みたいに天気が良いですね……」
久しぶりに夢を見た。
それは全く持って不愉快なものだった。
仕方がないからその責任は本人に取ってもらうことにした。