88話 しばらくの別れ
神社の境内。
先ほどまでの死闘が嘘だったかのような、激しい戦いの余韻だけが静かに残っていた。
崩れかけていた山肌は氷によってしっかりと固定され、荒れ狂っていた暴風も、風の力によって穏やかなそよ風へと変わっている。
静まり返った上空から、俺――橙真とラファエルがゆっくりと舞い降りてきた。
ラファエルは背中の美しい翼を静かに畳み、境内の中央へ優雅に降り立つ。
そのすぐ隣へ、俺も着地した。
少しの間を置くと、それぞれの戦域へ向かっていた仲間たちも、次々と境内に姿を現し始める。
北側の参道からはガブリエルとウリエル。
南西の山道からは蒼太とラグエル。
南東の夜空からは碧羽とサリエル。
激戦をくぐり抜けた全員が、自然と境内の中央へ集まった。
ラファエルは周囲をゆっくりと見渡し、満足そうに頷く。
「これで全員だね」
静かな声でそう言うと、ラファエルは右手を胸の前へ静かに掲げた。
神社全体をすっぽりと包み込んでいた半透明の巨大な結界が、淡く儚い光を放ち始める。
それは無数の白い光の粒子となって夜空へ舞い上がり、そのまま静かに溶けるように消えていった。
結界が完全に消え去ると、境内には穏やかな夜風だけが静かに吹き抜ける。
ラファエルは静かに空を見上げながら口を開いた。
「地震、暴風、土砂崩れ……すべて収束したよ」
その言葉を聞いて、その場にいた全員が、ようやく張り詰めていた肩の力を抜いた。
蒼太は深く息を吐き出す。
「本当に、終わったんだな」
碧羽も静かに夜空を見上げ、小さく温かな笑みを浮かべた。
「うん……久しぶりに、長い戦いだったね」
俺は天使たちの方へ向き直った。
「急に呼び出したうえ、最後まで一緒に戦ってくれて、本当にありがとうな」
ガブリエルは少しだけ口元に笑みを浮かべた。
「いや、気にするな」
そう言って、ガブリエルは後ろを振り返る。
ラファエルは穏やかに微笑み、ラグエルは太い腕を組んだまま満足そうに頷いている。
ウリエルも担ぎ直した槍の柄を手にし、サリエルは優しく温かな表情で碧羽を見つめていた。
仲間たちの様子を眺めながら、ガブリエルは楽しそうに小さく笑う。
「むしろ、久々にあいつらも楽しそうだったからな」
ラグエルが苦笑いを浮かべた。
「たしかに、久々に楽しい戦いができたな」
サリエルも柔らかく微笑む。
「私も楽しかったよ。碧羽と一緒に空を飛べたしね」
碧羽は少し顔を赤らめながら、丁寧に頭を下げた。
「私の方こそです。本当にありがとうございました」
神社の中には、つい先刻までの息詰まる緊張感が嘘のような、穏やかで優しい空気が流れていた。
そんな空気の中、ガブリエルが一歩前へ踏み出す。
「今回は、私が防災対策課へ報告をしに行こう」
俺は驚いて、思わず目を丸くした。
「え、ガブリエルが? いいのか?」
ガブリエルは小さく笑う。
「別に、たまにはいいんじゃないか」
俺もつられて笑みを浮かべた。
「それじゃあ、風宮さんへの報告、頼んだぞ」
「ああ、任せてもらおう」
短い返事を返したガブリエルだったが、ふと思い出したように言葉を続けた。
「あ、それと一つ言っておく」
その場にいた全員の視線が、一斉にガブリエルへ集まった。
「私たちは、しばらく一緒には戦えないから」
蒼太が意外そうな顔をして聞き返す。
「えっ……なんでですか?」
「簡単に言えば……ここ最近、邪神体と戦うことが増えてな。力を使いすぎたんだ。一度、休んで力を回復する必要がある」
碧羽が少し寂しそうな表情を浮かべた。
「……しばらく、会えないんだね」
サリエルが隣で優しく微笑みかける。
「そういうこと。でも、あなたたちが必要とした時には、必ず駆けつけるよ」
ラグエルも蒼太へ視線を向け、力強く告げた。
「次に会う時は、もっと強くなっていることを期待しているぞ」
蒼太は自信に満ちた笑みで答える。
「その時は……絶対に負けないからな」
ウリエルは槍を肩へ担ぎ直し、鼻で小さく笑った。
「ふっ……楽しみにしているぞ」
ラファエルは静かに、大きく翼を広げた。
「それでは、行こうか」
その神聖な身体が、淡く美しい白い光に包まれる。
次の瞬間、全身が無数の光の粒子へと姿を変え、静かな夜空へ舞い上がっていった。
続いてラグエル。
「では、またな」
一言だけ残し、力強い姿が光の粒子となって消えていく。
ウリエルも軽く片手を挙げた。
「また会おう」
その姿もまた、白い光となって夜空へ溶けていった。
サリエルは碧羽へ向けて、どこまでも優しく微笑む。
「碧羽、また絶対に一緒に飛ぼうね」
「はい!」
碧羽が力強く頷くと、サリエルもまた粒子となって静かに夜空へ消えていった。
最後に残ったのは、ガブリエルだった。
ゆっくりと歩み寄り、俺の目の前で立ち止まる。
「報告が終わったら、私はまたしばらく粒子となって漂うことになるだろう」
俺は静かに、深く頷いた。
「そっか……」
ガブリエルはどこか優しく、小さく笑った。
「またな、橙真。そのうちまた会おう」
「ああ、またな。ガブリエル」
その言葉を最後に、ガブリエルの身体もまた眩い白い粒子へと変わり、夜空へ向かって静かに舞い上がっていった。
***
広い境内には、俺たち三人だけが残された。
しばらくの間、誰も言葉を発しようとはしなかった。
澄んだ夜風が静かに木々を揺らし、心地よい葉擦れの音だけが響く。
やがて、蒼太が両手を頭上に突き出して大きく伸びをした。
「よし、俺たちも帰るか」
碧羽も小さく頷く。
「うん」
俺は天使たちが消えていった深い夜空をもう一度見上げ、小さく息を吐き出した。
「そうだな」
三人は肩を並べ、静かに境内の石段を下り始める。
過酷だった戦いは、こうして終わりを迎えた。
神社にはただ静寂だけが残り、穏やかな夜風が境内をどこまでも優しく吹き抜けていた。
***
神社からしばらく歩いたところで、俺はポケットからスマホを取り出した。
「ちょっと待っててくれ」
蒼太と碧羽が足を止める。
「ん、どうした?」
「ちょっと電話かけてもいいか?」
「いいよ」
俺は一つの番号へ電話をかけた。
一度の呼び出し音で、電話が繋がった。
『もしもし、橙真先輩?』
「ああ、咲」
『終わったんですか?』
「無事終わったよ。現れた邪神体も、全部倒した」
電話越しに、安堵したような声が返ってくる。
『良かったです』
俺は少し笑う。
「心配をかけたみたいだな」
『はい。でも、無事って聞いて安心しました。橙真先輩たちも、ゆっくり休んでくださいね』
「分かった。おやすみな」
『はい、おやすみなさい』
電話を切る。
俺はスマホをしまい、二人のもとへ戻った。
蒼太が笑う。
「咲か?」
「うん……無事って伝えといた」
碧羽も安心したように微笑む。
「そういう電話だったんだ」
「そうだけど」
三人は、静かな夜道を歩き始めた。




