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宵の口

 夜なのに生暖かい空気。遠くから聞こえる虫の音。そして街灯の光。私は塾からの帰り道を急ぎ足に駆けていた。心配性の兄の事だから、スマホにいつ頃帰宅できるか連絡しておいたのだけれど、少し遅く帰宅しただけで兄ときたら私を心配混じりの声で叱るのだ。もう小さい子供じゃないんだから、という私の抗議が耳に入ったとは思えない。兄はいつも昔からそうだった。正義感が強く弱者に優しい、剣道部の主将(エース)の兄。だからこそ、私があの夜に出会ったあの人について兄は干渉を決意したのだろう。


 彼はいつも孤独だった。しかし、それは私たちが想像するようなものではなかった。何故なら、彼は生まれ落ちたその時から異邦人だったからだ。


 黒野月臣。それが彼の名前だった。もっとも、今は過去の名前に過ぎなくなってしまったのだけれど。初めて会った時の彼は周囲に対し警戒心を(あらわ)にしていた。夜の(とばり)が降りた後、街灯を避け暗がりを歩くものだから彼の周囲は余計に暗く見えた。暗がりに潜む捕食者。彼の振る舞いはそんなイメージをしつこく与えていた。私は彼の横を通りすぎようとした時、それは起きた。生ぬるい空気がいつの間にか冷え、重い空気が漂い始めた。襲われる、そう感じた瞬間思わず目を閉じてしまった。狙われるかもしれないのに、足も動かない。しかし、いつまで経ってもその瞬間は訪れなかった。何か生臭い臭いが立ち込める。恐る恐る目を開けると、何か得たいのしれない黒いドロドロの液体が辺りに散らばっていた。そして目の前にいた彼は口の周りをその黒いドロドロで汚していたのだった。


「……あ」


 足元に散らばる黒い物体。口にまとわりつく嫌な感覚。ただ歩いていただけ。鋭い嫌な感覚がした時には、もう既に足元に黒い物が散らばっていた。訳が分からない。目の前の人は何が起きたか気付いてないようだ。自分自身も、何が起きたかさっぱり分からない。早くここを離れなければ。


 彼は目を見開き辺りを見回すと、明らかに顔色が青白くなっていき、彼は何も言わずにすごく速い勢いで駆け出して行った。一体何が起きたのだろう? そう思った時、後ろから誰かが駆けつける足音が聞こえた。駆けつけてきた二人は見慣れないお札と数珠を持っていた。


「大丈夫ですか! 怪我はないですか!」


 男女二人組は私を見るなり問いただした。おそらく、この黒いドロドロが原因なのだろう。私は冷静を装って問い直すことにした。


「あの、あなた達は誰ですか? そして何が起きたのですか? この黒い物は一体……」


「信じられないかもしれないけど、あなたは怪異に襲われそうになっていたんです。私たちは霊媒師でその怪異を追っていたんだけど、どうやら誰かが先を越したみたいね」


「え、怪異? 霊媒師って、あなた達は……」


「俺たちは霊媒師の白石兄妹だ。怪我がないようで何よりだが、これから夜を歩くときは気をつけた方が良い。得に俺たちの先を越したヤツには……」


 きっとさっきの人の事を言っているのだろう。確かにちょっと目付きが鋭いように感じたけれど……。


「さっきの人は怪異、という物より危ない人なんですか?」


 私がそう聞くと白石兄妹は表情を曇らせた。あの人について、何かあるに違いない。そう思わせるには十分だった。


「実はあなたを襲おうとした怪異を仕留めたヤツ、人間じゃないかもしれないの」


 それが、黒野月臣との出会いだった。


 それがちょうど8年前の年末の事だった。けれども、私が彼に再会したのは偶然だった。それまで私は彼に会うこともなく記憶すら薄れかけていたのだから。


 



 兄の賢士は朝が早い。日の出と共に起床するものだから、季節によっては6時にはすでに目が覚めてさながら雄鶏のようだ。もっとも、こんなことは兄の目の前で口にしなかったのだけれど。兄は起床するなり外に出る支度をしていた。


「ジョギングは朝ご飯を食べてからでもいいんじゃない?」


 玄関でランニングシューズを履いた兄に対して問いかける。私はこの前兄が空きっ腹で朝ランニングをして倒れかけた事を思い起こしていた。


「大丈夫だよ。あの時は勢いを出しすぎただけだから。心配することないよ、里奈」


 爽やかな笑顔で答える兄。もう少し真剣に考えてくれても良さそうなんだけど、これ以上言っても暖簾(のれん)に腕押しなのは分かっていたので私は口を閉じた。兄の体の事をよく分かっているのは兄自身だと言い聞かせながら。




 私の実家、翠川家は少し異質だ。翠川の血筋の女性は霊感が強く、漏れなく私もその力を受け継いだ。だからか翠川家の事を知る人たちから口コミが広がったのか依頼が時々入ってくる。大学を卒業し社会人になった私は二足のわらじを履くことになったのだ。依頼が舞い込む度に緊急を要する場合は仕事を休まなければならなかった。心霊に関する事に精神的な疲労は付き物なため、私自身も依頼を終えた後に自室の部屋でお香を焚いて気持ちを落ち着かせなければならなかった。たとえ幽霊がでなくても、部屋に澱みが残っている場合があるのだから。

 

 お香を焚きながらいつも通りメールをチェックをしていると、数件依頼のメールが来ていた。中には冷やかしや嫌がらせのメールがあるから余程の事がない限り開かない。しかし、とあるメールが私の目を惹いた。


『大至急! 隣のアパートの事故物件部屋に怪異が住んでる件!』


 まるでよくあるライトノベルの題名みたいである。メールの送り主はどうやら動画配信者のようだ。動画をアップする時のノリがそのままメールのタイトルになったみたいだ。私はそのメールを削除しかけたのだが……。


「おや、このメールに書いてある住所、確か月臣が引っ越した所じゃないか」


「兄さん、いつの間に帰ってきたのっ」


 いつの間にやら兄はメールを開いて中を見ていた。悪気がないことは分かるけど、兄は時々こうして私のプライバシーな部分を覗く事がある。兄いわく、大切な家族や仲間に関する事は知っておきたいらしい。私は慣れているけれど、家族以外にこういう事をしないようにして欲しいと今でも思っている。人には誰にでも秘密はあるものだし、秘密があることで人の魅力が高まる事もあるのだから。


「友達と約束していた事を思い出したんだ。早く朝食を食べないとだね」


 兄はいつでも他人を軸にして考えるからか、兄自身の状況が切羽詰まっていても優先されるのは私たち家族や仲間や友達の方だ。


「まあ……ね」


「朝食を食べてすぐに月臣に会いに行くよっ」


「……へ?」


 一瞬頭が真っ白になる。いったい何を言い出すかと思ったら……。私は気持ちを切り替えて兄に言うことにした。


「兄さん、そこ電車で一時間以上かかるところよ。それに、その月臣さん? という人も兄さんが押し掛けていったら迷惑じゃない……」


「それじゃ、用意してくるよ! 友達との約束は昼からだからね!」


 言い出したらテコでも動かない頑固な所がある兄は相手の事情もどこ吹く風のようだった。


「……兄さん自身の体調の事も考えてよ」


 どうやらその月臣さんは兄の高校生の時の同級生らしい事が後に分かった事だ。


 このメールの内容は大した事はなかったものの、これが後に黒野月臣に再会するきっかけになるとは予想だにしないことであった。

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