破られ続けた約束と、その先にあったもの
オーストリオ国には、他の国にはない独自の慣習がある。
それは、婚約式だ。
特に派手な式ではなく、最低でも婚約者同士が居れば良いというもので、二人そろって書類に署名する事で、婚約の証とする。
その書類は神殿に届けて管理され、台帳にも記載されるため余程の事が無いと解消は出来ず、ほぼ結婚したも同然となるのだ。
書類には予め結婚の予定日が記載されていて、たとえその日に式を挙げなくても、二人が遠く離れた場所に居ても、日付を越えたら婚姻したと見做される。
その為、式は婚約書の日付の日に行うのが良いとされてはいるが、その日を過ぎても構わない。
故に、学生の身分でも結婚自体はもう済んでいる人々もいた。
とはいえ、実家と婚家の話し合いで、大抵は式や披露は卒業後。
それが終わるまでは親元で過ごす事が多い。
稀に婚約者の家で家政や経営を学ぶために、住み込む事もあるけれど。
それが私、ミレニア・フォムス子爵令嬢だ。
昔、王家主催の狩猟大会でたまたま狩猟場と隣接する森で薬草を摘んでいたところ、怪我をした公爵令息のルディット・エンハンスを救ったのが婚約のきっかけだった。
婚約といっても口約束だけで、婚約式はしていない。
ただ、当時の当主であったエンハンス公爵夫妻とルディット本人の申し出で、婚約の打診があって断れなかったのだ。
彼は金の髪に緑の瞳の麗しい貴公子で、誰もがその均整の取れた彫像の様な美しさに目を留める。
私だって最初はときめいたものだ。
最初は。
出会ったのは十四歳の頃。
その二年後には正式の婚約の予定だった。
けれど、十七歳になった今、婚約はまだしていない。
エンハンス公爵夫妻は外交官として隣国に居て、ルディット本人もしょっちゅうその隣国のテュールベリー王国へと行くので、十五歳になるまで全く会う機会が無かった。
十五歳になってオーストリオ国での学園生活が始まると、テュールベリー王国の第二王女のアンナマリーと共にルディットは学生生活を送り始めたのだ。
アンナマリーと共に、というのは殆ど彼らは一緒に行動していたから。
誰も一年前に私がルディットを救った事を知っていても、婚約の打診があった事は知らない。
私も言う必要はないので周囲には言っていなかった。
知っているのはごく一部。
ルディット本人と王女のアンナマリー、そしてその側近達だけ。
だから、彼女が何故か自慢してくる度に、相槌を打つ生活が始まった。
「ねえ見て、これルディがわたくしの為に贈ってくださったの、綺麗でしょう」
アンナマリーが自慢げに手に嵌った煌めく緑柱石の指輪を見せて来たので、私は頷いた。
「ええ、綺麗でございますね。お似合いでございます」
「貴女、一昨日誕生日だったのでしょう?」
何故、知ってるんですか……と思いつつルディットを見れば、彼はすと目を逸らす。
「はい」
私がアンナマリーに視線を戻して頷くと、彼女はにっこりと微笑む。
「髪飾り、頂いたのでしょう?わたくしがあまり好きではない意匠だったので、ルディに下賜したのよ。貴女の誕生日に贈ると良いと思って」
「そうでございましたか。お心遣い、ありがとう存じます」
他人のおさがりだとは思わなかったけど、別に傷ついたりはしない。
頭を下げた私に、満足げにふふん、とアンナマリーは嗤った。
髪飾りは別に壊れていたわけじゃないし、普通に綺麗な物だったから、宝石箱に入れてある。
ルディットにはお礼の手紙も送った。
「いいのよ。ルディは気が利かない所があるのよね」
「もう、いいだろう」
彼女の絡みを止めさせるようにルディットが割って入る。
こういうの、何回目だろう。
二人の恋愛の間に挟まれて、私はうんざりしつつも、控えめな笑みを崩さずに見守る。
私はルディットを愛していない。
命を助けたという恩があるだけで、思い出なんてものもないから、約束を守られない悲しさはあっても、諦めの方が勝っていた。
元々、望む縁談ですらなかったのだ。
私は子爵家の嫡女で、後を継ぐ予定だったから。
急遽、妹のシャリアまで後継としての教育が始まったけど、単なる口約束だったので正式な跡取りは空席のまま。
私は学生生活と共に、公爵家に住み込まされて、家政と領地経営を学んでいた。
そう、一緒に住んではいるのだ。
出来るだけ顔を合わせないようにしているけど、領地の仕事の手伝いでは執事や政務官を挟んで仕事をする事もある。
家を取り仕切る侍女長の手伝いをしながら、使用人達とも接する機会が多く、夫妻やルディットの話も色々と聞いた。
彼の事を愛していれば、それだけで思い出として積み上がったかもしれないが。
私にとってはただの情報の一端でしかない。
見た目は文句なし。
性格も別に悪くはない。
紳士的だし、優しい。
でも他に好きな人がいる人を愛するのは、無駄だと私は思っている。
無駄、と切り捨て切れない気持ちが湧く人はいるだろう。
素敵な人が側に居れば、自然と好きになってしまう、と。
常に約束を破られ続け、婚約式の予定が立つ度に、アンナマリーの横槍が入るのだから仕方ない。
彼は、ちょっとした彼女の用事でさえ、優先するのだから。
十七歳になった春。
七度目の延期の報せを、アンナマリーの騎士が申し訳なさそうに報せに来た。
「王女殿下が体調を崩されて、どうしてもエンハンス公爵令息に側に居て欲しいと」
「分かりました。どうぞお大事に、とお伝えください」
私が頭を下げると、騎士は形の良い眉を下げる。
「申し訳ありません」
「いえいえ、貴方が悪いわけではございませんから、どうぞ謝罪などなさらないで」
騎士を見上げて微笑むと、彼は驚いた顔をした。
「怒っては、いないのですか?普通は怒ったり悲しんだりするものでは」
「公爵家や王家には逆らえませんし、吹けば飛ぶような名誉でございますもの。それに、本当はこの婚姻に乗り気ではないのでございます。わたくしは、子爵領で今まで通り領民達と平穏無事に暮らしたい」
遠く、地平線まで広がる青空。
風に揺れる麦の穂。
森の木々や土の香り。
王都の雑踏や煌びやかな夜会よりも、ずっと居心地の良い場所だ。
「この国では確か、婚約式が大事なのだと聞きました」
騎士が沈痛な面持ちで言う。
何度も流れている、大事な婚約式。
「ええ、まあ……よくご存知でいらっしゃいますね。ほとんど結婚と同じと言っても過言ではございません。期日を過ぎれば婚姻と同じ扱いを受けますし、最低でも当人同士がいればすぐ済む式なのでございます」
眉を顰めた騎士は静かに頷いた。
「最初は……わたくしも夢見ておりましたよ。父も母も。家を飾り立てて、食事も用意してお待ちして。……でも彼は来なかったのでございます。三度で用意は止めましたけれど」
何故か、関係のない騎士が辛そうな溜息を吐く。
その時の父や母の落胆した表情を思い出した。
私までが親不孝をした気持ちになって、四度目は二人で行う事にしたけれど、今日と同じ。
アンナマリー王女がどうしても、とせがむから観劇に行くために反故にされた。
それからはもう、父や母にも婚姻どころか婚約もしないかもしれない、と伝えてある。
両親は私が傷ついているんじゃないかと心配してくれたけど、それは無いと否定したらほっとしていた。
「王女が輿入れなさるまでの辛抱かと」
「そうかしら」
私の即答に、騎士はハッとした顔をする。
微笑みながら続けた。
「何処へ行こうと誰と結婚しようと、同じではございませんか?わたくしの優先順位は低いままでございましょうし、誰とも結婚出来ないまま縛られ続けるのは」
「それは、私も同じかもしれません。王家に仕える者として、結婚を許されないまま……」
騎士を改めて見上げる。
銀の髪に青い瞳の精悍な美貌。
王女のお気に入りの騎士であり、隣国の子爵令息、ヴァルド・ガルシア。
「では、わたくしと結婚いたしませんか?」
思わず滑り出た言葉に、私は自分で驚いてしまって口を押えた。
「あ……申し訳ございません」
彼も私も同じだと思ったら、自由になる為に良いと瞬時に思ってしまったのだ。
「私で宜しければ」
でも彼も、瞬時に答えた。
跪いて、私の手を取り、甲に口づける。
そして、そっと立ち上がった。
「ただ、法律として問題は無いのか、調べておきます。問題が無ければまた、貴方の元へ参ります」
「承知いたしました。お待ち申し上げております」
最初は罠じゃないかとも思ったけれど、その後もアンナマリーはルディットの事でしか私に自慢してこない。
今まではずっと面倒だと思っていたけれど、ヴァルドと会えるので段々楽しみになっていく。
ただ、気を付けないといけないのは、視線。
思わず綻んでしまいそうになる口を引き締めて、緩んでしまいそうになる頬を手で押さえる。
ルディットが怪訝な視線を向けて来るが、私は何もない風を装って我慢していた。
「ミレニア嬢」
「はい、何でございましょうか」
私は以前より、幸せを感じていた。
勿論、ルディットと居る事ではなく、私のこれからの人生に希望が見えたからだ。
ルディットは、執務室で暫し私を見つめた。
「次は必ず、約束を守る」
「何の約束でございましょう?」
大事な婚約式でさえ七度破られて、大小様々な約束は数えきれないほど反故にされている。
夜会だって同行された事は一度もない。
問い返されたルディットは、少し沈黙を重ねた。
「婚約式だ」
「無理はなさらないでくださいませ」
「無理などしていない」
まあそうですね、と私は相槌を打つ。
無理をしていないからこそ、破るのでしょうし。
でももう、物理的に無理だという事は知らせない。
どうせ、八度目もその先も、守られることは無いのだから。
「左様でございますか」
あっさりと引いた私に、何故かルディットが焦った様に言う。
「たまには一緒に夜会に行こう。同行をするから」
「……何時の夜会でございましょうか?アンナマリー様の同行はどうなさいますの?」
私の問いかけに、一瞬ルディットは固まった。
どう考えても、アンナマリーは絶対に邪魔してくる。
「一か月後の王宮主催の夜会だ」
「ですが、婚約もしていないのに、同行でございますか?それはあまりにも外聞が悪うございます」
公爵邸に一緒に住んではいるが、私にはいつだって公爵家が付けてくれた侍女がいる。
密室で二人きりになる事もない。
執務室では家令や執事、政務官や文官もいるのだ。
なのに、突然婚約もしていない私が夜会に同行されたら?
周囲の人々は驚くだろうし、恥をかくのは私だ。
まあ、そんな心配は要らないんだけど。
どうせ、邪魔されるし。
「では、その前に婚約式を済ませればいい」
「承知いたしました」
承知したけど、履行されることは無い。
だって、その日の予定をヴァルドに伝えて、ヴァルドから王女に伝えて貰えば良いんだもの。
婚約式の日、私はやっぱりすっぽかされた。
八度目のお流れです。
伝えに来たヴァルドも苦笑していた。
「折角ですから、お庭の散歩でも致しませんか?」
「ええ、婚約者殿」
公爵邸の庭だけど、侍女は微笑んで後ろを付いてくる。
私とヴァルドは既に婚約式を済ませた。
父と母と妹の了承を得て、結婚後は子爵家に婿入り予定だ。
彼は学生の身分だが、既に騎士として隣国で叙勲を受けている。
だが、それも除隊済みであり、オーストリオ国で既に叙勲し直す手続き済だ。
これは個人の事なので、王女が相当緻密に管理していない限り分からない範囲。
ガルシア子爵家でも、嫡男がいつまでも王女の騎士として使い潰されることに関して名誉だとは思っていない。
けれど、次男の後継教育はしていたので、婿入りの話も喜んでいたらしい。
二国間の結びつきであり、私は既に両家が手を結ぶための強みも考えている。
だからこそ、この婚約は両家にとって喜ばしい物だった。
「このお庭を歩くのも、あと数か月の間でございますから楽しみましょう」
「ええ。フォムス子爵領についても勉強したいので、今度資料を頂けませんか」
「勿論でございますわ」
結婚の期日は後少し。
婚姻式をしたといっても、書面で指定できるのは三カ月先である。
この国では三カ月の婚約期間を挟まないと、結婚は出来ない。
出会って恋に落ちて、その日の内に結婚、というのが許されないのだ。
理性的な結婚を守る為の法律だと言われているし、貴族の結婚としては合理的なのである。
エンハンス公爵邸の庭の薔薇は白薔薇で、芳醇な香りを放っている。
その薔薇に囲まれた東屋でお茶を飲み、ゆっくり過ごしてからヴァルドは王女の元へ戻っていった。
私はのんびりした休憩時間を終えて、いつも通りに家政と執務に精を出す。
変わらない日常。
そこにルディットが居ても居なくても。
「昨日は済まなかった」
「お気になさらないでくださいませ」
罰が悪そうに謝ってきたルディットに、私は微笑んで答える。
最初から成立しないと分かっていれば、何も悲しむことは無い。
というか、他の人ともう成立しているので、二重に婚約は出来ないのだ。
きっと、九回目の婚約式をすればいいのだろう、と彼は軽く考えているだろうけれど。
残念ながら、もうその日は来ない。
「夜会には一緒に出よう。私達の仲だ」
「先日も申し上げましたけれど、外聞が悪うございますので、ご容赦くださいませ」
「いずれ結婚するのだと、皆知っているだろう」
その言葉に、私は首を傾げる。
そうだろうか?
学園でも一緒に過ごすことは無く、一緒の馬車で登下校もしていない。
婚約者でもないのに、馬車に同乗する事は出来ないと断ってから、それが普通になっていた。
だから、学園でもごく親しい友人しかしらないのだ。
しかも、王女と長い時間過ごしているのだから、猶更。
「そうでございましょうか?皆様、ルディット様と殿下がお似合いだと申しておりますよ」
「彼女はただの従妹で幼馴染だよ。それ以上でも以下でもない」
「左様でございましても、皆様はどうお考えか……わたくしは存じません」
だが、ルディットは甘く優しい笑顔で言い放つ。
「何を言っているんだミレニア、君は私の命の恩人じゃないか。公爵家を支えてくれている君を、私が妻に迎えないはずがないだろう。殿下とのことは、ただの付き合いだよ。君も分かっているはずだ」
「ええ、わたくしは分かっておりますけれど、皆様はそう思ってはいらっしゃらないかと」
「はは、周りの目なんて気にするな。君が私の命の恩人であり、未来の公爵夫人だということは、揺るぎない事実なんだから」
皆知っていると言ったのに、気にするなと言い出した。
本当に本気で、私を妻として迎える気なんだろうか?
私はとても不思議な気持ちになる。
「左様でございますか……ではわたくしはまだ帳簿の整理が残っておりますので、失礼いたしますね」
淑女の礼を執って、私はそのまま夫人用の執務室へと足を向ける。
理解不能なルディットと言葉を交わす時間が勿体ない。
きっと彼にとっては私はただの物なのだろう。
そこに在る物。
放っておいても便利に働いて、気が向いたら自分の好きに扱える物。
構っても放っても構わない、そんな適当な物。
感情があるとか、意志があるとか、そういう風には考えていないのだろう。
まあいいけど。
夜会の日。
私は全ての荷物を子爵邸へと送り出した。
元々私の私物は少ない。
二年間、公爵邸で色々な事を学ばせて貰った。
特に侍女長にはお世話になったので、最後の挨拶を使用人達にも伝える。
夜会の為に用意した衣装は青に銀の刺繍がされている、ヴァルドの色を模した物だ。
宝飾品は全てヴァルドが贈ってくれた物。
衣装は青い色で仕立てて、銀糸の刺繍は一か月こつこつ自分で仕上げた。
迎えに来たヴァルドは、私を見て眩しそうに目を細める。
私の黒髪は侍女に綺麗に結い上げられて、銀の髪飾り《リボン》で飾られていた。
「美しいよ、ミレニア」
「ありがとう存じます、ヴァルド様」
ヴァルドも黒い布地に、私の瞳と同じ灰色の宝石をあしらった襞襟とカフス。
落ち着いた出で立ちが彼の美しさをより引き立てている。
「ヴァルド様も素敵でございますわ」
「ありがとう。さあ、行こうか」
「はい」
会場は王家主催だけあって、美しく飾られていた。
色とりどりの花が飾られ、吊り下げ燭台の火に照らされた白い大理石の床や壁も輝いている。
そんな中、私とヴァルドを見た二人が、呆然とした顔をしていた。
アンナマリー王女とルディットだ。
二人は腕を組んだまま、ぽかんとこちらを見ている。
「……何をしているんだ、二人とも」
引き攣った笑顔を浮かべたルディットが、言葉を続けた。
「ヴァルド、殿下の護衛はどうした。それにミレニア、君は『外聞が悪い』と言って、私の誘いを断ったじゃないか。なぜ他の男と、それも殿下の騎士とこんな場所に……冗談が過ぎるぞ」
一方、その隣でルディットの腕に手を掛けていた王女は、顔を真っ赤にして絶叫した。
「ヴァルド! 何を考えているの! 貴方は私の騎士でしょう? なぜそんな女の手を取っているの! 早く離しなさい、不愉快よ!」
王女は、自分のお気に入りだった騎士が、見下していたはずの私を同行している事実に誇りを激しく傷つけられ、周囲の目も構わずヴァルドを問い詰める。
しかし、ヴァルドは王女の怒りもルディットの困惑も、他人事のように聞き流し、静かに口を開いた。
「アンナマリー王女殿下、そしてエンハンス公爵令息殿。私は既にテュールベリー王国にて除隊届を受理され、こちらのミレニア嬢……いえ、我が妻の家であるフォムス子爵家へ婿入りいたしました。ですので、私はもう貴女の騎士ではございません」
「な……妻だと? 何を言っているんだ、ミレニアは僕の……」
絶句するルディットの視線の先で、私はいつも通りの微笑みを浮かべて告げる。
「ええ、エンハンス様。先日お伝えしました通り、婚約もしていない殿方と夜会を共にするのは外聞が悪うございますから。……夫であるヴァルド様とならば、何の問題もございませんでしょう?」
私は傍らの精悍な美貌を持つ夫を見上げる。
夫のヴァルドも、優しい眼差しを返してくれていた。
「待ってくれミレニア! 九度目の婚約式は、この夜会が終わればすぐにでも挙げると約束する。殿下のお側を離れられなかったのは、同盟国としての礼儀であり、公務のようなものだと君も分かっているだろう?」
ルディットは、自分の不誠実を公務や礼儀という言葉で正当化し、私に理解を求めようと必死に言葉を重ねる。
もう、そういう事ではないんだけど。
けれど、彼の言葉は止まらない。
「君は私の命の恩人だ。公爵家を支えてくれている君を、私が妻に迎えないはずがないじゃないか。……さあ、その騎士の手を離してこちらへ来なさい。公爵夫人としての地位も、君への感謝も、これから一生かけて返していくから!」
確かに、人にとっては特大の恩返しだろう。
でも、何度もそれを盾にして踏みつけられたら、それは呪いにしかならない。
最初から欲しいなんて思っていなかったのだから、余計だ。
彼にとっては、どれだけ価値のあるものだとしても。
「お怪我を治療して差し上げたあの日から、わたくしは今日まで、公爵家のために最善を尽くして参りました。家政も領地経営の引き継ぎも、全て完璧に整えてございますわ」
業務報告のような言葉に、ルディットの顔が凍り付く。
「……な……?」
「貴方が殿下への礼儀を優先されたように、わたくしもまた、子爵家としての決断を優先いたしました。本日、正式にこちらのヴァルドを夫として迎え、入籍も済んでおりますの。お二人が健やかであることを、心よりお祈りしておりますわ」
周囲の人々は、私に同情的であり好意的でもある。
充分長い間、エンハンス公爵家に尽くしてきた。
勿論、学びがあるから、私もその時間を無駄にしては来なかったのだけれど。
何より『婚約すらしていない』状態であった私達の縁に強制力はない。
正式に夫婦になった私とヴァルドの間に入り込む隙は無いのだ。
「嘘よ……ヴァルド、戻りなさい! 貴方は私の一番なのよ! その女の婿になるなんて、絶対に許さない!」
「殿下、言葉をお慎みください。既に私は婚姻した身でございます。そして、この国で叙勲を受けた騎士でもあります」
アンナマリーが取り乱して叫ぶ。
正直、私は驚いていた。
ヴァルドはお気に入りだろうとは思っていたが、一介の騎士でしかない。
そこまで執着しているなんて想像していなかった。
「……叙勲、ですって? 貴方は、私の騎士だったはずよ! 私の国で剣を誓った、私の一番のお気に入りだったじゃない!」
「それは既に過去となりました。今はこのオーストリオ国の騎士であり、愛しいミレニアの夫にございます」
ルディットはまだ信じられないと言うように呟いた。
「ヴァルド……君は、僕が王女殿下と過ごしている間に、ミレニアとそんな約束を……。叙勲まで済ませていたというのか」
「妻の名を呼び捨てにしないで頂きたい。私は私の任務を全うしていただけです。そして、貴方に恩ではなく仇を返されても健気に責務を熟す、ミレニアを愛している。だからこそ、殿下のお側を離れる手続きを進めたのです」
ヴァルドの言葉に、またアンナマリーが発狂したように叫ぶ。
「愛している、ですって!? ヴァルド、貴方……私の前で、そんな女に……!」
アンナマリーはずっと私を見下して、笑っていた。
だからこそ、自分の執心していたヴァルドが私に愛を捧げた事が許せず、怒りに唇を震わせる。
「嫌よ、認めないわ! 貴方は私の騎士でしょう? 私が一番可愛がってあげたじゃない! なぜ……なぜその女なの!」
王女が狂ったように叫んでも、ヴァルドの視線は彼女に戻らず、私を見つめる。
私はその力強い眼差しを見上げて心から安心して微笑んだ。
「申し訳ありませんが、殿下。ヴァルド様はもうわたくしの正式な夫でございます。テュールベリー王国の騎士ではなく、オーレリオ国の騎士であり、既に殿下の側仕えの任務も本日終了したそうでございます」
「……本日、終了……? そんな、聞いていないわ! 認めない、認めないわよ!」
認めない、と言われても、既に法律によって定められた手続きは終わっている。
少なくとも他国での権威は無い。
王権を振り翳したとしても、神殿が認めている以上、その権利はこの国の王族にすらない。
「ルディット、何とか言いなさい! 貴方の家の居候が、私の騎士を……私のヴァルドを奪ったのよ!」
王女が狂乱してルディットの腕を掴むが、彼はそれに応える気力もないようだ。
絶望したような目で、私達を見つめる。
「……ミレニア、君も……君もヴァルドを、愛しているというのか。僕との婚約を待っていたのでは、なかったのか……」
「以前は、待っておりました。でも、今日まで叶えられる事はございませんでしたのが、その答えではないでしょうか」
彼の心に届くかどうか、それは分からない。
でも約束は守られる事は無かった。
「今日まで叶えられることはなかった……それが答え……」
何度も、何度も破られた、約束。
ヴァルドとの出会いが無くても、私はきっと逃げ出していたと思う。
幸いにも家族は、権力に固執していなかったから。
私は手を添えたヴァルドの腕の動きに従って、彼らに背を向ける。
「ミレニア……待ってくれ、行かないでくれ! 私が悪かった、これからは……!」
ルディットが必死に手を伸ばそうとするが、その指先はヴァルドの逞しい腕に阻まれる。
「妻を困らせないでいただきたい。貴方にはもうこれから、などという未来は残されていない。ミレニアとの未来は私が作っていくのですから」
ヴァルドの冷徹な一言が、ルディットの逃げ道を塞ぐ。
王女は隣で「ヴァルド! なぜ、なぜそんな女に……!」と、プライドをズタズタにされて泣き叫んでいるが、ヴァルドの瞳には、もう王女の姿など映っていない。
私達はそのまま背を向けて歩き出す。
人々の間を縫って、親しい人々に挨拶をして回った。
「おお、ヴァルド卿。殿下の元を離れ、我が国の騎士となってくれたこと、心強い限りだ」
「ミレニア夫人、貴女ほどの有能な方が公爵邸を去るとは惜しいと思っていたが、自領を継がれるのなら話は別だ。ぜひ今度、経営についてお聞かせ願いたい」
「ええ、是非。伯爵とのお話の機会を頂けるのは大変に光栄な事と存じます」
遠くに聞こえる王女とその従兄の言い争いを背に、私とヴァルドはこの国の貴族達との親交を温める。
彼らの後悔は、結局自己愛だ。
自分を飾る宝飾品を失ったという後悔でしかない。
そして、手に入らなかったからこその渇望。
そんなくだらない二人の諍いに、もう付き合う必要はないのだ。
テュールベリー王国の国王の判断は早かった。
残りの学園生活で王女の周囲に配備される騎士は既婚の中年騎士に差し替えられたのだ。
王女の周囲の侍女達も、美男の騎士を狙っていたのに、突然の変更に不満だらけ。
一番の騎士を自らの遊びで手放した無能な王女に対する視線も冷たくなった。
だからこそ、彼女が嫉妬で文句を言おうと慰める人間がいない。
逆に私達は、周囲に祝福されていた。
教師達ですら、他国から帰化してまで私を支える決意をしたヴァルドを英雄的騎士として扱い、公爵家での手腕を有能だと言われていた私と理想の二人として位置づけたのである。
誇らしくもあり、こそばゆくもあり。
そして、朝起きてから、夜眠るまで。
常に大事に同行して守ってくれるヴァルドの存在が何よりも心を満たしてくれた。
「ヴァルド様、わたくし、こんなに幸せで良いのかしら」
「それは、私の言葉だよ、ミレニア」
まるで過去が色褪せて見えるほど、ヴァルドとの一日は素晴らしく幸せだった。
最近は、色んな友人に『早く領地で幸せになれ』と言われるのが嬉しくて。
この先一生、この人と生きていけると思うと、今までずっと恩を盾に結婚を押し付けて来たルディットにも、ヴァルドをこの国に連れてきてくれた王女にも感謝の気持ちしか涌かない。
きっと私達は、共に白髪になるまで、この気持ちを忘れる事はないだろう。
アンナマリー王女は学園を卒業するまでの半年、何かと騒ぎを起こしていたけれど、結局ヴァルドをどうする事も出来ないまま。
国王の命によって、遠い国の好色な老貴族の側室として迎えられた。
何度も人の婚約を壊し、有能な人材を他国に流したという汚名は、周囲の国の王族からは忌避されたのだ。
気に入っていた若い騎士を連れて行く事も出来ず、彼女にとって嫌悪する父親よりも年上の老人に夜の相手をさせられる日常に、執着していたヴァルドの名を呼び続ける地獄の様な日々を過ごしていく。
ルディットもルディットで、何度も約束を破り恩を仇で返した事実が、愛や約束を重視する令嬢達を遠ざけた。
結局、妻になっても良いと嫁いだのは最初から財産と権力しか求めない人物だったのである。
ルディットは常に優秀なミレニアと妻とを比べる事になり満足出来ないまま、冷たい結婚生活を送った。
ヴァルドとミレニアはすぐに子宝にも恵まれて、優秀な夫妻として子爵領を治め、両国間の友好の証としても活躍したのである。
何だかこう…常にスペックが高い人が現れる話が多いので、違うパターンをと思って書いてみました。あとは婚約→結婚についてのオリジナル設定。普通の婚約より強制力をもたせたかったのでした。小さなものから大きなものまで約束を破る人は嫌ですね。




