第2章 アルトリヒト神話ーー眠れる女神と神の器 第2話静かな違和感
そして現在、夜明けの冷気がまだ残る帝都オルデンにある皇城の外庭。剣がぶつかる硬質な音が、白い息とともに澄んだ空気を裂いていた。
「ハッ……!」
近衛騎士団長、レオナルト・フォン・ディアス侯爵の鋭い突きを、皇太子アレクシウスは半歩だけずらして受け流す。そのまま刃を絡め、足さばきで一気に間合いを詰めた。
ガキィン──。
最後の一撃で、レオナルトの剣が大きく弾かれる。近衛騎士団長の鍛え抜かれた腕が、わずかに痺れた。
「……本日の鍛錬は以上です、殿下」
レオナルトは息を整えながら剣を下ろした。周囲の近衛たちは皆、シャツが汗で肌に張り付き、肩で息をしている。その中で、アレクだけが別世界だった。
「まだいける……!」
額に汗ひとつ浮かべず、呼吸ひとつ乱れていない。銀に近い柔らかな金髪が朝日を受けて光り、ペリドットの瞳だけが静かに熱を帯びている。
「……この後の議会の準備を考えると、いい時間ですよ」
近衛騎士団長の俺が体力負けしそうなのを認めたくなくてそう答える。
「……わかった。レオ、今日も付き合ってくれて助かる」
穏やかな声。けれど──レオナルトは眉をひそめた。
……おかしい。昨日までよりさらにキレが増してる。今の踏み込み、昔の“戦場に出ていた頃の父上”レベルだ……
レオナルトの違和感をよそに、アレクシウスは軽く剣を払うと、鍛錬場の端の東屋に視線を向けた。
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鍛錬場に隣接する東屋では、執事フィンツ・レーマンが小さな卓に温かな茶と書類を整え、静かに控えていた。
「殿下、本日の議会資料でございます」
アレクシウスはタオルでざっと汗を拭うと、椅子に腰掛けるより早く書類を手に取る。ページを一度、視線がなぞっただけで、内容をすべて頭に収めていく。
「……問題ない。議題の順番だけ、ここを後ろに回してくれ。ゼラニアの件は、国教会より後だ」
「承知いたしました」
フィンツは恭しく一礼したが、内心では別のことに驚いていた。
……鍛錬の様子。明らかにここ数ヶ月より切れ味が戻っておられる。むしろ、若い頃より調子が良い……
思わず少しだけ目を細める。この数年、アレクシウスは医師の処方した「安全性の高い避妊薬」を、フィンツ経由で服用してきた。
きっかけは、エルフリーデとの結婚前。
──「妊娠と出産は若い身体には大変負担と聞く。母子共に亡くなる者も少なくない、とも。エルはまだ16歳だ。耐えられるようになるまで子供は待ちたい。」
エルフリーデ様には内緒で医師を呼び出し、だから避妊薬を準備しろと指示するアレクシウス様は、理屈としては正しい。だがフィンツは長く仕えてきた勘で理解していた。
本音は……もう少し、二人だけの時間を楽しみたかったのでしょうね、殿下。
薬は医師のお墨付きで毒性も少ない。だが、どうしても身体への負担はゼロではない。
少しだけ疲れやすく、体調の波も増える。それを、何年も見てきた。
──そして先日。舞踏会の夜を最後に、アレクシウスはふっと薬瓶を返してきたのだ。
『……もういい。この先は、要らない』
その声には、迷いのない決意があった。
……正直、ホッとしておりますよ、殿下。これで、お身体も本来の調子に戻る。エルフリーデ様のお悩みも、そう遠くないうちに“喜び”へと変わるでしょう
東屋の陰から鍛錬の様子を見ていた近衛たちがひそひそと囁き合う。
「……殿下、今日やけにキレッキレじゃなかったか?」
「お前だけじゃない。団長も本気で押されてたぞ、今」
レオナルトも茶を一口含み、アレクシウスを値踏みするように眺めた。
「……なあ殿下。今日はいつもより“二割増し”で容赦なかったな?」
「そうか?」
「そうだよ。さすがに俺も途中で“ちょっと死ぬかも”って思ったぞ」
アレクシウスはわずかに視線をそらした。
「……最近、体調がいいだけだ」
それが問題なんだよ。お前、体調良いときの方がタチ悪いんだって……
レオナルトが心の中で頭を抱えたところで、フィンツが空気を変えるように咳払いした。
「殿下。医師よりエルフリーデ様に、とお預かりしております。滋養強壮と、冷えを和らげる薬茶にございます」
小さな瓶と茶葉の包みを差し出す。
「わかった。朝食の席で渡そう」
瓶を受け取るアレクシウスの表情は、どこまでも自然だった。先日まで自分が飲んでいた薬とは違う。今度はただ、愛する妻の体を気遣うだけの、当たり前の配慮だ。
レオナルトがわざとニヤリと笑った。
「……で、昨夜も“ほどほど”だったか?」
「……わかっている」
即答。
「はぁ……、うちの可愛い妹は誰かさんと違って鍛えてないから体力ないのでね、そこら辺はご配慮願いますよ、殿下」
「………………わかっている」
だがレオナルトもフィンツも、心の中で同時に思った。
((絶対わかってねぇ))
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朝食の席。冬宮の窓から柔らかな朝日が差し込み、白いテーブルクロスの上に金食器が静かに光っていた。その一角に、皇太子夫妻の席が並ぶ。
白を基調にしたドレスに、銀の髪がさらりと肩へ流れ落ちる。その輝きは、朝日を受けるたびに淡く光を返し──
まるで彼女自身が光をまとっているかのようだった。
朝日を受けて淡く輝くその髪に、後ろに待機していた侍女たちが息を呑む。
「今日もとても素晴らしいお髪ですね、妃殿下。朝日に照らされてまるで神が使わした天使のようですわ」
「そうそう!アルトリヒト神話の女神様の様です!」
長くエルフリーデに使える侍女達が、褒め称える。
「殿下も……お気に召してくれるかしら?」
エルフリーデは、頬を染めて視線を落とした。
侍女たちは揃って、遠い目をして硬直する。
気にいるどころが昨晩もベットで中々離して貰えなかったご様子ではないですか!妃殿下、無自覚ですか??
「もちろんです!」
満場一致で断言する声が揃いすぎて、エルは首を傾げる。
光を受けてきらめく銀髪に、深い碧眼。帝国でこの特徴を持つ者はほとんどいない。だからこそ、知る者が見れば誰もが思う。
――“アルトリヒトの残照”だ、と。
だか、エルフリーデはその事を知らない。
アレクシウスの到着を待つ間、エルフリーデはふと胸の奥がざわつくのを感じた。
ディアス侯爵家に代々残る肖像画──その中に、銀髪の者は一人もいない。
一代前の父は、黒髪に黒い瞳。
強く、逞しく、凛々しい人だったと聞いている。
母は、淡い栗色の髪に優しい瞳。
兄レオは父に似た体格と気迫、髪と瞳は母譲り。
では、自分は?……私は、誰にも似ていない。
母の生家であるホーエンベルク侯爵家を調べても、銀髪はいなかった。
三歳の冬──
両親を襲った悲劇の記憶はほとんどない。
覚えているのは、
父が最後にくれた頬へのキス。
母の腕に抱かれていた温もり。
そして、――間違いなく愛されていたという確信だけ。
けれど、銀髪の自分がディアス家の誰とも似ていないという事実は、ずっと胸の奥に刺さったままだ。
最近……少し心が弱くなっているのかもしれない。
小さく息を吐いた瞬間。影が差し、エルフリーデの思考がふっと途切れた。
アレクシウスが、いつものように隣へ座ったのだ。
「体調はどう? フリーデ」
「ええ、大丈夫よ。ただ……少しだけ、腰が……」
言いかけて頬が熱くなる。昨夜のことを思い出してしまったのだ。
「そ、そんなに心配するほどではありませんわ。ただ……その、少し張るような……」
エルが視線を泳がせると、アレクは悪びれもせず、むしろ堂々とした顔で言った。
「それは……夜の鍛錬の成果だね」
「アレク!」
小声で抗議すると、アレクシウスは楽しげに目を細める。周囲の侍従や侍女たちは礼儀上、視線をそらしている。だが、給仕の一人などは耳まで赤くしていた。
「兄の前でイチャつくのは辞めてくれ」
後ろからレオナルトの声がした。
「お兄様!いらしたのですか?」
恥ずかしがり、顔を赤らめるエルフリーデを見てアレクがふっと表情を改め、フィンツから受け取った小瓶をそっと差し出した。
「医師からだ。冷えと、疲れに効くらしい。飲んでおいて」
「まあ……ありがとうございます」
エルフリーデは素直に受け取り、嬉しそうに微笑んだ。
アレク様はいつも、私のことを気にかけてくれる。公務も、お仕事も忙しいのに……
その思いと同時に、胸の奥に小さな棘が刺さる。
……でも。
結婚して、もう三年になるのに。
まだ……“兆し”は一度もない
アレク様は「気にしなくていい」と笑ってくれる。
「今は二人の時間を大事にしたい」と言ってくれた事もある。
それでも――本当は……少しだけ、不安になる。
子どもができないのは、私の身体のせいなのかしら。
そんな自分の弱さを知られたくなくて、エルフリーデは笑顔をもう一段明るくした。
「アレク様。今日の鍛錬もレオお兄様と?」
「ああ。レオナルトが珍しく本気を出したよ」
レオナルトは向こうの席でパンを噛みながら、心の中で叫んだ。
出さざるを得なかったんだよ!こっちは必死だったんだ!
だが口には出さない。皇太子妃の前で、兄としての威厳は保たねばならない。




