第2章 アルトリヒト神話―眠れる女神と神の器 第1話 光だと思った
――光、だと思った。
9歳のアレクシウスが、父皇帝に呼ばれて皇后である母と皇城の奥の小部屋へ入ったとき。
所々、赤黒いのバラの花びらの様な模様のおくるみに包まれた“赤子”は、涙でぐしゃぐしゃに濡れたディオス家の当主ヴィルヘルムに抱かれていた。
「陛下……この子は……アルトリヒト家の……フリードリヒとリディア様の……」
昨晩、遅くに父に呼び出され、慌しく武装した軍一個小隊を引き連れて出立したはずの、ディアス将軍の今の状態と、先程『アルトリヒト家』とその当主『フリードリヒ』の名前が出て来た事を鑑みても、この赤子がアルトリヒト自治領、ひいてはアルトリヒト旧王朝王家の血を引いている事は私には容易に理解出来た。
よく見れば、おくるみのその花びらの模様は時間が経ち変色した血痕である事がわかり、この赤子の両親である自治領主夫妻がもうこの世にいない事も察しがついた。
赤子は泣き疲れて声も出ていなかった。その赤子をディオス侯爵から母が受け取り、その顔を覗き込むと、薄い産毛のような 銀の髪 が、揺らめく暖炉の炎の前でふわりと光る。
アレクシウスは、その瞬間――
「……っ!」
息をすることすら忘れた。
美しい、と思った。
ただの子どもが抱く感想とは思えないほどに。
本能で分かった。それが普通ではないことを。父皇帝も固まり、ディアス侯爵も何かに縋るような目でその光を見つめていた。
「陛下……この紋を。この子は……アルトリヒト神話の……」
「神の器」
皇帝はゆっくりと立ち上がり、赤子を覗き込んだ。
その小さな額には、微かに消えゆく アルトリヒト王家の紋様。
そしてその瞳は――赤子なのに、閉じられたままでなお不思議な気配を帯びていた。
かつて、アミュール大陸にまだ国という形がなく、
ただ生き延びることだけが人の営みだった時代があった。
疫病と飢饉は大陸全土を覆い、土地は痩せ、人々は互いに奪い合い、生きることそのものが祈りだったという。
その嘆きを憂い、大陸に一人の女神が降り立ったと伝えられている。
女神は、銀のように淡く輝く髪と、澄んだ碧の瞳を持ち、触れた大地を浄化し、病に伏した者を癒やした。
人々は女神を讃え、女神は人々を守った。
やがて人々は、女神のもとに集い、共に暮らす様になり
その教えと奇跡のもとで一つの国を築く。
それが――アルトリヒト神聖王国の始まりだった。
そして女神は、民を束め代表する1人の男と恋に落ち、子をもうけた。民はその女神の子を王と崇め、王国は繁栄した。女神の加護のもと、疫病は退き、作物は実り、争いは減った。
だが――平和が長く続くほど、人々は次第に変わっていく。
努力よりも祈りを。
選択よりも救済を。
自ら立つよりも、神に委ねることを望むようになった。
女神は気づく。
自分が在り続ける限り、人は自らの足で立たなくなることを。
神の奇跡は、いつしか希望ではなく、依存へと変わっていた。女神は悩み、そして――選んだ。
神として世界を導くことを、やめるという選択を。
女神は人々の前に姿を現し、最後の言葉を残したと伝えられている。
「人は、人として生きねばならない。神に縋る限り、未来は育たぬ」
女神はその力を我が子この中に封じ、自らは神の世界に帰った。
ただ――本当に必要な時だけ、目覚めると定めたのだ。
女神の力は、血へと姿を変え、アルトリヒト王家とその血族へと受け継がれた。
それが、後に呼ばれる――「神の器」の始まりである。
神の器は、奇跡を振るうために生まれるのではない。
人が自らの選択で歩める限り、決して目覚めることはない。
だが――もし再び、世界を壊しかねない力を持つ者が現れた時。あるいは、人が再び神にすべてを委ねようとした時。その時だけ、女神の血は目を覚ます。
救うためではない。支配するためでもない。
ただ――人を、人の場所へ引き戻すために。
アルトリヒト神聖王国が滅び、神殿が崩れ、神の奇跡が歴史から姿を消した後も。
この物語だけは、形を変えながら、大陸の隅々まで語り継がれていった。
――神の器とは、世界を救う存在ではない。
世界を壊さぬために、静かに目覚める存在なのだと。
帝国民だけでなく、このアミュール大陸全ての人々が一度は聞いた事のある、アルトリヒト神話。神の器の話。
土地によって語り方は違う。神官が説教で語ることもあれば、母が子に聞かせる昔話として伝えられることもある。
だが結末だけは、どこでも同じだった。
――その神の器と思われる小さな存在が今目の前にある。
私は胸が痛いほど締めつけられるのを感じた。なぜか守らなければ――と、強く思った。
理由なんてなかった。
ただ、この子は泣いていて、世界のどこにも居場所がなくて、だから守るのは自分だ、と――雷が落ちたように理解した。
父皇帝は静かに言った。「この子は……我々皇家が、帝国が守る。」私はその言葉を聞いて、胸を張って言った。
「僕も……守ります。この子が泣かないようにします。絶対、守ります」
父は驚いて、そしてゆっくりと息をついた。
「そうか……ならば、覚えておくといい。お前がその誓いを忘れぬ限り、この子はきっと……強く生きられる。そしてお前自身もこの子に助けられるだろう。」
父皇帝はきっとわかっていたのだ。自分の息子が皇家に時おり産まれる、全ての能力に異常に優れた天才皇子である事を。そして歴代のその皇子達が何かに固執する性質である事も。その固執するものが何によるのかで、賢王にも暴君にも愚王にもなれる事を。
――――私の場合は、エリフリーデだった。
そして私という存在が今、この世に存在するからこそ、神の器が目覚めたのだと。
赤子は目を覚まし、碧い瞳を輝かせて、覗き込んでいた私の方へかすかに手を伸ばした。
それを見たときに、自分の人生が決まったのだと悟った。
「この子の名前はエルフリーデというのよ。争いの中でも、静かに生き抜けるように――そんな願いを込めた名前。アレクシウス、貴方がしっかり守ってあげてね。」
聞けば母は、自身の学友でもあったアルトリヒト領主夫人から、結婚して8年目にようやく子供を授かった事、先日無事に産まれ娘の名前を『エルフリーデ』と名付けたと記された手紙を受け取っていたと言う。
オルデンブルグ帝国皇帝夫妻と、アルトリヒト領主夫妻、そしてディオス侯爵夫妻は学舎を共にしたとても仲の良い学友だったらしい。
その親友を無残にも失い、父皇帝も母も肩を落とす。
「……陛下、できる事ならフリードリヒとリゼット様の子を私とヘルミーネに、我がディアス侯爵家に預けてはくれませんか?」
つい先日、レオナルトの妹が死産だったと聞いていた。夫人の事を思えば、ディオス侯爵の申し出の意味も理解できた。
しかし父は、アルトリヒト家の血を、神の器を護るのは皇家か、ディアス家どちらが最適か悩んでいる様だった。
「僭越ながら父上、このまま皇家で育てるよりもディアス将軍の下で育てて頂く方が良いかと。」
「……アレク、それはお前の勘か?」
「それもあります。こう言っては侯爵夫人にとても失礼ですが、レオの妹が死産だった事は、おそらくまだそんなに多くには知られていません。このままレオの妹として侯爵家に預ける方が、彼の血を求める多くの勢力を暫くは欺けるかと。」
「…………そうか、そうだな。ヴィルヘルム、この重き命を護ってくれるか?あの2人の大事な娘を。」
「はっ。この命に代えましても。友人達の忘形見、確かに」
「頼みましたよ、侯爵。エルフリーデは将来我が息子の大事なお嫁さんですからね」
母は泣きながら軽口をたたいた。そんな大人のやり取りを眺めながら――僕はこの子のために剣を取る。国も、未来も、全部守る。胸の奥に落ちたその決意は、9歳の少年にはあまりに大きく、しかし彼は破綻することなく、それを抱え続けた。




