第1章 冬宮の舞踏会と嘘つきな皇太子 第3話
そんな腹黒皇太子を見て静かに溜息を落としたレオナルトは、可愛い妹の側にそっと寄り添う。
「妃殿下、久しぶりに私と踊って頂けますか?」
「お久しぶりです、ディアス侯爵。いえ、お兄様!喜んでお受け致しますわ」
真っ青な顔で娘のダンスを見つめる伯爵と、すっかり顔色を無くしたアマーリエをリードし踊るアレクシウス。
何が面白いのかアレクシウスの顔は珍しく満面の笑みだ。その姿を目の端にとらえながら優雅に踊るレオナルトとエルフリーデ。
――あれくらいの事をいちいち気にしていたら、アレクシウス様の隣になんて立てないわ。
わたくしは、このオンデンブルグ帝国の女性の中では皇后陛下に次ぐ2番目の地位。皇后陛下に教わった通りに背筋を伸ばして堂々としていなくては。
でも……。やはり、わたくしでは無理なのかしら。
エルフリーデの心に黒いシミが染まる。
お互いの近況を報告しながら、取り留めのない会話でダンスを続ける。
レオナルトは、腕の中で軽やかにステップを踏むエルフリーデを見つめながら、ふと、遠い冬の日を思い出していた。
──19年前のあの日。俺が9歳の時。
エルフリーデが“俺の妹になった”のも、冬の始まりだった。産声すら上げることなく天へ還った、俺の本当の妹。
天使にちなんで「アンゲリカ」と名付けられた、可愛らしい顔立ちをした妹。あの日、屋敷は深い闇に沈み、誰もが立ち直れずにいた。母は泣き腫らし、父は黙したまま身を固くし、使用人たちでさえ沈痛な空気を共有していた。
そんな最中だった。帝国軍総大将である父が、陛下からの早馬に呼び出されたのは。
「アルトリヒト自治領で異変だ」と。
帝国北部国境沿い──アルトリヒト家の自治領地。かつて大陸アミュール千年王朝の中心だった場所。今は滅びた王家の“残照”だけが残るはずの土地。本来なら、そこに帝国は簡単に手を出せない。不可侵条約の取り決めがあり、いかなる友誼を結んでいようと公式には踏み込むことは許されないはずだった。
たとえ陛下と、俺の父と、アルトリヒト家のフリードリヒが何ものにも変えがたい親友であったとしても。
だが、その日だけは違った。
父は顔色を変え、まるで“友を喪いに行く者”のような表情で馬に跨った。
母は、娘が死産した直後の出立に父が家を離れる事を不安がったが、耳元で事情を説明されると気を取り直して、侯爵家の女主人に相応しい顔に戻り「気をつけていってらっしゃいませ」と、父の出立を見送っていた。
そのやり取りを見て、俺もただならぬ事が起きているのだと、なんとなく感じた。
そして……その数日後、父が連れ帰ったのが──エルフリーデだった。
真紅と見間違える程に、誰かの血で赤く染まった毛布に包まれ、凍えるように小さな身体で、泣きもしない。ただ静かに、まるで眠るように抱かれていた。
その重さは、奇しくも生きることのできなかった妹アンゲリカと同じだった。
父に抱かれる赤子を覗き込む。
その額は僅かに何かの紋様を浮かべ光っていた。
「父上!この子の額……」
父はそれ以上は言うなとばかりに息子を目で制し、震える声で告げた。
「……この子は、アルトリヒトの血だ。フリードリヒとリゼットの娘。名をエルフリーデと言う。守らねばならぬ。あの地が消えぬよう、旧王家の火が絶えぬよう……我がディアス侯爵家で預かる。秘密裏にそう陛下と相談して連れ帰ってきた。」
「アルトリヒトの血……。旦那様、それではフリードリヒ様とリゼット様は?」
「残念だが、間に合わなかった。」
「そんな……あぁ、リゼット様……!」
母は泣き崩れながらエルフリーデを抱きしめた。
まるで、失った娘が再び腕の中に戻ってきたかのように。
大切な親友の面影までも抱きしめるように。
俺は既に侯爵家の嫡男として教育も始まっていたし、アルトリヒト家の立場も、この日妹となったエルフリーデの事も、わかっているつもりだった。
ああ……あの時の母様の涙は、一生忘れない。
それからの三年間は、穏やかで幸福だった。
父も母もエルフリーデを本当の娘のように慈しみ、俺とエルは、父と母が夫婦で出席する仕事にいつも付いて回った。
周辺諸国も落ち着き、争乱の気配もなく──皇家と姻戚関係にあり、陛下の親友で信頼のあった父は帝国軍総大将でありながら、よく陛下の地方公務の代理を務めていた時期でもあった。
その日も、公務を終えた帰り道だった。
馬車の中では、ようやく会話ができるようになったお喋りな可愛い妹が、取り留めのない話で笑わせてくれていた。
あの時までは、確かに幸せだった。
突如、ガタンッと馬車が跳ねた。
馬車の外で、護衛騎士の叫びが飛ぶ。
「閣下!正体不明の賊です!その数、およそ五十!我々が抑えます! 早くお逃げくださ──うわあぁっ!」
父は咄嗟に剣を抜いた。
およそ五十の敵に対してこちらは護衛騎士が15名。十二歳の俺でも、状況が最悪なのは理解できた。
母は俺とエルフリーデを強く抱きしめる。
「レオ! よく聞きけ!
母様とエルフリーデを護るのはおまえだ、いいね!」
「ち、父上……」
「お前は立派な、ディアス侯爵家の跡取りだ。私の誇り、自慢の息子だ。お前ならできる!」
「……はい!」
母と、俺、そして最後に母に抱かれたエルフリーデの頬に優しくキスを送る。その直後父は馬車の扉を開け、賊の中へ飛び出していった。母は瞳に涙を溜めて泣くのを必死に堪えていた。恐らく、帝国軍総大将の妻という矜持が、母の涙を堪えさえのだろう。
反対側の扉から、母は片腕でエルフリーデを抱きかかえ、俺は母の手を引いて道なき道を必死で逃げた。
父は帝国軍の頂点だ。
敵がいないはずのこの情勢で、なぜ狙われる?護衛を最少にしていたこの日を狙われたのか?
それとも──
どうしてだ……どうしてこんな……!
思考が混乱し、足がもつれそうになったその瞬間──母が悲鳴と共に急に崩れ落ちた。
「母様!」
背中には深々と矢が刺さっていた。
「はぁ、はぁっ……レオナルト。エルを……連れて逃げなさい……!」
エルフリーデを俺に託しながら、母は痛みに震え、泣き出した幼いエルを宥める。
「そんな……いやだ、母様‼︎」
「かあさま、かあさまがいい……!」
「逃げなさい! 早く!」
「ヤダァ! エルはかあさまがいいの!」
母上は、涙を流しながら優しく微笑んだ。
「愛してるわ……レオナルト。エルフリーデ……。私の大切な子たち……。レオ……あなたなら、この子を守れるわ。」
「母様……!」
ヒュンッ。
次の瞬間、俺の頬を矢が掠めた。続けざまに何本もの矢が降り注ぐ。
「早く……行きなさい! お願い……行って!生きて……!!」
「わかったよ、母様……!俺も──父上と母様が大好きだ……!絶対に、エルを護る!」
エルフリーデも、何かを悟ったように叫んだ。
「かあさま……だいすきっ……!」
俺は涙で視界が滲む中、母を残しエルを抱えて必死に走った。
後ろから、父の最後の咆哮が聞こえた。
「父上……! 母様……!」
転びそうになりながら、嗚咽で呼吸が途切れながら、
それでも走り続けた。
やがて、矢の雨は止み、賊も追ってこない。父達が食い止めてくれたのだろうか。
その時──
前方から複数の軍馬が駆け抜け、俺たちを追い越し、父と母のいる方向へ向かった。
一騎が俺の前で止まる。俺は敵か味方かわからぬ状況と緊張で一歩も動けなかった。
「あなたはディアス侯爵家の嫡男、レオナルト様ですね?先程、救難信号の“光矢”を確認し駆けつけました!我々はこの先で軍の演習をしていたディアス将軍の部下です!レオナルト様、お怪我は?」
その声を聞いた瞬間、張り詰めていた力が抜け、俺はその場に膝を落とした。
エルを落とさないよう抱き締めながら。
「……いや、俺も妹も無事だ。この先に父と母が……恐らく……ダメだろうが……」
「そ、そんな……ディアス将軍が……!」
その後の記憶は曖昧だった。気づけば王都の屋敷にいて、いつの間にか葬儀も終わり、十三歳になった俺が侯爵位を継いでいた。
帝国では十二歳から爵位を継げる。しかしまだまだ幼い身。経験も乏しく、領地経営の勉強も始めたばかり。あいにく父母の両親も他界しており頼れる身内のいない現在の状況では、侯爵家が誇る広大な領地の経営はできない。そこで、領地の運営は皇家から派遣された代理人と使用人に任せ、俺とエルは皇帝陛下の庇護のもと、皇城で暮らすことになった。
――あの日の事は、世間には他国から流れてきた盗賊に襲撃された事となった。
実際にはアルトリヒトの最後の姫である、エルフリーデを狙ったのだ。おおよその犯人の予測はついたが、腹立たしい事に足は掴めていない。
敵が、逃げる俺達に追いつけなかったのは、あの場で父と護衛達が食い止めてくれていたらしい。まさに命をかけて――。あの時救助に来てくれた父の部下達が、葬儀の時に泣きながらそう伝えてくれた。彼らによって丁寧に運ばれた父母と護衛達。葬儀の時にその顔を見た陛下は肩を落とし、マティルダ皇后陛下は泣き崩れた。
陛下は俺に特別に言葉をくれた。
「レオナルトよ、許せ。護衛は最低限で大丈夫だと言うヴィルヘルムの言う事を鵜呑みにした。お前から両親を奪ったのは私も同然だ。……しかし彼の血は護らねばならぬのだ。でなければ波乱の世となる。――わかるか?」
「――はい」そう答えると、恐れ多くも陛下は膝をつき俺をギュッと抱きしめてくれた。
この時の陛下の言葉で初めて、俺はアルトリヒト家の血の意味を正しく理解した気がした。
エルフリーデの置かれてる状況を。
エルフリーデは娘のいなかった皇帝夫妻と、俺と同じ歳の皇太子アレクシウスに、これ以上ないほど愛されて育った。そして二人はすぐに婚約を交わした。
それはアルトリヒトの血を守るためだけではなく、陛下にとって、親友夫妻を二組失った深い悲しみを埋めるような願いでもあった。
……アレクの執着の現れな気もするが。
ステップを踏みながらレオはエルの肩にそっと手を添え、ほんの少し視線を落とす。
エルが生き延びた理由。
エルの両親が命を賭して守った理由。
俺の父と母が命を賭して守った理由。
すべてが、エルが妹となったあの冬の日と結びついている。
アルトリヒト王家の最後の生き残りの姫。けれどそれを本人にも世間にも秘密にする事は、エルが帝国に保護された時から決められていた。荷が重すぎると――。
今は神話の様に語り継がれる、アルトリヒト王家に産まれる神の器。神の力を宿したその身を手にした国は、土地を豊かにし、発展させ、大陸の覇者となる。それが可愛い妹である事が知れれば、エルを巡って大陸の均衡が一気に崩れる。300年前に起こったこの血を巡っての戦争は、大陸に甚大な被害を出したと記録がある。
それこそ、それまで大陸全土を支配していた神聖王国を瓦解させる程だ。エルフリーデにその力の兆候は全くないが、本人はまだ知らない方がいい。1人で受け止めるにはまだそれ程大人じゃない。
……エル。それでもお前はあの日からずっと、暗い闇を彷徨ってた侯爵家の、俺の光なんだよ。
そんなこと、本人はきっと知らない。
ふと、エルフリーデが兄を見上げて微笑みかける。
「お兄様、どうかなさいました?急に表情が……」
レオは小さく首を振り、笑みを作った。
その額にあの日の紋様は一度も浮かんでいない。
「なんでもないよ。……ただ、今夜のお前は一段と美しいなと思って。」
エルフリーデは頬を赤らめて目を伏せる。
「もう……お世辞ばかり言って。殿下に誤解されますわ。」
「誤解するのはアレクだ。あいつは……お前のことになると──」言いかけ、口を閉ざす。
……『完璧じゃなくなる』なんて言えるわけない
「お兄様?」
「いや……あれだ。ニコと一緒に俺とアレクの後ろばかりついてきて、転んでは泣き、迷子になって泣いてたお前が──」
「もうっ!お兄様‼︎……ふふっ」
「ははっ」
二人は同時に吹き出した。
……強くなったよ、お前は。
曲が終わり、ステップを止める。
周りを見渡すとエルフリーデをダンスに誘おうと若い貴族達が群れをなしていた。その向こうに第二皇子のニコラウス殿下の姿を捉えた。
目が合うと、意図を理解したニコがすぐにこちらに来てくれた。
「義姉上、次は私と踊って頂けますか?」
「ニコラウス様、ええ、喜んで」
ニコラウスはダンスの波に乗りながら俺にウィンクして行った。
皆、皇族を押し除けてまで誘えまい。
良い仕事したな、と給仕からワインを受け取り喉を潤す。
ニコラウス殿下は俺とアレクの11歳下、現在17歳だ。
俺たち兄妹が皇家に保護され宮殿に来た頃、ニコはまだ2歳でよちよち歩きしてたっけ。
歳が1番下な事もあって末っ子宜しく天真爛漫に朗らかに育った。アレクとも仲は良好でニコ自身、アレクに絶対的な信頼を置いてるし、エルフリーデの事は姉としか見ていない。
エルフリーデと2歳差を考えると、よほどアレクシウスよりニコラウスの方が、婚約者としては年齢的に釣り合いが取れている。しかし、誰もがエルフリーデにはアレクシウスが相応しいと言うだろう。
そこにはアレクシウスがアルトリヒト家の最後の1人を護るに必要な全てを兼ね備えているだけでなく、何よりアレク自身が深くエルを愛している他ならない。
なんせ4歳のエルにプロポーズしたんだ。
そもそも、アイツがエルを他の誰かに渡すなんて事、絶対に有り得ない。そんな無謀なヤツがいたらアイツはエルにも、周りにも気づかれずに、相手を抹殺するだろう。
…………執着が怖い。でもアイツはやる。きっとやる。
それだけ深い愛を捧げるきっかけがいつ、どこにあったかは俺にもわからないが。
「若き氷刃」の名があながち間違ってない事は俺も知っている。
皇家に時々現れる完璧な頭脳を持つ天才皇子。
あいつは全ての物事をまるで盤上の遊戯の如く、先を読み、罠を張り、手を打つ。人の感情も、帝国内の政治バランスも、周辺諸国の情勢も、全てあいつの掌でこらがされているかの様だ。
さらに、完璧なゆえに何かにハマるものができると、それに執着すると言う。過去に現れた天才で、政治にハマった時には賢王、戦争にハマった時には暴君、逆に何も興味を持てない時には愚王。
その言い伝えを知る臣下の中には、アレクを恐れニコを推する派閥が密かに存在している。反皇太子派。
さっきのロートベルク伯爵もその一派だ。
ニコは俺と一緒で筋肉バカだから、政治には全く興味がないのだが。兄上が大好きで、次代の皇帝はアレクだと当たり前に思ってる。自分はそれを武力で支える臣下なのだと。それでニコラウスは帝国軍に入り、今は実戦に身を置く士官候補生だ。アレクはそれも全て理解した上で、反皇太子派を調べあげ、裏でいろんな画策をしている。多分。
そんなアレクシウスの今のダンスの相手は、現在の帝国軍総大将のアイゼンベルク公爵夫人だった。
エルフリーデと伯爵令嬢のあのやり取りの後では、誰もアレクシウスに未婚の娘を近づけさせないだろう。
これもエル以外とはあまり踊りたくない、ヤツの策略かな?そんな気もしてきた……。
そんな事を考えていると曲が終わりエルフリーデがニコラウスにエスコートされて戻ってきた。
その瞬間──
「エルフリーデ」
大広間の向こうから、アレクシウスがゆっくり歩いてくる。完璧な微笑。だが俺には分かる。
さっき伯爵令嬢を誘った時より……声の温度が低い。実の弟のエスコートも嫌かよ、呆れるな。
舞踏会の光の中、アレクシウスはまっすぐにエルフリーデへ手を差し伸べた。
「フリーデ。ラストは僕と踊ってくれるね?」
その声音には、あの伯爵令嬢には絶対に向けない柔らかさが宿っている。
まったく……お前は本当に分かりやすい。
レオナルトは肩をすくめ、妹の背中をそっと押した。
「行っておいで、エル。」
エルフリーデは微笑み返し、アレクシウスの手を取ってゆっくりと歩き出した。
しかし、レオナルトもニコラウスも知っていた。
アレクシウスは“完璧”。――だが妹が絡むときだけ、完璧ではなくなる。
そして──この夜の“代償”が、数日後に現れる事も。
若い夫婦の息の合ったダンスを、ニコと2人眺める。
「ニコさっきはありがとうな」
「あんな事があった後じゃ、兄さんは絶対エル姉さんを他の独身男と踊らせたくないでしょ」
「……次の会議が怖いな」
「レオ兄さん気づいてた?アレク兄さん、姉さんの事悪く言ってた貴族の顔と名前、完璧記憶してたよ」
「……次の会議、俺欠席じゃダメかな」
ニコラウスがぷっと吹き出した。
「僕も出たくない。何が起こるかなんて想像できるよ。……一緒に軍事訓練に参加って事で欠席する?」
「良いな、近衛騎士団引き連れて参加だ」
2人はグラスを傾け、仲睦まじい皇太子夫妻を見ながら大笑いした。
大広間のざわめきの中、ニコラウスと談笑しながら、レオナルトの胸の奥にはあの日と同じ静かな決意が灯っていた。
エル……お前は俺の大事な妹だ。たとえ皇太子妃になっても、俺はお前をずっと守ってみせる。死んだ妹の代わりなんかじゃない。父と母が命懸けで守った大事な妹。ディアス侯爵家の光――。
「殿下、お疲れさまでした。」
「フリーデこそ。あの言い回しは完璧だったよ。」
エルフリーデの頬が少しだけ赤くなる。
しかし胸の奥には小さな不安が滲んでいた。
……子がいないこと、やはり見られているのね。
アレクシウスはその沈んだ影に気づくが、今はただそっと手を握るだけに留めた。
……大丈夫。フリーデに降りかかる憂いは全部僕が消す。
ただ、エルフリーデにはその声は届かない。
その夜、アレクシウスは自身の執務室で皇家の闇部分を担う、軍や近衛騎士団とは別に暗躍する「皇家の影」を密かに呼び立て指示を出す。
その顔は彼の美貌を際立たせる程に冷え切った、完璧なる笑顔だった。
残務処理を終えた所で、執事のフィンツ・レーマンから薬液の入った瓶を受け取とる。
――コレもそろそろ潮時か。
瓶を眺めながらアレクは考える。
「もうそれは必要無いのでは?舞踏会でのやり取りを見るにそろそろ時期かと…もう充分お楽しみでしょうに…」
「あぁ、来年にはエルフリーデも20歳だ。まぁ、憂いを全部処理してからとは考えていたが。エルフリーデの心が病んでしまっては元も子もないからな」
そう言いながらも、瓶の蓋を開け苦味の強い中身を飲み干す。
「私としては、いくら安全が保障されている物とはいえ、アレクシウス様のお身体も心配なのですがね。」
優秀な執事は水の入ったグラスを渡しながら呟く。
「明日も朝から公務ですよ。もちろんエルフリーデ様も。なので今夜は程々になさいませ。」
「…………わかっている」
―――次の日、早朝から近衛騎士団と共に日課の剣の鍛錬して公務に向かうアレクシウスとは反対に、エルフリーデは公務を休んだ。
「妃殿下は……お疲れが出たようで」と侍女が静かに告げ、宮中の者たちは一瞬で察した。
正午を回っても、エルフリーデはまだ寝室にいた。
侍女長がそっと医務官を呼び、診察した結果は──
「殿下、軽い疲労と寝不足です。数日もすれば回復されましょう。」
「……そうか。」
アレクシウスはわずかに眉を動かした。
昨夜の情事を思い返し、喉の奥が軽く熱くなる。
……少し、いや……だいぶ激しかったかもしれない
反省しているような、していないような表情。執事のフィンツは苦笑しながら控えめに言った。
「殿下……“控えめに”と申し上げたのですが。」
「……わかっている。」
フィンツは、殿下の“反省していない目”を一瞥し、深々と息を吐いた。
「……やはり理解しておられませんね、殿下。」
嘆息混じりに言いながら、医師から預かった滋養薬を手渡す。
「せめてこれだけは、確実にエルフリーデ様へ。――殿下の昨夜の“熱意”の後始末でございます。」
♦︎♦︎♦︎♦︎
舞踏会から2日後。
帝都は冬の冷気を纏いながらも、いつもと変わらぬ騒がしさを保っていた。
だが──宮殿の奥では、確実に何かが動いていた。
「殿下、追加の報告がございました。」
執務室に入ってきたのは、アレクシウスの側近であり皇家の影を束ねる男。
アレクシウスは書類から視線を上げることなく答えた。
「……読もう。」
影は分厚い封筒を机に置く。
アレクシウスは淡々と開き、ざっと目を通す。
その瞳の奥で、温度がすうっと落ちていった。
「──ロートベルク伯爵家の動きは、想定通りだ。」
「殿下、やはり“側妃推し”の噂は……」
「伯爵本人ではなく、その背後…… “ハインリヒェン侯爵家” だ。」
まるで最初から全て読み切っていたかのような声。
影の男でさえ、薄く背筋を冷やした。
……やはり、この方は “完璧すぎる”
アレクシウスは静かに書類を閉じる、影に指示を出す。
「……エルフリーデに向く不快な噂と、政治的な不正。その証拠の線を──まとめて示せ。」
「かしこまりました。」
影が去ると、室内は完全な静寂に包まれた。
アレクシウスは指先を唇に当て、小さく息を吐いた。
「……エルを侮辱した報いは、必ず払わせる。」
声は低く、冷たい。
だがその奥にあるのは──
彼女を守りたいという、ただひとつの優しい執着だった。
♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎
舞踏会から数日が経ったころ。
宮殿の議会室には重臣たちが威厳ある衣装を整え並んでいた。
だが、その円卓の一角──
ハインリヒェン侯爵家とロートベルク伯爵家に割り当てられた席だけが、ぽっかりと“空席”になっている。
彼らはすでに宮殿への出入りを禁じられ、軟禁同然。
今から議題に上がる“処分”について本人を呼ばないのは、この帝国では珍しいことではなかった。
議長席には皇太子アレクシウス。
その背後、ひときわ高い席には皇帝陛下が静かに控えている。皇帝陛下はアレクシウスの立つ議長席の後ろで、静かに息子を見つめていた。
……アレク。おまえは数代に一度の“天才”だが──エルフリーデの事となると、途端に針が触れ過ぎる。
その視線は、優しさと少しの憂いを帯びていた。
だが、止める気はいっさいない。
その“鋭さ”が帝国を守る時も、必ず来る
皇帝はゆっくりと目を閉じた。
アレクシウスが書類を手にし、氷のように澄んだ声で告げた。
「──では次に、ハインリヒェン侯爵派の件に入ろう」
ざわり、と空気が揺れた。
誰もが“あの舞踏会の後始末”だと理解していた。
アレクシウスは一切表情を変えず、次々と項目を読み上げる。
「国教会への不正献金。領地行政資料の改竄。領地税収の不透明な流れ」
次々と不正が顕になって行く。そして、あまりの証拠の多さに、場の誰もが喉を鳴らしそうになった。だが声には出せない。あまりに完璧な調査資料だったからだ。
「財務監査局による検査は最終報告に達した。ゆえに──
ハインリヒェン侯爵を家督不適任とし、自領にて蟄居。家督は次男ルーディガーへ継承させる。
これに関わったロートベルク伯爵家および他数家門も同様とする」
淡々と告げられているのに、その声には“逃げ場のない終末”の冷たさが宿っていた。
「以上。帝国秩序を守るために必要な処置とする」
皇帝陛下が静かに重ねる。
「異論はあるか?」
皆、それぞれに思う事はあった。
罪に対しての処罰の微妙な甘さ、長子を差し置いて次男への爵位の継承。
だが誰も口を開けなかった。
これは──“政治粛正”だ。
普通なら爵位剥奪もありうる話し、だか皇家はそれをせず温情を見せた。貸しを作ったのか、隙をわざと見せたのか――。
エルフリーデの名は一度も出ていない。
だが、レオナルトには分かっていた。
……舞踏会は、4日前か?いや、実質3日前だ。あの夜に影を動かしたのか……。証拠が揃うのが早すぎる。元々準備はしていたんだろうな。いつでも出せる様に。
献金の本丸はハインリヒェン侯爵家。
だが舞踏会で側妃を公然と推してきたのは──ロートベルク伯爵家。
エルフリーデの子がいないという噂を流したのも──揃いも揃って、その派閥。
つまり……派閥ごと一網打尽ってわけか。とはいえ、今回の処罰は驚くほど温情だ。
家督交代。領地での蟄居。議会席の剥奪。貴族としての政治生命は終わるが──首は飛ばない。……
なぜ軽くした? 泳がせてる……いや、まだ使い道があると見ているのか?しかも次男に家督継承?あそこの長子のアンセルムは確かに病弱だが。それとも──別の餌を撒くつもりなのか……。
どこの貴族も何かしら突かれたくない闇の部分はある。
皇家は、いやアレクは帝国内全ての貴族の裏事情を調べ上げてるんじゃないか?怖すぎるだろ。
レオナルトは静かに資料を閉じた。
アレクシウスが議会を締める間、皇帝陛下は静かに目を伏せた。その仕草には、深い理解と静かな肯定が滲む。
……陛下は分かっている。アレクシウスが 数代に一人の天才皇子”で、冷徹な判断も厭わぬタイプだという事を。
賢王にも、暴君にも、愚王にもなり得る。皇家に時折生まれる極端な才能。
陛下は恐れているのではなく──理解した上で、息子に委ねている。
レオナルトが視線を横にずらすと、ニコラウスが小さく笑っていた。
……ニコまで気づいているのか。
ニコは皇帝ほど政治の深層を知らない。
だが、幼い頃から兄を見て育ってきた直感が言っているのだろう。
──兄さんが本気になったら、誰にも止められない。
理由は分からなくても、その“危うい天才性”だけは感じ取っている。
その瞬間、レオナルトの背筋にぞくりと冷たいものが走る。
問題は一つ。アレクの判断が正しいのは認める。だが──完璧すぎる非情さは、燻ってる連中を逆に刺激しかねない。反皇太子派は、表向きには沈黙している。だが“火種”そのものが消えたわけではない。
粛正そのものには反対しない。だが……あれだけ鮮やかに“首根っこ”を押さえれば、次は必ず“奥の黒幕”が焦りだす。その時に何が起きるか……
レオナルトはゆっくりと息を吐いた。
アレクシウスがこちらを向き、完璧な微笑を浮かべている。
「……何か、問題でも?」
その目は観察し、計算し、そして──
エルフリーデに繋がる脅威だけを静かに消していく色をしていた。
俺は淡々と答えた。
「──いえ、何も」
だが内心では、静かに呟く。
問題しかねぇよ。エルのためなら裏で何人でも斬り捨てるくせに、表では国益で完璧に正当化する……本当に、お前はエルが絡むときだけ “完璧じゃなくなる”。そして──それを皆が察し始めているのが、一番怖い。
皇帝は理解し、
ニコは本能で察し、
俺は危険を感じている。
その温度差の中で、静かに──“次の火種” が芽吹き始めていた。
そして冬の初めの舞踏会の夜に起きた、伯爵令嬢の小さな侮辱は──
帝国の頂点に立つ皇太子によって静かに、徹底的に刈り取られたのだった。




