エピローグ
アルトリヒト自治領の冬は、早い。
雪の夜は静かだった。雪明かりが窓辺を淡く照らし、部屋には薪の弾ける音だけがある。
アルトリヒト侯は、妻の腹にそっと手を置いた。ゆっくりと、確かめるように。
「……ようやくだな」
妻は微笑んだ。
長い年月、何度も希望を抱いては手放してきた。
だからこの温もりを、夢のように思っている。
「ええ。まだ信じられないくらい」
しばらく沈黙が流れたあと、彼女がぽつりと言う。
「名前……考えていたの」
「ほう」
「女の子なら……」
一瞬、言葉を探すように視線を落とし、続ける。
「強さを誇る名前じゃなくていいの。
誰かを導く、とか、守る、とか……そういう意味じゃなくて」
侯は黙って聞いている。
「ただ、その子がそこに立っているだけで、周りが少しだけ落ち着くような名前」
暖炉の火が、静かに揺れた。
「……争わなくても、無理に何かを変えなくても」
彼女は、自分の胸に手を当てる。
「それでも、生きていける子であってほしいの」
アルトリヒト侯は、しばらく何も言わなかった。
やがて、低く、穏やかな声で言う。
「それなら……エルフリーデはどうだ」
妻が顔を上げる。
「戦いを鎮める、ではない。勝利をもたらす、でもない」
彼は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「ただ、争いから解かれた者という意味だ」
妻は、目を見開いたまま、やがて静かに笑った。
「……エルフリーデ」
少し間を置いて、今度は彼女が尋ねる。
「――じゃあ、男の子なら?」
アルトリヒト侯は、すぐには答えなかった。
窓の外、雪の向こうに広がる夜を見つめてから言う。
「歩き続ける名前がいい」
「歩く?」
「ああ。立ち止まらず、誰かの後ろに隠れず、それでも急がない」
妻は、その言葉を噛みしめる。
「……前に進む子、なのね」
「そうだ。世界を変えるためじゃない。変わっていく世界の中で、自分の足で進める子だ」
彼は、静かに続けた。
「エルフリーデが留めるなら、その子は行く」
妻は、ゆっくりと頷いた。
どちらも、役目ではない。使命でもない。
ただ――生き方の名前だった。
ここにあるのは、名も決まっていない命と、その命を待つ時間だけだった。
夫人が、もう一度腹部に手を当てる。
「この子ね」
「うん」
「きっと、手のかからない子よ」
「それはどうして?」
「だって……こんなに、静かだもの」
そう言って、彼女は目を閉じた。
暖炉の薪が、静かに音を立てる。
外では風が雪を運び、城館の屋根を撫でていく。
まだ何者でもない命が、ゆっくりと、この世界へ向かっていた。
ただ――愛される準備だけをされながら。
――それが、始まりだった。
♦︎♦︎♦︎♦︎
その年の帝国の春の庭は、思ったよりも騒がしい。
石畳を駆ける小さな足音。それを追いかける、少し重たい足取り。
「待ちなさいって言ってるでしょう!」
エルフリーデの声は叱責というより、焦りに近かった。
その腕には、まだ幼い末子が抱かれている。
「母上ー! 兄上がずるい!」
振り返りもせずに叫んだのは、二番目の男の子だった。
先を走る長子は、振り向きざまに肩をすくめる。
「走るのが遅いのが悪い」
「あなたたち!」
その様子を、回廊から見ていたアレクシウスが、ふっと息を吐く。
「……賑やかだな」
「あなたが少し庭に出てもいいなんて言うからです」
エルフリーデはそう言いながらも、困ったように笑った。
「まあ……元気なのは、いいことだ」
そう言って、彼は長子の背を捕まえる。
「捕まえた」
「父上は反則です!」
「反則ではない。体格差というだけだ」
抗議の声を軽く流し、少年の頭に手を置く。
その手つきは、帝国の統治者のものではない。ただ、父親のそれだった。
少し離れた東屋で、皇帝と皇后が並んで座っている。
「……本当に、似ていますね」
皇后がそう言うと、皇帝は目を細めた。
「誰に、だ?」
「どちらにも、です」
それ以上は言わなかった。
三人の子どもたちは、それぞれ違う。顔立ちも、性格も。
けれど不思議なほど、誰一人として重さを持っていない。期待も、役割も、背負わされていない。
それを見て、皇帝は静かに思う。
……これで、よい
帝国は、すでに回っている。誰か一人が奇跡を起こさずとも。
子どもたちが、今度は石段に座り込んで何かを話している。何を話しているのかは、聞こえない。それでいい。
エルフリーデは、腕の中の末子をあやしながら、空を見上げた。
雲はゆっくりと流れ、どこにも“兆し”はない。
……静か
それを、寂しいとは思わなかった。
かつて知らなかった何かを、今も知らないままでいられる。それは、失ったのではない。最初から、選ばなかっただけだ。
「フリーデ」
呼ばれて、彼女は振り向く。
アレクシウスが、ほんの少しだけ近づいてきた。
「……後悔は、ないか?」
問いは低く、慎重だった。エルフリーデは一瞬考え、首を振る。
「ありません」
そして、続けた。
「あなたが壊れない世界で、この子たちが笑っているなら――それで」
アレクシウスは、何も言わなかった。
ただ、彼女の肩に手を置く。庭に、再び笑い声が弾ける。
世界は動く。
帝国は続く。
けれどそこに、奇跡も、神の声も、必要ない。
それでいいのだと、誰もが、ようやく知った。
――物語は、ここで終わる。
そして、静かに続いていく。




