第12章 神の器の役目
――その日の午後。
訓練場の空気は乾いていて、剣がぶつかる音が遠くから聞こえていた。
エルフリーデの前に、四人の護衛が並んでいる。
ゲルトとルッツは、深く頭を下げた。
「……我らの落ち度です」
ルッツの声は固く、逃げ場のない覚悟が滲んでいた。
ゲルトは拳を強く握りしめて言葉を継ぐ。
「デルミアで、殿下を一人にしてしまった。その隙を突かれました。結果として、サイラスの件を招いたのは……我らです」
二人はもう、処罰を受ける覚悟を決めていた。
護衛にとって最大の罪は、守るべき人に隙を作ることだからだ。
エルフリーデは、ゆっくりと首を横に振った。
「処罰は、いりません」
二人の顔が、思わず上がる。
「わたくしは、生きています。そして……これからも、生きたい」
エルフリーデは一歩、前に出た。
「だから――そばにいてください」
ルッツの目が揺れた。
ゲルトは唇を噛みしめる。
赦された安堵よりも、
『また失敗したらどうする』という恐怖が、二人を縛っていた。
エルフリーデはそれを理解して、はっきりと言った。
「罰で終わるのは、嫌です。次は……必ず、守ってください」
その言葉で、ようやくゲルトが息を吐いた。
「……命に代えても」
少し離れた場所に、テオとオスカーが立っている。
崖崩れで負った傷はすでに癒え、剣の握りも姿勢も元通りだった。
オスカーが短く言う。
「復帰できます」
エルフリーデは微笑んだ。
「ええ。一緒に、帰りましょう」
それは命令ではなかった。
「任務に戻れ」ではなく、「帰る場所はここだ」という言葉だった。
⸻
ゼラニア王国は、表向きには無傷だった。
「レオポルト将軍の独断行動であり、王国は関与していない」
そう書かれた書面は、外交文書として完璧だった。
帝国も「現時点では」それを受け入れた。
だが、その現時点という言葉が意味するものを、ゼラニアの為政者たちは理解していた。
戦争は起こらない。だが帝国は、静かに条約を書き換え始めた。
通商路。
国境監視。
関税。
港湾検査。
軍備の報告義務。
一つ一つは小さな変更。だが積み重なれば、ゼラニアは息ができなくなる。
――戦争を避けた代償。
それが、オルデンブルグ帝国皇帝アルブレヒトの選んだ裁きだった。
イザベラはゼラニアへ戻された。
王女の身分は剥奪されていない。だが、帝国との外交の場からは完全に外された。
彼女が何を語っても帝国側の文書には「存在しない人物」として扱われる。
兄王からはこう言われた。
「しばらく、静かにしていろ」
自室の窓辺で、イザベラはネックレスを握る。
石の輝きは変わらない。変わったのは、自分の考えだった。
(……誰も、はっきり否定してくれなかった)
婚約の話。
曖昧な外交官の言葉。
儀礼の贈り物。
否定されなかったから、彼女は「決まった未来だ」と思い込んだ。その思い込みを守るために、彼女は国を動かした。
イザベラは、乾いた笑いを漏らす。
あれは、恋じゃない。誇りだ。自分を保つための――言い訳だった。
だが、あの少女の目は違った。怒りも敵意もない。
ただ、「ここから先へは来るな」という明確な拒絶。
……もう、終わりね
それは敗北の言葉ではない。
巻き込んでしまったことへの、遅すぎる理解だった。
イザベラは、自分が取り返しのつかないことをしたと知っている。
だからこそ、生かされた。帝国は彼女を消し、ゼラニアは彼女を閉じ込めた。
どこにも居場所がない。それが、彼女に与えられた罰だった。
年月が流れる。
皇城に、子どもたちの声が満ちた。
男の子が二人。
女の子が一人。
「……いいな」
ぽつりと、レオナルトが呟いた。
フィンツは何も言わず、主の視線の先を追う。
庭園では、エルフリーデが子どもを抱き上げ、低い声で何かを話しかけていた。笑顔は穏やかだが、甘やかすものではない。子どもをあやしながらも、その場をまとめ、空気を落ち着かせている。
レオナルトは、しばらくその光景から目を離さずに続けた。
「分かってるけど……あいつが、あんな顔で笑うとは思わなかった」
守られている者の顔ではない。
誰かに居場所を与えられているわけでもない。
――自分で選んだ場所に、確かに立っている人間の顔。
フィンツは、その変化をずっと前から理解していたように、静かに口元を緩めた。
「殿下は、殿下ご自身の立つ場所を選ばれただけですよ」
レオナルトは鼻で小さく笑う。
「……そう言われると、返す言葉がないな」
短い沈黙のあと、フィンツが声の調子を変えずに言った。
「でしたら、レオナルト様も、そろそろご婚約をお決めになられてはいかがですか」
からかいではない。進言とも言い切れない。
ただ、日常の延長にある、ごく自然な問いだった。
レオナルトは一瞬、言葉に詰まり、視線を逸らす。
「……やめてくれ。俺はああいうのは柄じゃない」
そう言いながらも、先ほどの光景が脳裏に残っているのだろう。
無意識のうちに、口元がわずかに緩んでいる。
フィンツはそれを見逃さない。
「お嫌い、というわけではなさそうに見えましたが」
「……嫌いじゃないさ」
小さく息を吐き、レオナルトは認めるように言った。
「ただ……守るべきものが増えるのは、簡単な話じゃない」
それは近衛騎士団長としてでも、侯爵としてでもなく、一人の人間としての実感だった。
フィンツは否定しなかった。
代わりに、いつもより少しだけ柔らかい声で続ける。
「殿下も、同じことを仰っていました」
「それでも――守ると決めたからこそ、今の殿下がおられるのだと」
レオナルトは、しばらく黙っていた。
そして、苦笑する。
「……兄妹揃って、厄介な役回りを選んだものだな」
「ええ」
フィンツは静かに頷く。
「ですが、抱えたまま進むことを選ばれたのは、殿下方ご自身です」
レオナルトは、再び庭へ視線を向けた。
風に揺れる若葉の向こうで、子どもたちの笑い声がかすかに届く。
「……まあ、そのうち考えるさ。急ぐつもりもないが――」
少し間を置いて、ぽつりと付け加える。
「悪くないものだな。ああいう光景も」
フィンツはそれ以上何も言わなかった。
ただ、ほんのわずかに口元を緩め、静かに一礼した。
皇后マティルダは、3人目の孫を抱いて微笑む。
皇帝は威厳を保とうとして失敗し、赤子の手を握り返してしまう。
「陛下、顔が……」
「……当然の反応だ」
「ええ。お祖父様ですもの」
笑いの裏で、皇帝夫妻は思い出していた。
生きていれば、どれほど喜んだだろう人々を。
名を刻めない死者のために植えられた記念樹の前で、エルフリーデは子どもたちの頭を撫でる。
――あなたたちは、抱えて生きなさい。
エルフリーデは、子どもたちの頭を撫でながら思う。
血のこと。
家のこと。
過去に失われた人たちのこと。
すべてを、今すぐ理解する必要はない。
けれど――誰かに決められた役割を、そのまま生きる必要もない。
いつか、自分で選びなさい。
何を大切にして、何を守るのかを。
それが、エルフリーデが拒んだ生き方だった。
誰かに選ばれ、誰かの都合で役割を与えられ、それを疑わずに生きること。
あなたたちは、抱えて生きなさい。
すべてを知る必要はない。けれど、いつか自分で選びなさい。それが、彼女が拒んだ生き方だった。
ニコラウスは、最初の子が生まれた年に帝国内の侯爵令嬢と婚約した。
祝いの席で、彼は正直に言った。
「僕は、兄上のようにはなれません。帝国を背負う覚悟も、裁く力もない」
一瞬の沈黙のあと、アレクシウスは頷いた。
「誰かの背中を見て進めるのも、才能だ」
ニコラウスは、少し困ったように笑った。
「……僕はただ、守っているものを壊したくないだけです」
それは、正しさの名で切り捨てることを選ばない、という意味だった。
戦争を起こさない。
家族を道具にしない。
国を守るために、人を壊さない。
その「壊さない」という選択こそが、帝国にとって、何より強い支えになると、この場にいる者たちは理解していた。
夕暮れ。
エルフリーデはアレクシウスと並んで歩く。
「もし……この時代にわたくしが、いなかったら?」
エルフリーデの問いに、アレクシウスは迷わず答えた。
「越えていた、守るべき一線をな。正しさの名のもとに、人を切り捨てただろう」
「その結果、帝国はもっと強くなっただろう。だが――人はいなくなる」
エルフリーデは息をのむ。
「誰も止めず、誰も戻らず、正しい判断だけが積み重なっていく国だ」
少し間を置いて、アレクシウスは続けた。
「……だが、君がいた」
「君は、私が行き過ぎたときに、戻れる場所を残した」
「正しいかどうかだけで決める前に、人でいることを思い出させた」
エルフリーデは、黙ってその手を握った。
奇跡はいらない。必要なのは、戻ること。
「世界を救いたかったわけじゃないの。あなたが、人でいられるようにしたかっただけ」
「……それが一番、厄介だ」
子どもの声が響く。
アレクシウスは膝をつき、子を受け止める。
その姿を見て、エルフリーデは思う。
(これでいい)
世界は動く。でも、人が人である限り――
わたくしは、ここにいる。
それが、この時代に生まれた神の器の役目だった。
世界を救うのではない。世界を壊さないために――
たった一人を、人に戻す。それだけで十分だと、今なら分かる。




