第12章 神の器の役目 第1話
春の朝は、思いのほか静かだった。
裁きの翌朝、帝都は何事もなかったかのように息をしている。皇城の石畳は夜の冷えをまだ抱え、足裏にひやりとした感触が残る。
庭園の木々は淡い芽吹きを始め、白い花が早咲きの香りを風へほどいていた。
それは、眠りに落ちたという感覚すらないまま始まった。
気づけば、エルフリーデは立っていた。
足元はなく、天も地もない。
闇でも光でもない、ただ「何も置かれていない場所」。
寒くはない。怖くもない。けれど――
世界から切り離されたような静けさだけがあった。
「……ここは……」
声は、返らなかった。
代わりに、背後でも頭上でもない場所から、重さのない声が落ちてくる。確認するための声だった。
「多くの人間が、お前に助けを願った」
その言葉と同時に、景色が揺らぐ。
泣く声。祈る声。救いを乞う声。それらが、音ではなく重さとして胸に触れてくる。
「世界は、その願いをお前に託そうとした」
エルフリーデは、反射的に息を吸った。
拒むつもりはなかったし、逃げた覚えもない。ただ――
「……わたくしは……」
声にならない思いが、先に形を取る。
血の匂いと冷たい石床。誰かの名前を呼ぶ声。
そして「君が無事なら、それでいい」あの人の声。
世界よりも先に浮かんだのは、祈りではなく、一人の顔だった。その瞬間、声がわずかに調子を変えた。
「だが、お前はその役目を選ばなかった」
責める声ではなかった。ただ、言葉が置かれただけだった。
「お前は、世界のために応える道を選ばなかった。だから――」
一拍、間があった。
「これから先、祈りはお前に集まらない。世界を動かす力は、もうお前を通らない」
エルフリーデは、胸に手を当てた。何かを失った感覚は、なく、引き剥がされたような痛みもない。
あるのは、長く背負わされていた荷物を、そっと下ろしたような感覚だけだった。
それは剥奪ではなかった。罰でもなかった。
最初から用意されていた役目が、ここで終わっただけだった。
「……それで、よいのですか」
気づけば、彼女は問いかけていた。
世界を見捨てたのではないか。逃げたのではないか。
けれど、返ってきた声は短かった。
「それでいい」
ただ、それだけ。
肯定でも祝福でもない。だが、否定でもなかった。
「お前は、世界に使われるための器ではない」
「人を選んだ。それだけだ」
その言葉と同時に、足元に、わずかな重さが戻る。
地面だ。確かな感触。立っているという実感。
「行け」
声は、もう引き止めない。
「選んだ場所へ」
世界が、静かに遠のいた。
エルフリーデは、息を吸って目を覚ました。
天井がある。カーテンが揺れている。遠くで、朝の鐘が鳴っていた。
胸に手を当てみると、鼓動は、はっきりとここにある。
「……夢……?」
そう呟いてから、首を振った。
違う。
あれは、呼び戻すための声でも、命じるための声でもなかった。確かめて、終わらせるための声だった。
世界に選ばれなかったのではない。自分が、世界を選ばなかったのだ。
そして、それでいいと――あの声は言った。
エルフリーデは、静かに息を吐いた。
「……わたくしは……」
言葉は続かなかった。
けれど、胸の奥に残った感覚ははっきりしている。
世界を救うために生きるのではない。神に応えるためでもない。
ただ、大切な人が、人でいられる場所に立つ。
それが自分が選んだ、生き方だった。
エルフリーデは回廊の端で足を止め、庭を見下ろした。
風が吹き、葉が揺れ、遠くで鐘が鳴る。
それだけの世界だった。
胸の奥がざわめくことはない。
理由の分からない衝動に立ちすくむこともない。
――不思議と、それが自然だった。
彼女は思う。
これが失われたのではない。神に応える役目そのものが、最初から、自分にはなかったのだ。
神の器として生きる声も、神に応えねばならない衝動も。
ただ、必要な時に、守りたいものを守った。それだけだった。
今はもう、立ち止まる理由も、振り返る声もない。
「――ここにいたか」
背後から声がした。
振り返ると、皇帝が一人で立っていた。護衛は遠く、気配だけがいる。
エルフリーデは一礼する。
「陛下。お顔の色が……」
「案ずるな。少し眠れなかっただけだ。それより、アレクはどうしている?」
エルフリーデは、今朝目を覚ました時のことを思い浮かべた。白いシーツに滲んでいた赤。昨日の裁きの席で無理を重ねたせいか、アレクシウスの傷口は再び開いていた。
医官に厳しく叱責されながら縫合をやり直し、
今は静養を命じられ、完全にベッドから動けない状態にある。
「……昨日の裁きで無理をしたようです」
そう前置きして、エルフリーデは淡々と事実だけを告げた。
「傷が開き、今朝方、医官が処置をしました。大事には至っていませんが、当分は起き上がることも許されていません」
それ以上、エルフリーデは言葉を足さなかった。
本当にそれだけなのかは分からない。ただ、彼はいつも限界まで自分を使い切る。
しかし皇帝にはその説明で十分だった。
「……そうか」
皇帝アルブレヒトは短く応じた。
声色に変化はない。だが、ほんの一瞬、視線が伏せられる。
――無理をした理由など、問うまでもない。あやつはお恐らく……いや、考えるのは辞めておこう。
そうして軽く頭を振る。
「医官の判断は?」
「安静が必要だと。次に同じことをすれば、縫合では済まないとも」
「当然だな」
皇帝は小さく息を吐き、しばし黙考する。その沈黙の間に、すでに多くのことが整理されているのが分かった。
「皇太子の職務は重い。だが、生きてこそ果たせる」
その言葉が、誰に向けられたものなのか。
エルフリーデには、問う必要もなかった。
「しばらくは、余の判断で政務を軽くする。お前は、そばにいろ」
命令だった。
同時に、それは――
皇帝として、父として下した最善の処置でもあった。
「……承知しました」
エルフリーデは静かに頭を下げる。
胸の奥に、ようやく張り詰めていたものが、少しだけ緩むのを感じていた。
皇帝はゆっくりと歩み寄り、彼女の横へ立った。二人並んで庭を見る。沈黙が落ちる。だが不思議と重くない。
嵐が去った後の、残響のない空のような静けさだった。
「エルフリーデ」
皇帝が名を呼ぶ。
彼女は息を整え、視線を庭へ戻したまま、耳を傾ける。
「そなたは、自分の力をどう思っている」
問いは簡単なのに、答えは簡単ではない。
エルフリーデは指先を軽く握り、言葉を選んだ。
「……怖いです」
皇帝は促さない。急かさない。ただ、待っていた。
「でも……世界を変えたいとは思いませんでした」
視線の先で、庭師が小さな芽を折らぬよう慎重に水を撒いている。
その優し意味手つきを見ながら、エルフリーデは続けた。
「誰かに必要とされたい、というのとも違います。
わたくしは……」
胸に浮かぶのは、血の匂いと冷えた石床。そして、あの人の声。
――君が無事なら。
「ただ、大切な人が、今ここに生きていてほしい。それだけでした」
皇帝は、ゆっくり息を吐いた。
「そうか……そうだな、それでよい」
その言葉には、慰めではない確信があった。
「私が思うに、アルトリヒトの血はな」
皇帝は、淡々と語り始める。
「世界を救うために流れてきたのではない。帝国には、数代に一度――あまりにも優秀な皇子が生まれる」
エルフリーデの胸に、アレクシウスの姿が浮かぶ。
冷静な判断、迷いのない決断、そして切り捨てることすら可能にする理。
「その才は、帝国を強くする」
皇帝の声は静かだ。
「だが同時に、皇子本人を――人でなくす」
エルフリーデは息を止めた。
「正しさのために、情を切り捨てられるようになる。国のために、誰かを犠牲にすることに慣れていく。いずれは、それを当然と呼ぶ」
皇帝は庭の花を見下ろしながら、続ける。
「止める者がいなければな」
風が吹いた。白い花弁がひとひら、回廊へ舞い上がり、二人の間に落ちた。エルフリーデはその花弁を指で拾い上げる。
「神の器とは、剣でも王冠でもない」
皇帝は、彼女を見た。
「――人に戻すための存在だ」
言葉が、胸の奥へ沈んでいく。
「今代の神の器――そなたの力は、世界を動かすものではない」
皇帝は、断じるでもなく、淡々と事実を語るように続けた。
「だがそれは、力が足りぬという意味ではない。そなたは、世界に使われるための器ではないのだ」
一瞬の沈黙。
「世界を救うためでも、神に応えるためでもない。ただ――世界を壊しかねない一人を、引き戻すために在る」
それは祝福というより、必要条件だった。
帝国という巨大な仕組みが、再び狂わぬための――小さな楔。
「だから、祈りが押し寄せることもない。誰かに呼ばれることもない」
皇帝は、ほんのわずかに笑った。
「そなたは、最初から応えなくていい器だったのだ。今は、その役目を終えたのではない。――選べるのだ。応えるか、応えないかを」
エルフリーデの喉が震えた。
力の意味が、初めて恐怖ではない形で輪郭を持った気がした。
わたくしは、世界のためじゃない。あの人が、人であるための――
「陛下」
エルフリーデは、昨日投げられた問いを思い出す。
自分を何者と名乗るのか。
「わたくしは……何者として、生きればいいのでしょうか」
皇帝は答えない。答えを与えれば、それはまた守るという名目の支配になる。
代わりに、エルフリーデの中で言葉が立ち上がってくる。
「ディアス侯爵家の娘として育ちました」
そこには、死者の影がある。――ディアス侯爵夫妻。
彼らはもういない。
守ってくれた手も、叱ってくれた声も、二度と戻らない。
けれどその不在が、エルフリーデの中で育てられた記憶として息をしている。
「アルトリヒトの血を引いています」
産みの親もまた、もういない。自治領主夫妻は死に、領地は火に包まれた。その死が、彼女の真実を封じる鎖になった。
「そして――」
エルフリーデは、少し息を吸った。
「アレクシウス様の、妻です」
皇帝の目が柔らかく細まる。
「それでよい。選ばずに、抱えて進む。それが、そなたの答えだ」
エルフリーデは、拾った花弁をそっと手のひらで包んだ。
壊れそうに薄い。けれど確かに香りがある。
……抱えて進む
それは強がりではない。
片方を捨てることで楽になる道を、あえて選ばないという覚悟だった。




