第11章 裁きの朝、皇太子は傷を隠す 第3話
嵐のような一夜が嘘だったかのように、皇太子私室には深い静寂が落ちている。
灯りは落とされ、厚い絨毯が足音を吸い込み、外の世界と切り離された空間。
お互い湯浴みも済ませ、エルフリーデは白い夜着のまま、寝台の端に腰掛けていた。
アレクシウスは、少し離れて座っている。
近くにいるのに、触れない。触れようとしない。
それが、彼なりの線だった。
「……フリーデ」
低く、抑えた声。エルフリーデは顔を上げる。
「今回のことで……君が混乱しているのは、分かっている」
一拍、沈黙。エルフリーデは、ぎゅっと夜着の裾を握りしめた。震えているのは、声ではなく、指先だった。
「……混乱しているのは、怖かったからではありません」
アレクシウスが、わずかに目を細める。
「……では、何が」
エルフリーデは立ち上がり、ゆっくりと彼の前に立ち距離を詰める。その一歩一歩が、迷いと決意の両方を孕んでいた。
「嘘が、嫌なんです」
はっきりとした声だった。
「わたくし、昨夜……見ました」
視線を逸らさず、続ける。
「……傷口も、血も、顔色も。貴方の血のついたナイフも全部」
アレクシウスの喉が、僅かに鳴る。
「なのに……何もなかったように立っていられるのが、それを、またわたくしに隠されるのが……怖かった」
責める響きではない。だが、逃げ場のない言葉だった。
彼女だけは、呼吸のわずかな乱れを見逃さなかった。
一拍置いて、エルフリーデは言った。
「教えてください、アレク様。そのお身体は……傷は、本当に大丈夫なのですか」
それは命令ではなかった。疑念でもない。
ただ――隣に立つ者としての問いだった。
アレクシウスは、しばらく答えなかった。
視線を伏せ、そして静かに息を吐く。
「……大丈夫では、ないな」
その一言に、嘘はなかった。
「正直に言えば……あのままなら、助からなかった」
一拍置いて、続ける。
「だが、君がそこにいた。だから今、私はここに立っている」
視線を伏せたまま、静かに息を吐く。
「命に別状はない。だが……痛みはあるし、傷も残るだろう。――それを、君に見せるべきではないと思った」
「どうして?」
エルフリーデは、間を詰める。
「君が混乱している時に、これ以上背負わせたくなかった」
「それに――」
アレクシウスは、初めて言葉を止めた。
「君に触れる資格が、今の私にあるとは思えなかった」
その声音は静かだった。
だが、決定的な自己断罪を含んでいた。
「出自のこと。神の器のこと。 ――すべてを知りながら、君に黙っていた。守るためだった。だがそれは、君を信じなかったという事実でもある」
エルフリーデの胸が、わずかに痛む。
隠されていたことが、つらくなかったわけではない。
何も知らされず、守られるだけの存在だったこと。
選択肢すら与えられなかったこと。
胸の奥に、小さな棘のように残っている。
けれど同時に――
彼がどれほどの時間を、どれほどの恐怖を、どれほどの孤独を背負ってきたのかも、見えてしまった。
「……わたくし、怒っていないわけではありません」
アレクシウスの肩が、わずかに強張る。
「でも……」
エルフリーデは言葉を探すように、指先を握った。
「アレク様が、わたくしを失うのを怖がっていたことも……分かってしまいました」
小さく息を吸う。
「信じていなかった、というより……好きすぎて、失うのが怖かった。――そうでしょう?」
否定できなかった。
アレクシウスは、何も言えなかった。
「わたくしも」
エルフリーデは続ける。
「あなたがイザベラ様に刺された時、いなくなると思ったら、とても怖かった」
ゆっくりと、さらに一歩近づく。
「あの時……貴方の気持ちが、少しわかった気がしました」
「……フリーデ」
アレクシウスが手を伸ばした。
「待って」
彼女は、初めて命じるように言った。
「わたくしの気持ちを……決めさせてください」
彼は、黙って頷いた。
「サイラスに襲われた時も……」
一瞬、声が揺れる。
「怖くなかったと言えば、嘘になります」
彼の瞳が、痛みを帯びる。
「でも……」
エルフリーデは、はっきりと言った。
「アレク様まで怖くなったことは、一度もありません」
その言葉に、アレクシウスの呼吸が止まる。
「わたくし、分かっています。男の人が怖いのではありません」
そっと、彼の服の裾に触れる。
「あの時のサイラスが怖かった」
「そして……守ってくれると信じていた人に、何も知らされなかったことが、少し寂しかっただけ」
顔を上げて、微笑む。
「でも、今は――」
さらに一歩、近づく。
「それでも一緒にいたいと、わたくしが、選びます」
アレクシウスの指が、微かに震えた。
「私は……君に触れても、いいのか」
それは皇太子の言葉ではなかった。
ただの、一人の男の問いだった。
エルフリーデは、迷わず頷く。
「はい。アレクシウス様なら……大丈夫です」
その瞬間、彼の理性が音を立てて崩れた。
だが、乱暴にはならない。
彼は、まるで壊れ物に触れるように、彼女を抱き寄せる。
額に、髪に、肩に――確かめるような、慎重な動き。
そしてそっと、口づけを落とす。
エルフリーデは、彼の胸に顔を埋めた。
(……怖くない)
それだけで、十分だった。
本当に怯えていない事がわかると、アレクシウスはたまらず力を込めて抱きしめる。
「っ痛」
「ふふ、アレク様、傷に障りますわ。もう横になりましょう?」
張り詰めていたものが、ようやくほどけたのだと、エルフリーデは気づいた。
腕の中から見上げて微笑んで来るエルフリーデは、それはそれは女神の如く美しかった。
2人で微笑み合い、大人しく手を繋いでベットで並んで横になり、色々話をする。
「わたくしを庇ってイザベラ様に刺された時、本当に怖かったんですから。貴方は御身を大切にしてください!」
「……そのお願いは聞けないな。私は、フリーデが危険に晒されたらまた同じ事をする」
「……では、わたくしもアレク様が危険な時は必ず助けますから!」
「ふふ、それは心強いな」
「それと……避妊薬の事も」
アレクシウスが一瞬固まる。
「そんなに、わたくしと2人が良かったの?」
アレクシウスの顔がみるみる赤くなって行く。
「……勘弁してくれ。あれは、本当に申し訳なく思ってる。君の身体も心配だったが、君と婚約した時私は既に13歳で……その、思春期だったし、色々我慢してたんだ。」
「4歳のわたくしに……?」
「いや、そうじゃない!4歳の君も可愛かったけど、そうじゃなくて!!」
「まぁ、アレク様のそんな焦ったお顔、初めて見ました」
ふふふとエルフリーデは笑いを堪える。
「わかってますわ。待ってて下さったのですよね?わたくしが大人になるのを。わたくしが15歳でキスをねだるまで、アレク様は決して手を出したり、過剰な触れ合いはなさりませんでしたものね。」
アレクシウスはうぅっと声にならない声を出す。
「わたくし、継嗣の事とか関係なく、アレクシウス様との子供が欲しいです」
「……エルフリーデ。あぁ、私も君との子供が欲しい」
そんな彼を見つめてエルフリーデは呼吸を整えた。
「アレクシウス。私を選んでくれてありがとう」
突然の告白にアレクシウスは目を見開く。その目に少しだけ涙が浮かんだ。
「……私も、選んでくれて、そして、助けてくれてありがとう。」
「愛してる、エルフリーデ。」
再び啄む様なキスをして、傷に触らない様に抱きしめ合う。
「……傷が癒えたら、ね?」
「……ああ、傷が癒えたら」
灯りがさらに落とされる。
デルミアから戻って初めて、アレクシウスの腕に抱かれてエルフリーデは深い眠りについた。
夜は、深く、静かに続いていく。
そして――
その数刻後。
アレクシウスは、一人、痛む脇腹を抑えながら立ち上がる。彼女の寝息を確かめてから、音を立てずに扉を閉めた。
――傷の痛みなど、後でいい。
今夜のうちに、終わらせねばならないことが一つだけあった。地下の尋問室は、外の世界から完全に切り離されていた。湿った石壁が冷気を放ち、燃え滓のような鋭い灯火だけが、石床に影を落としている。
サイラス・ヴァーンは、変わらず鎖に繋がれていた。しかし、その顔から優雅な笑みは消え去っている。
皇帝会議を経て、自分の仕掛けた策が「帝国の対外的な真実公開」という形で利用され、自身の存在価値が尽きたことを、彼は理解していた。
重い鉄扉が静かに開く。入ってきたのは、黒い外套を纏ったアレクシウス・フォン・ヴァルデンシュタイン、その人だった。護衛も、尋問官もいない。
アレクシウスは1人サイラスの前に立ち、その濡れたような黒髪と、冷たい眼差しを見下ろした。その視線は、憎悪ですらなく、ただの『無価値なゴミ』を見るかのようだった。
「お前の計画は、滑稽なまでに浅薄だった」
アレクシウスの声は、氷のように低く静かだった。サイラスは鎖を鳴らす。
「滑稽? 殿下、妃殿下の心は私によって『揺らぎ』ました。その傷は、決して消えない。私にとっては、それで十分――」
「黙れ」
アレクシウスは言葉を遮る。その一言は、部屋の空気を振動させ、サイラスの口を無理矢理閉じさせた。
「お前は、私がフリーデを愛していないと証明したかった。あるいは、私がただ政治的な駒として彼女を利用していると、彼女に信じ込ませたかった」
アレクシウスはゆっくりと腰を落とし、サイラスの顔と視線を合わせた。
「だが、結果はどうだ? お前の汚い策略は、フリーデの秘密を帝国の表舞台に引きずり出した。そして、私は公的に、彼女を『神の器』として、『妻』として守ると宣言する義務を負った。お前は私に、彼女を永遠に手放さない口実を与えたのだ」
サイラスの顔に、初めて動揺の影がよぎった。それは屈辱だった。彼の論理が、最も傲慢な形で利用され、打ち砕かれた。
「私の……敗北……ということですか」
「敗北ではない。お前はただ、私とフリーデの聖域を侵したのだ」
その言葉を最後に、アレクシウスの表情から理性が消えた。彼の瞳に宿ったのは、灼熱の怒りと、獣のような執着だった。
「お前が触れた場所は、帝国の政治とは無関係だ。お前がその甘い言葉を囁き、冷たい指でなぞった、フリーデの首筋――あの場所を侵した罪だけは、帝国の裁きではなく、
私自身が背負う罪として――裁く」
アレクシウスは、音もなくベルトから細く鋭い短剣を引き抜いた。その切っ先が、サイラスの鎖に繋がれた右手を静かに指す。
「お前の論理は、私が殺す。お前の優雅さは、私が奪う。そして、お前の罪を犯した『手』だけは、二度と誰にも、何にも触れさせない」
サイラスは、アレクシウスの瞳の奥に、初めて純粋な狂気を見た。それは、愛という名の、最も恐ろしい支配欲だった。
「ひっ……!」
アレクシウスは、短剣の柄でサイラスの右手の指の関節をゆっくりと叩き潰した。骨が潰れる鈍い音が、室内に響く。サイラスは激痛で呻き声を上げるが、アレクシウスは眉一つ動かさない。
「その手で、フリーデのうなじをなぞったな」
次は、指の付け根、そして手首。手は血と肉塊になり、機能不全に陥った。サイラスは悲鳴を上げようとしたが、次にアレクシウスの刃が狙った場所は、彼の口元だった。
「お前の甘美な言葉は、私の妻を惑わせた」
アレクシウスは、サイラスの抵抗を完璧な力で押さえ込み、彼の喉奥、舌の根元を、精密に、しかし深く切り裂いた。
ブシュッ――。血が噴き出すが、サイラスはもはや悲鳴を上げることもできない。彼は鎖に繋がれたまま、血を吐き出し、口を動かすが、出てくるのは、もはや言葉ではなく、歪んだ、意味のない粘液の音だけだった。彼の優雅な論理も、甘い言葉も、その場で完全に崩壊した。
アレクシウスは、血を拭うこともせず、ゆっくりと立ち上がった。
「お前の死は、フリーデへの『解放』になる。だが、お前の生は、『警告』として必要だ」
――本来なら、これは皇帝の裁きに委ねるべきだった。
だが、この男だけは、どうしても許せなかった。
彼は、息絶え絶えのサイラスを見下ろした。手は砕かれ、言葉を奪われた男の瞳には、最早、知性も優雅さもなかった。ただ、『絶望』だけが満ちていた。
「お前は今後、帝国の歴史から存在を消す。誰にも知られず、光も届かぬ深淵で、その無価値な生をこの地下牢で永らえろ。それが、私のフリーデに触れた、お前の永遠の罰だ」
アレクシウスは、短剣を外套の内ポケットに仕舞い、振り返る。
鉄扉が閉まる音は、サイラスにとって、『支配者の愛』という名の地獄への永遠の封印の音だった。




