第11章 裁きの朝、皇太子は傷を隠す 第1話
夜明けの鐘が三度鳴った頃、
皇太子アレクシウス・フォン・ヴァルデンシュタインは、生きていた。
それは祝福でも奇跡でもなかった。
ただ、事実として――命が続いている、というだけのことだった。
皇城の最奥、外部の音が一切届かぬ医療室。
厚い石壁と垂れ下がる天蓋に囲まれた寝台の上で、彼は浅く、規則正しい呼吸を繰り返している。
左脇腹には、白布が幾重にも巻かれていた。
血は止まっている。だが深く、鋭い傷だった。
医官は多くを語らなかった。
「刃は臓器を逸れていますが――生き延びたのは、運です。ただし……数刻立つ程度が限界でしょう。無理をすれば、代償は必ず残ります」
その一言を告げたあと、医官は一度だけ、包帯の奥に視線を落とした。
……おかしい。致命傷になり得た角度。出血量。衝撃の伝わり方。どれもが、「ここまでで済むはずがない」条件だった。血は止めた。縫合もした。
だが――それだけで説明がつく状態ではない。
まるで、死に向かう途中で、何かに引き戻された奇跡が起きたような。
医官は、その考えを振り払うように小さく首を振った。
「……気のせいだ」
そう自分に言い聞かせるように呟き、それ以上、何も口にしなかった。
アレクシウスの意識は澄んでいて、思考も、判断も、鈍ってはいない。だが彼自身、自分の身体が
「皇太子のもの」であることを、よく理解していた。
今、彼が弱さを見せれば――帝国そのものが揺らぐ。
だから、今日これからの大審議に立つ必要があった。
◆♦︎♦︎♦︎
同じ頃、帝都はすでに次へ動いていた。
昨夜の騒乱は、公式記録には残らない。
だが、貴族社会と司法の記録から消されるわけではない。
裁かれるべきものは、裁かれる――ただし、民の目には触れぬ形で。
残るのは、あくまで「未然に防がれた反乱」と
「一部勢力の暴走」という、整えられた言葉だけだ。
皇城正門では、朝の儀礼が粛々と行われ、
議会棟では、黒衣の官僚たちが無言で行き交う。
そして――
大審議の招集が、全貴族・全使節へ正式に通達された。
理由は一つ。
「帝国秩序を揺るがした一連の事案について、皇帝自ら裁定を下す」
それ以上の説明はない。それだけで、十分だった。
医療室の扉が、静かに開く。
入ってきたのは、フィンツだった。
「殿下」
アレクシウスは、視線だけで応じる。
「時刻です」
短い言葉だった。だがその意味は重い。
アレクシウスは、ゆっくりと上体を起こした。
一瞬、痛みが走る。
――だが、顔色一つ変えない。
「服は」
「軍服を。上衣は厚手のものを用意しております」
それで十分だった。
彼は立ち上がる。足取りは安定している。少なくとも、そう見える。
医官が思わず口を開きかけ――何も言わずに、視線を伏せた。
フィンツが低く告げる。
「妃殿下には……」
「状態は今は伏せておけ。」
即答だった。
「裁きの場に、私情は要らない」
それは冷酷な言葉だった。だが、帝国にとっては正しい。
皇城奥の小さな会議室に、限られた者だけが集められていた。
重い扉が閉まり、外の音は完全に遮断される。
机の上には、三つの書類の山。
国教会強硬派。
ゼラニア関係者。
城内協力者。
最初に口を開いたのは、アレクシウスだった。
「全部、潰す」
短く、迷いのない声。
「実行した者だけでは足りない。金を出した貴族、思想を広めた司祭、集められた民も含める」
フィンツが思わず顔を上げた。
「殿下……それでは、罪のない者まで――」
「承知している」
アレクシウスは淡々と続ける。
「だが、恐怖が残らなければ、同じことは必ず繰り返される」
皇帝アルブレヒトが、はっきりと眉をひそめた。
「……やりすぎだ」
「やりすぎでも、終わらせます」
室内が沈黙する。誰もすぐには否定できなかった。
安全で、確実で、帝国のためになる裁きだったからだ。
そのとき、アレクシウスの視線が、ふと横に流れる。
椅子に座るエルフリーデ。
顔色はまだ万全ではない。それでも、逃げずにここにいる。
何も言わない。
反対もしない。
ただ、まっすぐ彼を見ている。
アレクシウスは、包帯の巻かれた自分の脇腹をを見下ろした。
……守るために、ここまでやるのか
一拍の沈黙。
「……待て」
全員の動きが止まる。
「やはり、全部はやらない。実行した者と、直接命令した者だけを裁く」
フィンツが声を失う。
「それでは……逆に甘いのでは?」
「甘くていい」
アレクシウスははっきり言った。
「恐怖で守る国は、いずれ自分の民に刃を向ける」
皇帝は、じっと息子を見つめる。
「責任は取れるな」
「はい」
即答だった。
「彼女を守るために、世界を壊す選択はしません」
エルフリーデは、最後まで何も言わなかった。
その夜、アレクシウスは越えるはずだった一線を、越えなかった。




