第10章 帝国史上最大の夜襲 第3話
その頃、迎賓館でイザベラは、窓の外から響く怒号と騒ぎを見下ろしながらワイングラスを握りしめていた。
「おかしいわ……レオポルトからの連絡がない」
侍従が震える声で言う。
「殿下、恐れながら……帝国は最初から我らを――」
「黙りなさい」
イザベラの表情は凍った。
「アレクシウスが……あの人が、私にここまで恥をかかせるとでも?」
次の瞬間、深紅の瞳が狂気に濡れた。
「彼の未来を壊す――そのためなら、私自身が動くしかないわね」
ゆっくりと外套を羽織る。
毒の香りのように甘く、冷たい笑みを浮かべながら。
「行くわよ。今夜で――帝国は終わり」
迎賓館の扉が開く。外の闇が、イザベラを飲み込んだ。
♦︎♦︎♦︎♦︎
皇后私室前の回廊は、異様なほど静まり返っていた。
つい先刻まで、三勢力が牙を剥いていたとは思えない。
空気は冷え、灯りは低く、音という音が吸い込まれている。
アレクシウスは壁際に立ち、エルフリーデを庇う位置から一歩も動かない。
視線は回廊の奥――来るべきものを、正確に捉えていた。
「……来る」
その一言だけで、ゲルトも近衛も身構える。
剣は抜かれない。ここで刃を抜くべき相手ではないからだ。
エルフリーデは、アレクシウスの背に手を添えた。
震えているのは自分の指先だと、遅れて気づく。
(……逃げたい。でも……離れたくない)
その矛盾を抱えたまま、彼女は立っていた。
♦︎♦︎♦︎♦︎
そのとき。足音が、ひとつ。軽く、迷いのない響きだった。ふわり、と。
花と香草を焦がしたような、甘く重い香りが流れ込む。
「……この匂い……」
エルフリーデが、思わず息を詰める。
アレクシウスの声が低く落ちた。
「――イザベラだ」
緋色の外套が灯りの端に揺れた。ゼラニア王妹、イザベラ。
彼女は微笑んでいた。だがそれは、好意でも余裕でもない。
ここに来ると決めていた者の顔だった。
「随分、静かになったのね。帝都は」
その声は柔らかく、場違いなほど落ち着いていた。
アレクシウスは一歩前に出る。剣に手はかけない。
だが、完全にエルフリーデを背に隠す位置だった。
「イザベラ殿下」
名を呼ぶだけで、十分だった。
イザベラは、ゆっくりと視線を巡らせる。
近衛。
付き従う者たち。
そして、ほんの一瞬だけ――エルフリーデを見る。
その目に、敵意はなかった。
「……王族同士の話、ですわ。無粋な者は要りませんの」
問いではなかった。確認ですらない。ただの、宣告。
ゲルトが息を呑むのが分かった。
アレクシウスは何も言わず、ただわずかに視線を動かす。
それだけで、伝わった。
「――総員、距離を取れ」
ゲルトの声は低く、硬い。
「しかし――」
「下がれ」
それ以上、誰も逆らわなかった。
近衛も、イザベラ側の付き人も、互いに目を合わせることなく、静かに離れていく。
回廊に残ったのは、三人だけ。
灯り。
香り。
そして、逃げ場のない沈黙。
イザベラが、ようやく笑った。
「やっと、話せるわ」
アレクシウスは一歩前へ出る。
その動きは静かだが、完全にエルフリーデを背に隠す位置取りだった。
「イザベラ殿下。レオポルト将軍を動かし、帝国に刃を向けた理由を聞こう」
イザベラは肩をすくめる。
「理由? そんな大層なものじゃないわ」
そして、少しだけ視線を逸らす。
「……話が違っただけよ」
アレクシウスの眉が、ほんのわずかに動いた。
イザベラは続ける。
「子どもの頃、外交官たちが言っていたでしょう?
将来、両国の関係が深まれば婚約という形もあり得るって」
それは、どこの国でもある、曖昧な外交辞令だった。
未来を約束しない言葉。可能性を残すだけの、空虚な表現。だが――
「私は、それを決まった話”だと思っていたの」
イザベラは笑った。自嘲でも、後悔でもない。ただの事実として。
「だから、あのネックレスも……特別な意味があると、信じていた」
エルフリーデは、はっと息を呑む。
……そんな……
アレクシウスは、静かに答えた。
「当時、まだ国交は今よりも盛んだった。形式的なものだ」
イザベラの笑みが、わずかに歪む。
「ええ。今なら分かるわ。でも――その今が来るまで、誰も訂正してくれなかった。馬鹿な自分は‥それでも信じてたのよ」
一歩、イザベラが前へ出る。
「そして突然、現れたのよ。エルフリーデ、たった4歳のあなたが。私の未来を、何もかも奪う存在として」
その視線が、初めてエルフリーデを真正面から射抜いた。
「あなたが憎いわけじゃないわ。」
淡々とした声。
「あなたは象徴にすぎない。私が壊したいのは――アレクシウス、あなたの未来よ」
エルフリーデの胸が、ひどく痛んだ。
……違う。選ばれなかったのではない。理由を知らされないまま、そう思い込まされてきただけなのだわ。
♦︎♦︎♦︎♦︎
イザベラは外套の内側から、小さな香瓶を取り出した。
「ねぇ、これ何か知ってる?――ゼラニア王家に伝わる古い遺物。神の器の反応を確かめるものなのですって。アレクシウス。あなたは神の器を守りたいのでしょう?」
アレクシウスの声は冷たい。
「それが君の答えか」
「ええ。だから――試すの。貴方の大切な、大切なお姫様が本当に神の器かどうか、ね」
香瓶が、指先で弾かれる。
パリン。
砕けた瓶から、甘い霧が広がった。
「フリーデ、目を閉じろ!」
だが、その霧が部屋を覆うのは一瞬だった。
エルフリーデの額が、じわりと熱を帯びる。
(……また……この感じ……)
胸の奥が、きつく締めつけられる。怖さではない。
守らなければならないという衝動が、先に来る。
割れるほど頭がズキズキと痛む。そこにイザベラの声が、恍惚とした響きを帯びた。
「見て……これが神の器。追い詰められた時ほど――輝くわ!」
アレクシウスが即座にエルフリーデを抱き寄せた。
「フリーデ、聞け!君は応えなくていい。この力は――っ」
その瞬間、エルフリーデを抱きかかえたまま床に崩れ落ちた。
「……アレク……様?」
霧がなくり視界がハッキリしてくると、アレクシウスにイザベラが抱きつく様に真後ろにいた。
「あは、ハハハッ!ねぇ、そんなに大事?そんな子が?」
「何をおっしゃって……」
そうしてイザベラがアレクシウスから離れる。
―その手には真っ赤に染まったナイフが握られていた。
「――え?アレク様?アレクシウス様!?」
エルフリーデが痛む頭を抑えながら、顔を顰めて応えないアレクシウスを見ると、脇腹辺りから血が滲み出て軍服を真っ赤に染めていた。
明らかに、致命症と思われる傷からどくどくと血が流れ落ちる。
その瞬間、エルフリーデは一気に血の気が引いた。
「そんな……っ!」
「逃げ……ろ!フリーデ……!」
「ダメよ、逃さないわ。貴女にはゼラニアに来て頂かなければ。命さえあれば良いって、お兄様が仰ってるの」
そう言いながら、イザベラは再びナイフをエルフリーデに向け飛びかかってくる。
その瞬間、アレクシウスがエルフリーデを突き飛ばした。
「邪魔をしないでよ、アレクシウス!稀代の天才皇子も1人の女にかかると思考も鈍くなるのね?面白いこと!」
そう叫びながらイザベラの目からふと力がなくなった。
「……そうね、そんな不甲斐ない貴方はもう要らないわ」
「イザ……ベラ……」
ナイフの向きが今度はアレクシウスに向かったその時――
ダメ……!ダメよ‼︎アレクシウス様をこれ以上傷つけないで――――‼︎
心臓の奥が、強く脈打つ。
エルフリーデの身体が神々しく光輝いた。
――次の瞬間。
イザベラの身体が床に縫い止められた様に動けなくなった。
「何よこれ!何なのよ‼︎これも神の器の力だと言うの⁈」
エルフリーデには、何が起きたのか分からなかった。
ただ、胸の奥から引き寄せるような感覚が走っただけだった。
奪うのではない。
癒すのでもない。
祈ることすら、していない。
――失われようとしたものを、こちら側へ引き戻した。
そんな感覚。
崩れ落ち倒れていたアレクシウスを見ると、その身体がわずかに揺れた。
「アレクシウス様!」
エルフリーデは慌てて駆け寄る。
彼の止まりかけていた呼吸が、細く、浅く――だが、確かに続いている。
血はまだ止まっていない。
傷も全く塞がっていない。
それでも、致命的だったはずの傷が、そこで食い止められていた。
……戻った……?
その瞬間、アレクシウスの指が、微かに動いた。
「……フリ……デ……」
かすれた声。それだけで、エルフリーデの膝から力が抜けた。
……生きてる……
そう理解した途端、身体を満たしていた光は、嘘のように消えた。熱も、衝動も、跡形もなく。
残ったのは――血の匂いと、冷たい床と、まだ間に合ったという、確かな実感だけだった。
――止めたい。
祈りでも、命令でもない。それだけだった。
だがそれは、内側から噴き上がる衝動ではなかった。
逃げるための力でもない。
――遮るための力。
それは刃を弾く閃光ではなかった。
衝撃でもない。
ただ、これ以上、踏み込ませないという意思だけが、空間を満たしたのだ。
イザベラをふと見ると彼女のナイフを握る手が、震えている。目の前の少女は、こちらを睨み返してもいない。敵意も、怒りもない。ただ、静かに立っていた。
「イザベラ様」
エルフリーデの声は、かすれていた。だが、逃げていない。
「もう……ここまでです」
イザベラの喉が、ひくりと鳴る。
「……あなた……」
その目が、初めて揺れた。
目の前にいるのは奪った者ではない。勝ち取った者でもない。まして、敵でもない。
ただ――何も知らされず、巻き込まれただけの少女だった。
「……私……」
イザベラの指から、ナイフが落ちた。乾いた音が、回廊に響く。
その瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、彼女の膝が崩れる。
「……違う……違うの……」
誰に向けた言葉でもなかった。
「……私は……選ばれると……」
その声は、もはや怒りでも憎しみでもない。
取り返しのつかない勘違いが、音を立てて崩れていく音だった。
エルフリーデは、そっと息を吐いた。
(……終わった)
だが――
「……アレク様!」
彼女は、慌てて振り返る。アレクシウスは、かろうじて息をしている状態だった。
脇腹から滲んだ血が、外套を深く染めている。
「……大丈夫だ……」
その声は、まったく大丈夫ではなかった。エルフリーデは、駆け寄る。
「動かないでください……!」
彼は、微かに笑った。
「……君が……無事なら……」
それ以上、言葉は続かなかった。
足音が、重なる。複数の気配。近衛が、ようやく踏み込んできたのだ。
「殿下!!」
「医官を――!」
アレクシウスの身体を支え、必死に呼びかける。
「アレク様……お願い……目を……」
彼は、薄く目を開ける。
「……フリーデ……」
その名を呼ぶ声は、確かだった。
それだけで、彼女の胸はいっぱいになる。
この人は………
隠していた。
黙っていた。
すべてを、背負って。
それでも――
わたくしを、選び続けていた。
エルフリーデは、彼の手を強く握った。
「わたくし、……離れませんわ……」
その言葉は、誓いでも命令でもなかった。
ただの、選択だった。
回廊の外で、夜明けを告げる鐘が鳴る。
長い夜が、ようやく終わろうとしていた。
今はただ。血の匂いと、冷えた石床と、互いの体温だけが、確かにそこにあった。
そして帝国は――
静かに、新しい段階へ踏み出そうとしていた。




