第10章 帝国史上最大の夜襲 第1話
夜の深い底。
三千の巡礼者の祈りが、不気味な波のように揺れる。
反皇太子派の私兵が、闇に紛れて皇城へ滲み出す。
ゼラニア将軍レオポルトは、礼拝堂へ続く隠し通路の前で黒影部隊へ静かに命じる。
「――動け」
その瞬間、三つの闇が同時に帝都を襲い始めた。
「――始まった」
何かを感じたアレクシウスが立ち上がった。エルフリーデは震える手を胸で押さえる。
彼女の頬へそっと触れ、短く囁いた。
「どんな闇が来ても――君だけは、必ず守る」
その声を合図のようにして。
帝都史上最大の夜襲が――静かに幕を開けた。
深夜二時。
帝都は、ひたすらに静かだった。
だがその静寂は、暴風の直前にだけ訪れる、不吉な静けさだった。アレクシウスは皇后私室の前、わずかな灯りの中でエルフリーデに外套をかける。
「少し冷える。……大丈夫か?」
頷こうとしたが、指先が震えていた。
それに気づいたアレクシウスが、彼女の手を包む。
「怖くていい。その分、私が動けばいい」
エルフリーデは息を呑んだ。
言葉より強い、ひどく優しい言い方だった。
「……アレク様は、怖くないの?」
ほんの僅かに笑い、アレクシウスが囁く。
「怖いとも。君を失うかもしれないことだけは」
その一言で、エルフリーデの心臓は跳ね上がった。
わたくし……そんなにも…
だが次の瞬間――アレクの瞳が氷に変わる。
「――来る」
城門広場。
三千の巡礼者が、一斉に立ち上がった。夜の空気を震わせる祈りの合唱が、波のように押し寄せる。
「神の器を解放せよ……」
「妃殿下に謁見を……」
「神の御心に従え……!」
白い法衣の群れは、祈りの姿勢を保ったまま前進を開始した。ただの信徒ではない整然とした歩みは、ほとんど軍だった。広場の前線で指揮をとる近衛隊長が叫ぶ。
「これ以上前へ出れば、城門を閉じざるを得ない!!」
だが巡礼者たちは止まらない。
その中心に、白金の法衣をまとった枢機卿マグノが立ち――祈りを高らかに響かせた。
「神の器を……返せ……!」
広場全体が、ざわ……と揺れた。
しかし――アレクの命で潜んでいた密偵が王宮へ火急の合図を送る。
(殿下……巡礼者、前進開始!)
皇城の上層でその報告を受け取りながら、アレクシウスは低く言った。
「――抑えず、泳がせろ。奴らの本命は正面ではない」
その言葉通り、巡礼者の波は今やただの陽動だった。
――同じ頃、議会棟。
廊下を武装した私兵たちが静かに占拠していく。
監視に着いていた軍の隙をついた若ハインリヒェン侯は、夜陰に紛れて政務会議室へ踏み込んだ。
「妃殿下の所在はどこだ!?皇后私室だと聞いたが!!」
議員たちが逃げ惑う。
しかしその混乱すら――アレクシウスが意図して作った“ 煙幕だ。彼らは知らない。
本物の皇太子妃は、もう皇后私室にはいない。だが若侯爵は焦っていた。
「この混乱は好機だ……!神の器さえ手中にすれば――!」
その目には狂気と焦燥が混ざっていた。
レオナルトがその動きを遠巻きに見て、冷たく言った。
「……罠に自ら飛び込むとは。やはり経験不足だな」
帝都北端・古い礼拝堂。
レオポルト将軍は黒影部隊を引き連れて、静かに潜入を開始していた。
「この礼拝堂の下――古い排水路が皇后私室へ通じている。帝国はこの道を忘れている。我らは利用しない手ない」部下たちが頷く。
「妃殿下は恐らく移送中。その瞬間を狙え」
将軍の声は落ち着いており、揺らぎがない。
「奪うのではない。――保護だ。国を守るための」
ただし、帝国にとっては奪うに等しい
すでに動く時間は整えられている。
「全隊――配置につけ」
そのとき、黒影のひとりが呟いた。
「将軍……帝国の動きが静かすぎます」
レオポルトは微かに笑った。
「静まり返る時ほど――策がある」
その読みは、正しかった。
皇后私室の前には、最精鋭の近衛騎士十名が静かに配置されていた。
フードを深くかぶり、外套姿の小柄な影が二つ――。
一つはエルフリーデ。もう一つは、彼女と背格好の似た侍女。
アレクシウスは彼女のフードを直し、頬に軽く触れた。
「……ここからは、声を出さないで」
エルフリーデは喉で小さく応えた。
「第二鐘、予定より早いな」
近衛騎士の一人が低く告げ、合図を送る。次の瞬間――
城内に、本来なら礼拝時刻を告げるはずの澄んだ鐘が鳴り響いた。
予定外の時刻。それだけで、城に巣食う者たちには十分だった。
――動いた。
城門前に集まっていた巡礼者たちが、まるで示し合わせたかのように前へと詰め寄る。
「今だ……!」
「器は動いた!」
「祈りの力で導け!」
誰も「皇太子妃」とは叫ばない。
それでも、彼らは正確に理解していた。
城のあちこちで、闇がざわめき始める。
政務会議室で若侯爵が血走った目で叫ぶ。
「移送ルートを押さえろ!!皇太子妃はこの機に奪う!」私兵たちが一斉に動く。
古い礼拝堂の下、レオポルトが静かに呟く。
「……来たか。囮に」
影たちが礼拝堂の奥へ滑り込み、排水通路の暗闇へ降りていった。
三つの勢力が、見事なほど同じ一点――皇太子妃の移送ルートへ殺到する。
まるで誰かが盤面を整えたように。
誰か――すなわち、アレクシウス。
アレクシウスは皇后私室の扉に手をかけ、近衛隊長ゲルトへ告げる。
「――全隊、配置につけ」騎士たちは無言で頷く。
エルフリーデは息を詰め、アレクを見つめた。
……アレク様……
振り返ったアレクシウスがわずかに微笑む。
「フリーデ。ここからが――反撃だ」
彼の声と同時に帝都全体が、爆ぜるように動き始めた。




