第1章 冬宮の舞踏会と嘘つきな皇太子 第2話
その日、冬宮の大広間は、無数の燭台と楽団の調べに包まれ、氷の宮殿の中に暖かな光を広げていた。
オルデンブルグ帝国の冬の始まりを告げる、皇家主催の舞踏会。帝国中の貴族が集う華やかな夜の中心に立つのは「若き氷刃」「盤上の覇者」と噂される皇太子アレクシウス・フォン・ヴァルデンシュタイン、28歳。
192センチという長身に、無駄なく引き締まった細身の身体。柔らかな金髪と、宝石のような深いペリドットの瞳を持つ美貌。しかし外見の甘さに反し、その佇まいは常に冷静で冷徹。全ての事象の先を読み、それを外した事のない完璧な天才皇太子としての圧倒的な威厳が、彼の周囲の空気すら変えていた。
その隣で白いドレスに身を包む皇太子妃エルフリーデは十九歳。アレクシウスより頭一つ半ほど小柄だが、月の光をそのまま編み込んだような、淡いプラチナシルバーの銀髪と、氷湖の底を思わせる深い碧眼は、見る者すべての息を奪った。光に揺れるたび、髪は銀砂のようにきらめき、その姿は「帝国の至宝」の名にふさわしく、まるで人ならざる美を湛えているかのようだった。
二人が並ぶ姿はまるで絵画の一幕。
静かで、優雅で、誰もが憧れる夫婦。
……しかし、その裏では別の囁きが漂っている。
「ご成婚から3年、未だご懐妊の報せはないのだろう?」
「側妃を迎えるべきでは?」
「皇太子妃殿下は、美しく完璧だけれど……継嗣がいなければね」
「……国教会の大司教まで“子に恵まれぬのは天の采配”などと言い始めたらしいぞ」
「また宗教が政治に口を出すつもりか……」
「ゼラニアの北辺軍が再編成を進めているという噂も出ているし……帝国は内外とも落ち着かぬな」
視線の矛先は、いつもエルフリーデに向けられる。
アレクシスは完璧な笑顔を浮かべたまま、挨拶に訪れる貴族達を受け流しつつ、エルフリーデに対して心無い噂をするもの達の顔を全て頭に入れて行った。
その時──
反皇太子を密かに掲げるハインリヒェン侯爵派に属するロートベルク伯爵令嬢アマーリエが父の伯爵と共に絹のドレスの裾を揺らしながら歩み寄ってきた。
2人礼儀正しく頭を下げ、皇太子からの言葉を待つ。
「久しいな、ロートベルク伯」
「ご機嫌よう、ロートベルク伯爵。お隣のお若い方は伯のお嬢様?」
「帝国の若き太陽とその黎明の妃殿下にご挨拶申し上げます。えぇそうです、エルフリーデ妃殿下。こちらは娘のアマーリエにございま――」
伯爵のことばを遮り横からしゃしゃり出てくる若い娘。
この手の娘に関わる時は、あまり良い事はない。
4歳の時に、アレクシウス殿下と婚約がなされてからこれまで、母代わりの皇后陛下に直に教え込まれた社交界の裏事情と社交術。その勘がエルフリーデに危険な信号を送った。
「――っ、今年16で本日がデビュタントでごさいまして、皇太子殿下にご紹介させて頂きたく。いやはや、妃殿下の美しさは真冬に咲く冬薔薇の様でございますが……春の柔らかな陽にほころぶ桃花のような我が娘も、殿下の目には目新しく映るのではないかと思いまして。」
一瞬アレクシウスの瞳に影が指す。
「お初にお目にかかります皇太子殿下、妃殿下。ロートベルク伯爵家アマーリエにございます」
若々しくみずみずしい身体を、特に豊満な胸を強調したドレスに身を包み、にっこりと美しい所作で挨拶をする娘。新緑を思わせる翠の瞳、しかしその目は、エルフリーデを上から下まで“値踏み”するような色。
「エルフリーデ妃殿下におかれましては、ご体調はすこぶるよろしいようですね?」
エルフリーデが静かに微笑む。
するとアマーリエは、花のような笑みを貼りつけたままさらに続ける。
「いえ……。ただ、ご成婚から3年。殿下の周辺から中々“春の兆し”がまったく聞こえてこないものですから──寒い冬が始まったばかりですけれど、誰も彼も皆様、寒いのは嫌でございましょう?国を憂う臣下としては皇太子殿下の事がつい、心配になりまして。わたくしなら明るい春の兆しのお知らせの手助けが出来るかと思いまして。」
柔らかな声だが、その形の良い唇は意地悪く歪む。
周囲の貴族たちが息を呑んだ。
“子がいない”ことを揶揄する、社交界特有の遠回しで残酷な言い方。暗に自分なら側妃として子を産む役目を果たせる。普通なら、沈黙するしかない攻撃。
冷えた笑顔を崩さず、アレクシウスが間に入ろうとしたが、エルフリーデも微笑んだまま一歩も下がらなかった。
チラッとアレクシウスを見て、まるで「大丈夫だ」と言う様に軽く頷く。
そして――
「まあ……私のことをそこまで気にかけてくださるなんて。卵から孵ったばかりの……外の世界を知らない若い雛鳥の様に、初々しく可愛らしいご令嬢ですのに。本来なら“湖の主”が気にするような季節の移ろいまで案じられるなんて……本当にお優しい娘さんなのね。」
声は温かい。だが意味は違う。
──政治も知らず婚約もしていないデビューしたてのひよっこのあなたが、我々皇族の、皇太子夫妻の未来を案じるなんて滑稽だわ。
「きっとお父様である伯爵のご教育が行き届いているのね。まだ羽も柔らかい雛鳥のうちから、“湖の気まぐれな風”まで案じられるなんて……本当に頼もしいことですわ。将来が楽しみですわね?伯爵?」
伯爵の顔がヒクッと歪む。
今まで大人しく、皇太子殿下の横で微笑むか弱い女性だと侮っていた伯爵は、自分の教育がなっていない、身分を超えすぎている、と皮肉られた事に内心焦りを覚えた。
しかし、アマーリエは気づかない。
「まあ……妃殿下ったら、褒めすぎでございますわ。わたくし、確かにまだ雛鳥ではございますけれど……“湖の風”くらい読めなくては、いずれ立派な白鳥になれませんものね?」
周囲にざわめきが走る。
“白鳥”──それは皇族を象徴する比喩。
そこへ自分を重ねるなど、本来なら決して許されない。
それすら気づかない無邪気さが、彼女がまだ雛鳥である証だった。
静かに笑顔を絶やさず何も言わないエルフリーデに対し、勝てると気を良くしたのかアマーリエは更に続けた。
「それに“湖の主”のおそばに立つには、季節の変わり目を感じ取る勘も大事、と父にも言われておりますの。妃殿下にそう見ていただけて光栄ですわ。」
アマーリエを見つめたまま微笑を絶やさず、わずかに首を傾ける。
その瞳は湖面のように静かで、そして深い。
「まあ……白鳥になられる夢をお持ちだなんて素敵ですわ。ただ、“湖の主”の羽は生まれつき決まっておりますの。可愛らしいカモの雛鳥の努力では、どうにもならない部分もございますでしょう?」
一瞬、何を言われたのか分からずアマーリエはキョトンとする。
「けれど、無理に翼を広げようとなさらずともよろしいのよ。雛鳥には雛鳥にしかない可愛らしい季節がございますもの。焦らず、その時を大切になさってね?」
わざと一度だけまつ毛を伏せ、まるで本気で感心したかのように柔らかく微笑んだ。
「まあ……将来を高く望まれるのは良いことですわ。
けれど──白鳥は、生まれた時から“白鳥”なのですって。
幼い頃に亡くなりました父と母からそう教わりましたの。」
アマーリエの呼吸がわずかに止まった。
「雛鳥のうちは、どうか無理をなさらず。羽が整うまでは、湖の端でお過ごしになる方が安全でしょう?」
その声音はあくまで優しい。
だが意味は、“あなたはそもそも湖の中央に立てる身ではない”という冷徹な現実を突きつける。
私はにこりと大人な満面の笑みを浮かべた。
伯爵令嬢の眉がぴくりと動く。エルフリーデはその僅かな動揺を見逃さない。
「うふふ!そうだわアマーリエさん?この日のデビューの為に沢山ダンスの練習をしたのではなくて?」
無邪気を装い、パチンと両手で手を鳴らす。そしてさらに柔らかく微笑んだ。
「ねぇ、アレク!この可愛らしい雛鳥のお嬢さんと一曲踊って差し上げたら?」
あくまで「貴女に殿下を貸してあげる」と上からの目線。
さらに、わざとアレクシウスを2人だけの愛称で呼ぶ。
「良いの?フリーデ?」
エルフリーデとアマーリエのやり取りを、冷えた微笑で静観していたアレクシウスはその意図をしっかり理解して、エルフリーデに合わせる。
「えぇ、先程アレクとはファーストダンスを終えましたし。わたくしはこの通り体調がすこぶる良いのだから、疲れてなんていませんわ。あそこにいる兄と久しぶりにダンスを。ね?アマーリエさんも遠慮なさらずに。うふふ、“雛鳥の練習相手”でしたら、殿下もきっと快くお引き受けになりますわ。」
会場中に小さくどよめきが走った。
伯爵令嬢の頬が赤く染まる。もう何も言い返せなかった。
……エル、強い……
近くでそのやり取りを見ていたエルフリーデの兄、レオナルト・フォン・ディアス侯爵が思わず息を漏らした。
アレクシウスの腕にギュッと自らの腕を絡ませながら、エルフリーデは上目遣いで夫を見つめ、無邪気に言い放つ。
「さぁアレク。一曲だけ、お相手をお願いね。」
エルフリーデに促され、アレクシウスは娘に向き直る。
「わかったよ、舞踏会は社交の場だし、私はエルフリーデにな敵わないからね。これも私の仕事だ。――さぁ雛鳥のお嬢さん、お手を。」
完璧な微笑。どこにも隙のない対応。
誰もが“妻に夢中な優しい皇太子”と感じるだろう。だが──レオナルトだけは気づいていた。
……声が、普段より二度低い。怒りを隠す時のアレクの声。あぁ、ロートベルク伯爵家……密かに反皇太子を掲げて、アレクの弟のニコラウス殿下を推すハインリヒェン侯爵派だったか?あの娘は確か、嫡男が生まれてだいぶ後にできたはず。伯爵家では相当甘やかされていたと聞くし、伯爵もエルが大人しいと噂を信じて娘をけしかけたか。
エルが予想以上に反撃したとはいえ、アレクがあれで済ますはずがない。…あの家は終わったな。
アレクシウスは伯爵令嬢に手を差し出し、自然な流れで舞踏へと導いた。
その所作はどこまでも優雅で、非の打ち所がない。
だが、微笑みの奥――
瞳のさらに奥で、氷が静かに軋む音がしていた。
……ロートベルト伯爵領の主力は絹。勢いはあるが、質も量も、私が密かに出資しているアルテンブルグ公爵領の絹には到底及ばない。
そこのB級品で十分だ。市場に一気に流せば、価格は崩れる。名が売れれば、粗も売れる。
そして――ロートベルトの絹は、誰にも見向きされなくなるだろう。
しかし、バカな貴族共はいつになったら理解するのか。どれだけ年頃の娘を差し出され様と、私にはエルフリーデ以外は目にも入らないのに。
これだけ周りに知らしめていても、次から次へと沸いてくる虫の様だ。
私のエルフリーデをコケにした報いは必ず返す――。
アレクシウスは考えを伏せたまま、完璧なステップで令嬢をエスコートする。その微笑みの裏で、最愛の妻を侮辱した家門の終わりが、すでに静かに描かれていることを――
知る者は、ほとんどいない。




