第9章 三つの敵が動く前夜 第2話
軍議室に足を踏み入れた瞬間、空気の温度が変わった。
さっきまで廊下に満ちていた怒号や足音は、厚い扉を境に遠のき、ここだけが、嵐の中心にぽっかり穿たれた静かな穴のようだった。
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部屋の中央には大きな楕円形の卓。その上には帝国全土の地図。
白・赤・青――三色の駒が、まるで悪い冗談のように三方向から帝都を取り囲んでいた。
白は国教会。
赤は反皇太子派。
青はゼラニア。
アレクシウスは、エルフリーデの手を一度だけ軽く握り直してから前へ出た。
皇帝、皇后、ニコラウス、影の長、数名の高官。
議員も聖職者もいない。“家族”と、ごく限られた頭脳だけの場。
皇帝が低く問う。
「状況を」
「国教会――三千の巡礼者を城門に。モレノ本人がエルフリーデの引き渡しを要求しています」
アレクシウスは、あえてエルフリーデの名をはっきりと告げた。誰が何を狙っているのか、この場で曖昧にする気はない。
皇帝が重く頷く。
「第一の波が来たか……」
椅子から立ち上がったマティルダがさりげなくエルフリーデの隣へ移動する。彼女の手が、エルフリーデの指を包んだ。
「エルフリーデ。彼らはあなたの信仰を愛しているのではないわ。あなたの力を、奪いたいだけ」
喉がきゅっと鳴る。
……わたくしは、誰のものでもないのに……
一歩前へ出たアレクシウスは「モレノには拒絶を。エルフリーデは帝国の皇太子妃だ」と即答する。だが皇帝の表情は険しいままだ。
「強硬に拒絶すれば、巡礼者は暴徒になる恐れもある」
「……承知しています」短く答え視線を地図へ落とした。
白い駒の下――城門前の広場。
赤い駒――議会棟に近い裏通り。
青い駒――外門近くの迎賓館。
まるで、誰かが事前に盤上に並べた駒に、自分たちが遅れて気づいたような配置だった。
エルフリーデが勇気を振り絞ったように声を出す。
「わたくしが……矢面に立てば……?」
「駄目だ」
鋭く声が遮る。
「君を晒す気はない。君は政治の盾ではない」
エルフリーデの胸がじんと熱くなる。皇帝が深く息を吐いた。
「ではまず、国教会の牙を折らねばならぬ」
影の長が静かに一歩前に出た。年齢不詳の男。影の網を束ねる人物。
「……モレノの不正。使う時が来ましたな」
「……以前、お願いしていた孤児院の……?」
アレクシウスはうなずいた。
「そうだ。あれから調べを進めさせていた。――色々と、出てきた」
その声は静かだが、底に鋭い怒りを含んでいた。
最初に気づいたのは、フリーデだ
帝都東部の小さな孤児院。エルフリーデから聞いたあの孤児院の光景が、アレクの脳裏に浮かぶ。
「最低限」をかろうじて満たしているだけの、ぎりぎりの生活。
それでも、子どもたちは笑っていたという。エルフリーデの膝を取り合い、絵本を覗き込み、彼女のスカートの裾を握って離さなかったと。
彼女がさりげなく食糧庫と備品庫を見て回った時。
『……院長先生。確か春先に、古い毛布はこの冬が来る前に買い換える様に本部に届けましょうとお話ししませんでしたか?まだ古いままの様でずけれど……』
『ええ……妃殿下の指示通りに申請はしました。しかし今年は、教会本部からの備品購入費が少し……。現場にはなかなか行き渡らない様で……』
――あの一瞬の、院長の言いよどみ。
『教会本部への備品購入などの割り当ては例年通りと聞いていますが……。倉庫管理の書類や帳簿を帰りに預かれますか?皇城で確認してみますわ』
エルフリーデは、その場で責めるのではなく、
院長の体面を保ちながら、静かに資料だけを持ち帰った。
「――あの帳簿から、ほころびが出た」
アレクシウスは影の長に目で合図を送ると、机の上に数冊の帳簿と数枚の書類が並べられた。影の長が説明を引き取る。
「まず、孤児院の備品・食糧に関する国から教会本部への補助金は、ここ十年、減ってはおりません。むしろ一部は増額されている」
皇帝が目を細める。
「だが、現場では足りていない」
「はい。そこで辿り着いたのが――帳簿様式の変更でございます」影の長が一枚の通達文を持ち上げる。
《今年度より、孤児院の詳細帳簿は本部の書式に一本化する。現場での細目記録は不要とする》
マティルダが眉を寄せる。
「……記録をやめさせる通達?」
「ええ。院長たちは本部の指示に従っただけ。その結果、正確な数字は教会本部にしか残らなくなりました」
アレクシウスは続けた。
「――つまり、現場の貧しさを証明する紙を、最初から存在させない仕組みだ」
ニコラウスが息を呑む。
「最初から……奪うつもりで、帳簿を消した……?」
「モレノ自身の署名がある。十年前の枢機卿時代から、徐々に制度を変え、今の形にした。――目的は一つ」
影の長が次の束を広げた。そこには物品ごとの単価一覧が並んでいる。
「毛布一枚あたりの単価、三割増し。穀物は五割増し。
ランプ油、石炭……一見すると、物価高騰のせいにも見えますが――」
「――帝都の市場価格とは、まったく連動していない」
皇帝が書類を覗き込み、目を細くする。
「つまり、帳簿上では十分な量を高値で買っていることになっている。だが、実際に届けられるのは質を落とした安物と、必要量ぎりぎり」
マティルダの指先が震えた。
「その差額は……」
「商人を経由して、献金という名目でモレノ個人の懐へ」
アレクシウスの声に、軍議室の空気が一段階冷えた。
影の長は淡々と続ける。
「もちろん、その商人たちはすべて強硬派の教会関係者と繋がっております。恐らくその代表は、帝都の国教会強硬派コンラートが大きく関わっている。物品入札の権限を握り、競争相手を締め出し、指定商人のみ受注可能にした上で、献金を強要した形です」
皇帝の拳が、卓の端を静かに叩いた。
さきほど謁見の間で机を砕いた時のような剥き出しの怒りではない。
もっと深く、静かに煮詰まった怒り。
「――孤児たちの毛布とパンを削って、私邸を建てたか」
影の長が一枚の図面を広げる。
「モレノ大司教の私邸。教会の施設という名目ですが、実質は彼の個人宅です。石材の質、装飾、使用人の数……全て、本部の帳簿上は教会施設整備費」
アレクシウスは視線を皇帝へ向けた。
「ここまでは、まだ教会内部の腐敗で済ませられる。問題は――」
影の長が、最後の束を取り出した。封蝋には国教会の紋章ではなく、別の印章が押されている。
「ゼラニア王国への献金名目の送金記録です」
空気が微かに揺れた。
「ゼラニアへの……?」
ニコラウスが呆然と呟く。
影の長は、特に感情を込めずに読み上げた。
「ミサ用祭具購入費、聖歌隊交流事業費、辺境支部支援金――名目はいずれも、宗教交流や支部援助。しかし実際には、金はゼラニア王城近くの口座へ集約され、そこから再びモレノ本人に還流している痕跡がある」
「――そして最近の数件、但し書きにこうある」
影の長が一枚を指で示した。
『神の器エルフリーデ妃殿下の保護に関する準備金』
軍議室の空気が、一瞬で凍りついた。
エルフリーデは息を止めたまま、自分の名が書類の上で冷たい文字になっているのを見つめた。
「……わたくしの……名前が……」
アレクシウスは彼女の方は見なかった。今見れば、怒りで何かを壊してしまいそうだからだ。
「ゼラニアは、国教会を使って神の器の奪取を正当化する。一方モレノは、ゼラニアから政治的後ろ盾を得て、自分の失脚の芽を摘もうとした。――利害が一致した結果が今回の三千の巡礼だ」
「つまり、今回の騒動は教会全体の意志ではない。
モレノ個人と、その派閥による暴走と見てよいか?」
アレクシウスは短く頷いた。
「教会そのものと戦う気はありません。信仰そのものを敵に回せば、帝国は長く持たない」
「だからこそ、毒だけを切り取る必要があるのね」
マティルダが静かに呟いた。
自分の胸の奥が妙に静かになっていくのを感じていたエルフリーデは、孤児院で見た光景を思い出す。
薄い毛布。
かすかな隙間風。
それでも笑っていた小さな手。
(あの子たちの毛布が……パンが……)
その向こう側に、豪奢な私邸の石壁と、赤いワインを満たしたグラスが見える気がした。
「――陛下」
アレクシウスは卓に片手を置き、真正面から父を見た。
「城門前の巡礼者たちは、今なお膝をつき神の意思を叫んでいます。しかし実際には、彼らを動かしているのは信仰ではない。金と、歪んだ野心です」
影の長が補足する。
「巡礼者の旅費、宿代、食費、旗や聖句の印刷費。そのすべてが臨時礼拝施設費や巡礼支援費として計上されております。――つまり、暴動資金を宗教活動費として合法の皮で包んでいた」
地図上の白い駒を、指先で軽く弾いた。
「モレノを切り捨てさせれば、国教会本体は沈黙せざるを得ない。自浄作用を示さなければ、今度は帝国が教会に対して本格的な調査を入れる大義を得る」
皇帝はしばし目を閉じ、それから息を吐いた。
「……使うのだな。この刃を」
「はい」
アレクシウスは即答した。
「ただし、エルフリーデの名前を、彼らの口から二度と政治の道具として出させないためにも」
マティルダがエルフリーデの肩を抱き寄せた。
「エルフリーデ。あなたが孤児院の倉庫で抱いた違和感が、ここまで繋がっているのよ。――あなたの目は、正しかった」
目尻に小さな涙が滲んだ。
(わたくし……ほんの少し、おかしいと感じただけなのに)
だが、その小さな「おかしい」が、天才の頭脳と影の網に渡ったとき、こうして巨大な腐敗の姿を現すのだ。
アレクシウスはちらりとエルフリーデを見る。
(……君が見つけた糸から、俺はここまで辿り着いた)
それを口に出すことはしない。今は、政治と戦争の時間だ。
皇帝が最後の一枚――ゼラニアとの裏の送金記録に目を落とし、低く言った。
「モレノとコンラートを、このままにしてはおけぬな」
影の長が静かに頭を下げる。
「証拠の整理は既に完了しております。陛下のご命令一つで、いつでも――」
皇帝は立ち上がった。
「……モレノ大司教とコンラート司祭を拘束する。だが――その宣告の場は、ここではない」
皆のの瞳がわずかに光る。
「議会、ですね」
「そうだ。教会使節、反皇太子派、地方貴族、軍の代表。
この帝国のあらゆる“目”が揃う場で、帝国としての意志を示す」
マティルダが口角をわずかに上げた。
「神の器を解放せよと叫んでいる間に、自分たちの柱が折れるのね」
エルフリーデは小さく震えながらも、そのやり方にどこか救われるものを感じた。
彼らは「神の器」ではなく「皇太子妃エルフリーデ」として、彼女を守ろうとしている。
「……皇太子夫妻は、このまま議会場へ向かえ。緊急審議が始まる」
そう皇帝が短く命じる。
「行こう、フリーデ」
そう言ってエルフリーデの手を取り直した。
彼女は一瞬だけ躊躇い――そして、はっきりと頷いた。
「はい。ご一緒します」
扉の向こうから、議員たちのざわめきが地鳴りのように近づいてくる。2人は歩き出した。
その横顔は、皇太子としての冷徹さと、一人の男としての怒りを両方宿していた。
(――盤上の駒は揃った。ここから先は、切り捨てるだけだ)
そう心の中で呟きながら。
帝都史上でも稀に見る、
血を流さない最初の戦いが、これから議会で始まろうとしていた。




