第9章 三つの敵が動く前夜 第1話
《非常警鐘》
十数年に一度あるかどうかの、国の喉元に刃が突きつけられたときだけ鳴らされる鐘。
エルフリーデの胸が一瞬で冷えた。
隣にいたアレクシウスが顔を上げる。
ほんの数日前まで机に突っ伏し、傷だらけの心を抱えていた男とはまるで違う。
深い湖面の奥で氷が静かに割れるように、彼の瞳が変わる。
あぁ――戻ってきた。帝国随一と呼ばれる頭脳の、冷たい光。
「アレク様……」
思わず呼びかけると、彼はエルフリーデの手を取った。その掌は驚くほど熱かった。
まるで怒りも恐怖もすべて燃やしつくして、ただ守るという一点に向かう火のように。
扉が弾けるように開き、レオナルトが駆け込んだ。
「殿下!! 妃殿下!! 三方面から――!」
「わかっている。歩きながら聞く」
皇太子の顔に戻ったアレクシウスは有無を言わせず、エルフリーデを連れて廊下へ出た。
城兵が走り、伝令が叫び、どこかで鎧のぶつかる音が響く。皇城そのものが波立つような混乱の中で、彼の歩みだけは異様に静かだった。
レオナルトが息を切らしながら続ける。
「第一! 城門前に国教会の巡礼者三千!大司教モレノが妃殿下の引き渡しを要求しています!」
エルフリーデの足が止まる。
「……わたくしを……?」
巡礼者三千――祈りの白い波が、城門前を埋め尽くしている光景が頭に浮かび、息がうまくできなくなる。
握る手に力を込める。その力は、痛いほどだった。
「続けろ、レオ」
「第二! 議会に緊急招集!若きハインリヒェン侯爵が私兵を動かしました!」
(お兄様が……前に言っていた……蟄居させられた前侯爵”の家……)
エルフリーデの頭に薄い寒気が走る。
「ついに動いたか。思想は死んでいなかったようだな」
その声は氷の刃のように冷えていた。
「第三……ゼラニア王妹イザベラ殿下の密使が外門に。
妃殿下の保護を名目に接触を図っています」
足音のリズムが、そこで一拍だけ乱れた。
エルフリーデの心臓も跳ねる。けれどアレクシウスはすぐ歩みを戻した。
「……最悪の重なりだ」
三勢力。
三つの目的。
そして、狙いはただ一つ。
――エルフリーデ。
(……わたくしのせいで……)
胸の奥が重く沈む。そのとき、アレクシウスの手がわずかに震えていることに気づいた。
違う。震えているのは――わたくしのほうだ。
その震えを包み込むように、アレクシウスが指を絡める。
「フリーデ、誤解するな」
低く、落ち着いた声。その声だけで、世界の輪郭が戻ってくる。
「原因は君ではない。君を奪おうとする者が悪いだけだ」
胸の奥のこわばりが、少しだけほどけた。
(この人は……いつも、こんなふうに……)
兵士が駆け込んでくる。
「皇帝陛下より!皇太子夫妻は直ちに軍議室へとのこと!」
レオナルトが横へ回り、エルフリーデを支える。
「エル、歩けるか?」
「……はい、お兄様。行きます」
怖い。でも――離れたくない。
握られた手は、その想いを全部伝えてくれていた。
軍議室へ向かう廊下を進むと、外から不気味な波のような声が聞こえてきた。
「――祈りを捧げよ! 神の器を解放せよ!!」
「妃殿下を出せ!! 神の意思だ!!」
エルフリーデは思わず足を止めた。
城壁の向こうにいる三千の祈りの声が、まるで生き物のように蠢いている。
レオナルトが苦い声で言う。
「……巡礼者三千。その中心にモレノ本人がいます」
「大司教……」
国教会の象徴。信仰の頂点にある男。
アレクシウスは微動だにしない。
「状況は?」
フィンツが報告する。
「巡礼者が城門広場を占拠!祈りの姿勢で膝をついて神の器へ謁見をと……門を開けるまで退きません!」
エルフリーデの背筋を冷気が走る。
(……わたくしを……奪うため……)
アレクシウスの声が鋭く割り込む。
「モレノはなんと言っている?」
「神の器は、神と民の下へ戻すべきと……」
アレクシウスの瞳がわずかに細くなった。
「所有物のような言い方だな……」
レオナルトが息を呑む。
(……アレクが本気で怒っている……)
怒りを燃やすように歩き、扉の前でアレクシウスはエルフリーデの肩にそっと手を置いた。
「聞かなくていい。あれは君を奪うための声だ」
低い、けれど揺らぎのない声。
ドアが開く。
混乱の中で唯一、静寂が息づく部屋――軍議室。
ここから帝国の反撃が始まる。




