第8章 皇帝が突きつけた選択 第3話
エルフリーデが皇后マティルダの私室で静かに眠りについた頃――皇城の外、帝都はもう完全に渦中にあった。
夜明け前の薄闇を押しのけるように、城下の通りでは叫び声が響いていた。
「聞いたか!? 妃殿下が土砂を巻き戻したって噂だぞ!」
「紋様が光を放ったんだって! 三百年前と同じだって!」
「神の器の再来だ……!あれは預言の通り……!」
「神話の話は本当だったんだ!女神様の再来だ!」
噂は、火のように広がった。
事実の欠片 に、尾ひれと信仰と恐怖 を足した形で。
門番たちは顔を青くし、屋台の商人たちは口を覆い、巡礼者たちはひざまずいて空を仰いだ。
そして――国教会勢力が動いた。
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大司教モレノは、老いた体にもかかわらず馬車を走らせていた。
「三百年ぶりの紋様……やはり神の器だ……!」
「妃殿下に謁見を! 神の器に――!」
その後ろには、同じ法衣を着た司祭団が列を作る。強硬派司祭コンラートは叫んだ。
「帝国は神の器を封じてはならぬ!妃殿下を国教会が保護する!妃殿下は帝国の手を離れ、神と民のもとへ――!」
叫びは、すでに煽動めいていた。兵士たちは青ざめ、皇帝へ急報が飛ぶ。
一方、帝国議会本館では――
反皇太子派の中心人物、若きハインリヒェン侯爵が机を叩き割らん勢いで叫んでいた。
「皇太子殿下は信用ならない!妃殿下の身柄は議会が保護すべきだ!神の器を個人のものにするなど前代未聞!帝国の未来は議会が預かる!!」
議員たちはざわつき、中には本気で賛同する者もいた。
「皇太子殿下がまた判断を誤るかもしれん!」
「妃殿下は大陸の宝だ!」
「皇家に独占させるわけにはいかない!」
完全に政治争いの具にされる気配だった。
さらに火に油を注いだのは――隣国ゼラニア。
離宮に滞在していた、ゼラニア王妹イザベラの密使が皇城外門に現れ、優雅に礼を取った。
「イザベラ王妹殿下より――妃殿下の保護と謝罪を申し上げます。妃殿下の身に起きた事件を憂慮し、ゼラニアは“ 神の器の安全を担う用意がございます」
兵士たちは絶句した。
(お前たちのキス騒ぎが原因だろうが!!)
と叫びたいのを、必死で堪えている。
だが表向きは丁寧に対応しながらも――ゼラニアの目的は一つ。
神の器を、帝国から引き離すこと。
帝都の中心で、世界がうねり始めていた
宗教。
隣国。
議会。
貴族。
民衆。
全てが一斉に、エルフリーデというひとりの少女に焦点を向ける。帝都は争いの火種に覆われたような状態で、その中心にいるエルフリーデはまだ何も知らない。
そして――その渦の発端となった男は、その頃、冷徹な光を宿した瞳で地下尋問室に繋がれていた。
尋問室は、古い石造りの地下深くにある。湿った壁、冷たい空気、鋭い灯火だけが揺らめいている。
中央には、腕を後ろ手に縛られたサイラス・ヴァーン。
その表情は――
捕らえられた犯罪者のそれではなかった。
むしろ、「ようやく舞台裏で話せる」と言わんばかりの、薄い笑み。レオナルトが低く言う。
「……まずは確認する。妃殿下を襲った理由は?」
サイラスは軽く首を傾げ、至極優雅に答えた。
「襲ったとは心外ですね。私はただ……真実をお伝えしただけです」
フィンツが机を叩きつけた。
「真実……!?殿下と妃殿下の仲を裂こうとしたことがか!?」
「裂いたのではありませんよ。触れただけです。傷口にね」
その一言で、室内の温度が数度下がった。レオナルトの瞳が獣のように鋭く光る。
「お前はどこまで知っていた?アルトリヒトのことも、紋様のことも……誰から聞いた?」
サイラスは肩を揺らして笑った。
「誰から……?答えは簡単です。皆からですよ」
レオナルトの眉が動く。サイラスは続けた。
「ゼラニア王国。国教会本部。帝国議会の反皇太子派。どこにでも金で動く親切な刺客はいるものですね。」
「……全部だと……!?」
「ええ。神の器が目覚めるのを、誰もが待っていた。そして、誰もが奪おうとしている」
サイラスはのんびりと足を組み替えた。
(縄で繋がれているのに、優雅すぎる……!)
フィンツの顔が真っ赤になった。
レオナルトは低く問う。
「……お前は、誰の指示で動いた?」
サイラスは、わざとらしく天井を見上げて答えた。
「誰か一人の指示ではありません。私はただ――望まれたことをしただけです」
「……望まれた?」
「ええ。泣き叫ぶ妃殿下の姿を見たかった者たちの総意ですよ」
「――――――っ!」
尋問室に、静かに怒気が充満していく。
レオナルトの拳が、ゆっくりと鳴った。
「……お前は……エルフリーデの心を壊したかったのか」
「壊した?いいえ。揺らしただけですよ。妃殿下の心が揺らげば、帝国も揺らぐ。皇太子殿下も揺らぐ。ここからが――舞台の幕開けです」
「言ったな……!」
レオナルトの剣が半分抜かれた瞬間――
「待て、レオナルト」
低い声が尋問室の奥から響いた。フィンツが振り返る。
暗がりから姿を現したのは、黒い外套を翻す――皇帝陛下だった。
レオナルトもフィンツも膝をつく。
皇帝はただ、冷たい眼差しでサイラスを見下ろした。
「……揺らすか」
「はい、陛下。神の器とは、揺らせば揺らすほど――」
「黙れ」
その一言で、部屋の空気が全て止まった。
皇帝はサイラスの前に立ち、石のような声で静かに告げた。
「お前のような愚か者のために――我が娘が傷ついたこと。我が子が初めて未来を見誤ったこと。その代償は、命では足りぬ」
サイラスは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに笑った。
「……ならば、どうぞ。私は、もう役目を果たしましたので」
皇帝は背を向け、レオナルトに命じた。
「明朝、皇帝会議室にアレクとエルフリーデを連れてこい。全ての真実を、そこで明らかにする」
「はっ!」
皇帝のその言葉で、帝国は――いや、大陸全体が新たな局面へと突入した。
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皇城の最も奥深く。王族しか立ち入ることを許されない大理石の回廊を抜けた先に、巨大な双翼扉がそびえ立っている。帝国の心臓部――皇帝会議室。
ここでは、隠し事は許されない。血統も、信仰も、歴史さえも裁かれ、決められてきた。
その扉の前で、エルフリーデは立ち止まった。まだ体に熱が残る。瞳の奥は、不安で揺れている。
その隣で、アレクシウスは静かに立っていた。
だが――彼の表情は、周囲の誰も見たことがないほど、硬く、冷たく、震えていた。
……フリーデ……
視線を向けたい。
声をかけたい。
けれど。
今の彼女に自分を見られるのが――何よりも怖かった。
私は……何を間違えた?どこで未来を読み違えた?
天才皇太子は、人生で初めて、読みきれぬ未来に立っていた。
レオナルトが二人を見て息を呑んだ。
アレク……顔色が悪い……エルも……怖がっているのが伝わる……このまま会議に入れて大丈夫か……?
フィンツは小声で囁いた。
「……エルフリーデ様。本日、ご自身の出自について、
皇帝陛下より正式に説明がございます。どうか……お気持ちを強く」
エルフリーデは小さく頷いたが、指先が震えている。
アレクシウスは気づいていたが、触れることができない。触れていい資格が、自分にはもうない。
そう思い込むほどに――エルフリーデの涙は彼の胸をえぐっていた。
重々しい音と共に、会議室の扉が開かれた。
大理石の床に敷かれた深紅の絨毯。巨大な円卓の奥に座る皇帝夫妻。その背後には、皇祖以来伝わる黒曜石の玉座。
皇帝の瞳は、刺すような冷たさ。
皇后マティルダは、静かだが深い憂いを滲ませていた。
その奥には――第二皇子ニコラウスも姿を見せていた。
兄上……そしてエルフリーデ姉上…………どうか……
フィンツが二人を導き、円卓の中央へ。
皇帝の声が響く。
「――エルフリーデ・フォン・ヴァルデンシュタイン。
そしてアレクシウス・フォン・ヴァルデンシュタイン。
本日、この場ですべてを明らかにする」
空気が震えるような緊張が走る。
皇帝はゆっくりと口を開いた。
「まず、エルフリーデ。お前の出自について話さねばならないな……。それにはこの大陸の歴史を知る必要がある。」
エルフリーデの青い瞳が揺れる。
皇帝は続けた。
「十九年前。アルトリヒト自治領の領主城が焼けたことは、そなたも歴史書で読んだな?」
エルは小さく頷いた。
「……はい。自治領だったアルトリヒトが、何者かに襲撃されて領主一家は焼死したと……」
「……教科書は、いつも肝心なところをぼかす」
皇帝は苦笑する。
「そもそも、アルトリヒト自治領の成り立ちをおぼえていいるか?これも歴史書の1番に出てくるな。」
――約千年ほど前、このアミュール大陸の全ての覇権を握っていたアルトリヒト王朝。そのアルトリヒト王家には、数代に一度、額に紋様を持つ子供が産まれる。その子は癒しの力を持つ子だったり、人の心を読める子だったりと様々で、神の器と呼ばれていた。長いアルトリヒト王朝の歴史上、転換期になぜか必ず産まれていた。けれど……王朝が弱り、貴族達の争いに飲み込まれ、神の器は政治と戦争の道具になっていった。
今から300前、とうとう王家の中で内乱が起き、大陸全土を巻き込んだ戦争となり、アルトリヒト王家は瓦解した。その時の紋様持ちの力は「調停者」。当時その力を持った神の器と、どんな取り決めが行われたかはわからないが、その戦争の時に覇権を握った、我がオルデンブル帝国から庇護を受けつつも、何処の国とも不可侵条約を結び、アルトリヒト自治領として細々と旧王家として暮らしていた。それから300年、紋様持ちは産まれていない。
エルフリーデの胸の奥で、何かが微かに震えた。
陛下の声は静かだったが、その奥には怒りと哀しみが混じっている。
「覇権の鍵を握る血を巡って、多くの血が流れた。その末に――19年前、アルトリヒトの城は焼かれた。帝国軍の名を借りた、別の勢力によって」
「……別の……勢力……?」
「それを断定するには、まだ材料が足りない。でも、少なくとも一つ言えるのは――帝国だけが悪ではないということ。あの時……エルフリーデ、帝国もまた一人の赤子を救おうと動いた」
エルフリーデは息を呑む。
マティルダが横に寄り添い、エルフリーデの手を自分の手で包み込んだ。
「19年前、焼け落ちる前の城から、――一人の女性が、赤子を抱いて逃げ出した。銀の髪、青い瞳。額には紋様があったとされる赤子を」
エルフリーデの胸がどくんと打つ。
「アルトリヒト家最後の領主フリードリヒとその妻リゼットは、我ら夫妻と、ディアス侯爵夫妻と旧知の仲だった。そのフリードリヒから密かに、そなたの事を知らされた。狙われている、逃すから保護してくれ、と手紙がな。不可侵条約がある中、帝国は大手を降っては自治領に行けない。だから私は、当時帝国軍総大将でもあったディアス侯爵にリゼットとそなたを秘密裏に保護する命令を下した。逃げ出したリゼットは、瀕死のまま帝国領へ逃げ込み、追っ手に斬られながらも、その赤子だけは離さなかった。そしてディアス侯爵はリゼットに守られたそなたを連れて城に戻ったのだ。
その時も……そなたをどこで保護するか我々は悩んだ。恐らく、紋様持ちの赤子が生死不明な事は大陸全土の色んな勢力に知られている。そこで皇家で育てるには目立ちすぎる。その時にディアス侯爵から申し出があった。
……その少し前に侯爵家ではレオナルトの妹が産まれてすぐに亡くなっていてな。夫人のヘルミーナはショックの余り弱りきっていた。ヴィルヘルムはそなたを大事に育てるから、侯爵家に光をくれ、と。それでそなたは侯爵家の養女になった。」
「……死んだお嬢様の代わりに」
ポツリと漏れた言葉には、どうしようもない恐怖と自己嫌悪が混ざっていた。
マティルダは首を横に振った。
「きっかけは、ね」
「……」
マティルダが続ける。
「亡くした娘と、よく似た歳月を重ねていく赤子。侯爵夫妻は最初、代わりとして抱いたかもしれない。でも……人の心は、そんなに単純じゃないわ」
マティルダの声は柔らかくなり、さらにエルフリーデの手をギュッと握りこんだ。
「あなたを抱き、あなたにミルクを飲ませ、熱を出せば一晩中看病して、あなたが笑った日。転んで泣いた日。お父様お母様と呼んだ日。その一つ一つが、亡くなった娘の穴埋めなんかじゃ済まない今の愛情になっていった。代わりとして迎えたはずなのに、いつの間にかその子自身を愛してしまう――それは、陛下も私も、侯爵家を見ていればすぐ分かったわ」
エルフリーデの視界が滲んだ。
ディオス侯爵の、厳しくも優しい声。侯爵夫人の、温かい手。自分はこの家の娘だと、何の疑いもなく信じてきた日々。そして3歳の時に襲撃に遭い、侯爵夫妻は亡くなった。その事を思い出し顔が真っ青になる。
「――ではお兄様から両親を奪ったのは……私のせい……?」
「それは違うわ!悪いのはあなたではない!襲撃した犯人が悪いのよ。侯爵夫妻は大事な息子と娘を守っただけだわ。」
「……でも……でも、結局わたくしは……アルトリヒトの血だから……皇太子妃に選ばれて……」
「それだけではないわ」
マティルダは、そこで初めて微笑んだ。
「確かに、政治的な計算はあった。アルトリヒトの血と帝国皇家の血が結びつけば、大陸の均衡が大きく変わる。
神の器が帝都の中枢にいれば、他国も迂闊に手出しできない。……そんな計算をした人は、確かにいた」
「……やっぱり……」
「でもね、エルフリーデ」
マティルダは、エルの手をそっと持ち上げ、真正面から目を見つめた。
「アレクシウスが、あなたを選んだ理由は――血なんかじゃない」
エルフリーデの呼吸が止まる。
「あなたが4つの頃。夜の書庫でアレクシウスと話した事を覚えている?」
エルフリーデは、はっと目を見張った。
……わたくしが……眠れなくて……そして背中が寒そうだと言った、あの日……
「あの日あなたが、あなただけが、アレクシウスの孤独に気づいた」
マティルダはくすりと笑う。
「親である私たちですら、気づいてあげられなかった。天才的な頭脳を持つアレクの隠れた孤独に。それを4歳のあなたが気づいたの。そりゃアレクは惚れるわよ。」
「は、母上!」
アレクシウスが、辞めろと言わんばかりに声を荒げる。
エルフリーデの頬が、少しだけ赤くなった。
マティルダの瞳が、どこか懐かしそうに細められる。
「アレクはね、何度も言っていたわ。世界で初めて、自分の孤独を埋めてくれる存在に出会えた、この先にもエルフリーデを超える子は現れないって。」
エルフリーデの胸の奥で、古い記憶が音を立てて蘇る。
――アレク様は、とても遠くを考えているのね?
――ひとりで考えてたら、さみしくなっちゃうよ?
――さみしくなったら……私も一緒に考えるわ
……わたくし……言ったわ……。アレクシウス様に1人だとさみしくなるって……
「陛下はアレクに、あなたとの婚約を認める代わりに、自身の縁談は全て自分で解決しろと仰った。そしてアレクは潰していったの。……半年でね。」
「でもイザベラ様との婚約話しは……」
「それは両国の外交レベルの会話で、正式ではなかったのだ。アレクとイザベラの交流も、夜会で顔を合わす程度。特に何も無い。」
皇帝陛下の言葉に少し胸が軽くなる。
「エルフリーデ」
マティルダは、ことさらゆっくりと言葉を紡いだ。
「あなたはアルトリヒトの血だから選ばれたのではない。アレクシウスの孤独を見抜いて、その肩に触れた少女だったから選ばれたの」
エルフリーデの目から、また新しい涙が零れる。
サイラスが植え付けた言葉たち――
駒、利用、覇権――
それらが、内側から静かに崩れていく。
「……でも出自を隠されていたことは……事実です」
エルフリーデは震えながら言う。
「わたくしが最後のアルトリヒトであること。神の器かもしれないこと。ディオス侯爵夫妻が、亡くした娘の代わりにわたくしを抱いたこと。それを……皆で、わたくし一人にだけ隠していた……」
マティルダは、その痛みを正面から受け止めるように頷いた。
「ええ。それは、責められて当然だと思う」
「……」
陛下も心痛な面持ちで答えた。
「そなたを守るという名目で、真実から遠ざけた。その責は、私にも、皇后にも、アレクにも、ディオス侯夫妻にも、レオナルトにもある。本当にすまなかった。」
マティルダは、エルフリーデの手をもう一度ぎゅっと握った。
「だからこそ、今から――そなたに決めてもらわなければならない」
「……決める……?」
「そなたが、自分を何者だと名乗るのか。ディオス侯爵家のエルフリーデとして生きるのか。アルトリヒトの最後の娘として立つのか。それとも――その両方を、自分の中に抱えて前に進むのか」
エルフリーデは唇を噛んだ。
「そんな……大それたこと、わたくしには……」
「そなたはもう、ただ守られるだけの子どもではないだろう?」
陛下の言葉は、優しいが、甘くない。
「土砂崩れの中で、そなたは自分の意志で手を伸ばし、
奇跡を起こした。自分の命を削ってでも、そなたの騎士たちを救いたいと願った」
陛下は、少しだけ声を震わせた。
「……その瞬間から、そなたは――世界に関わる当事者になってしまったのだよ、エルフリーデ」
エルフリーデは目を閉じる。
あの眩しい光。
浮かび上がる土砂。
救い上げられた騎士たちの温もり。
ゲルトの叫び。
神の器だと震える声。
……わたくしが……
「怖いなら、怖いと言っていい」
陛下も側にきて、エルフリーデを優しく抱き寄せた。
弱々しく震える娘を包み込む様に。
「泣きたいなら、泣いていい。怒っていい。“どうして今まで黙っていたのですか”と、私にもアレクにも、思い切りぶつけていい」
エルフリーデは、その胸に顔を埋めた。
「でも――一つだけ約束してほしい」
陛下はエルフリーデの背に手を置いたまま、耳元で囁くように言った。
「自分は駒だなどと、二度と言うな。そなたは、私たち夫婦にとっても、もちろんアレクにとっても――一人の人間であり、家族なのだから」
「エルフリーデ。本当はね……あなたが自分で知りたいと思う時まで話さないつもりだったの」
「え……?」
「あなたは、あまりにも幸せそうだった。アレクシウスも……あなたの幼い心を過酷な血の運命から守りたかったのよ」
エルフリーデの目が見開かれる。
マティルダは続けた。
「アレクシウスはね……本当は誰より臆病な子なの」
隣に立つアレクシウスが微かに眉を動かした。
皇太子に生まれた時から完璧を求められ、天才と崇められ、わずかな隙も許されなかったアレクシウス。
天才が故に人心掌握に長け、けれど誰にも理解されない孤独な毎日。
マティルダは静かに息を吐いた。
「あなたを愛してしまった時……多分、あの子は思ったの。――『真実を知って嫌われたらどうしよう』って」
エルフリーデの瞳が揺れる。
アレクシウスは――拳をぎゅっと握った。
……フリーデ……そんな顔で俺を見るな……頼む……
マティルダは優しくエルフリーデの肩をさすった。
「だから順番を誤った。本当はあなたがもっと強くなった時に……あなた自身の足で受け止められる時に……伝えるつもりだったの」
エルフリーデの胸は、罪悪感・悲しみ・怒り・困惑――
全てが混ざり、形を成せないまま震えた。
そして――アレクシウスが初めて声を発した。
低く、掠れ、震える声。
「……フリーデ。本当に……すまなかった」
顔を上げないまま。ただその言葉だけを吐き出した。
エルフリーデは視線をそらした。胸が痛いほどに苦しかった。
…わたくし……まだ全部許せない……
皇后マティルダが続けた。
「エルフリーデ、もう一つ……子供の事よ。」
エルフリーデはゆっくりと顔を上げた。
「避妊薬のこと……ですか……?」
マティルダは小さくため息をつき――アレクシウスの耳を軽く引っ張った。
「痛……っ!? 母上……!」
「あなたが悪いのよ、アレクシウス!こんな大事なことを……ちゃんと話し合えば良いものを!黙って飲むから」
会議室の全員が固まった。
「アレク……やっぱり飲んでたんだ……」
レオナルトが呆れた声を出す。
「兄上……本当に馬鹿なんだな……」
アレクシウスは真っ赤になった顔を覆った。
そして皇后は、あくまで母として、優しくエルフリーデへ話した。
「エルフリーデ。昨日も言ったわね。結婚当初、あなたの身体はまだ若く、妊娠・出産は大きな負担になる。侍医たちが反対したのに、アレクシウスは少しでも負担を減らしたいと言って、自分が飲むと言い張ったのですって」
アレクシウスは耳まで真っ赤だ。
――こんな場で母上に暴露されるなんて……死にたい……
エルフリーデはアレクシウスに向かって唇を震わせた。
「……どうして……黙って……?」
アレクシウスは答えた。
「君を、愛してるからだ!もしエルフリーデが出産に耐えられなかったら?フリーデのいない世界なんて生きてられるはずがない!それに私は……もう少しフリーデと2人が……良かった……」
最後の方は、アレクシウスとは思えない程、自信のない小さな声だった。
エルフリーデの胸がきゅっと締め付けられた。
アレク様……そんな理由で……そんなことを……
けれど、まだ心は揺れている。
皇帝は全員を見渡し、静かに告げた。
「アルトリヒトの紋様が目覚めた以上――エルフリーデ。
お前は帝国の希望であり、同時に危うさを孕む存在だ」
エルフリーデは小さく震えた。皇帝は続ける。
「ゼラニア。国教会。帝国議会の反皇太子派。すべてがお前を狙うだろう。実際もう動き出している。」
アレクシウスは、拳を握る。
「陛下。エルフリーデは私が守ります。神の器としてではなく――私の妻として」
皇帝はその言葉を静かに受け止めた。
「よかろう。アレクシウス。そしてエルフリーデ。
本日よりお前たちは――帝国の命運を左右する立場となった」そして、
「二人の仲違いを放置することは許されない。誤解は、今この場で解いてもらう」
アレクシウスとエルフリーデは息を飲んだ。
「……二人だけで話せ。ここより奥、誰も入らぬ静謐の間を使うがいい」
そう告げ、護衛を全て退けた。皇帝夫妻も退出する。
レオナルトも、フィンツも、ニコラウスも、誰もが不安げに振り返りつつ―去っていった。
扉が音を立てて閉まる。広い会議室に残されたのは――
アレクシウスと、エルフリーデだけ。
二人の呼吸だけが、静かに響いている。アレクシウスが、ゆっくりと顔を上げた。
……ここで……失えば……私の世界は終わる。
エルフリーデもまた――胸を押さえていた。
…信じたい……でも怖い……アレク様と向き合うのが……怖い……
二人の視線が重なる。涙と後悔と愛と痛みが入り混じったその瞬間――物語の核心が、ゆっくり動き始めた。
アレクシウスとエルフリーデ。
向き合うのは数日ぶりだったが――距離は数年分ほど遠く感じられた。
エルフリーデは胸の前で両手を握りしめ、視線を落としている。アレクシウスは、ほんの一歩も近づけずにいた。
沈黙を破ったのは――アレクシウスだった。
「……フリーデ。」
彼の声はひどく掠れていて、皇太子の威厳とは程遠かった。
「どう言えば……届くのか分からない。謝罪すべきことが多すぎて……何から話せばいいのかすら……」
アレクは拳を握り込み、震える指先を隠そうともしない。
「私は……君の前に立つ資格が、今の私にはないと思っている。」
エルフリーデの肩がわずかに揺れた。
アレクシウスは続けた。まるで胸の奥の封印が外れたように。
「私は、君を守りたかった。でも守るという言葉で……
君の知る権利を奪った。」
「……」
「君が泣いたあの瞬間――何十年も先の未来を読む力があっても……何一つ見えなくなった。」
エルフリーデの胸が痛む。アレクシウスは息を震わせた。
「私は、君に触れていい資格すら……失ったのだと思った。」
エルフリーデは唇を噛み、ようやく声を絞り出した。
「……アレク様が……怖かったのです。」
アレクシウスの心臓が跳ねたように動いた。
「アレク様は……何でも分かってしまう。わたくしの考えも、不安も……弱さも。」
涙がにじむ。
「だから……わたくしにだけ隠す理由が……分からなかったのです。」
「……フリーデ……」
「わたくしは……信じたかった。ずっと……アレク様だけは裏切らないと。でも……わたくしにだけ教えていただけなかった。」
声は震え、涙が静かに頬を伝う。
「わたくしの弱さのせいで……真実を教えてもらえないのだと思ったのです。」
胸が苦しくて、呼吸が震える。
「……わたくしだけが、置いていかれた気がして……とても……とても、苦しかったの……」
耐えきれず、アレクシウスは一歩だけ近づき、触れられる距離の手前で止まる。
「フリーデ。隠したのは……君のせいじゃない。」
両手がゆっくりと震えた。
「君が弱いからじゃない。君が……大切すぎたからだ。」
エルフリーデの瞳が揺れた。
「私は……恐れていた。真実を知って……君が離れてしまうのが。」
「……!」
アレクはほんの短く息を整え、続けた。
「……イザベラとの噂も、あれは罠にわざと乗った。君に誤解される危険を承知で……私は、敵を炙り出すために泳がせた。本当は真っ先に君へ説明すべきだった。それでも……君が傷つく方が怖くて……言えなかった。」
「皇太子としての私なら、どれだけ嫌われてもよかった。
でも――“ただのアレクシウス”として……君にだけは、嫌われたくなかった。」
エルフリーデは息を呑んだ。深いペリドットの瞳は、これ以上ないほど脆くて真っ直ぐで。
「私は君を愛している。紋様でも、血でもなく。君という人を――初めて愛した。」
「……わたくし……」
涙がこぼれる。
「全部を許したわけではありません。」
アレクシウスの肩がびくりと震えた。
「でも……アレク様と向き合うことから逃げたくもありません。わたくしも……アレク様を……」
小さく、震える声。
「……嫌いにはなれませんでした。」
アレクは目を閉じ、深く息を吐いた。安堵とも、後悔ともつかない震え。
「……フリーデ……」
恐る恐る手を伸ばす。途中で止め、確認するように。
「……触れても、いいか?」
エルフリーデは、一瞬だけ迷った。そのわずかな時間に、アレクシウスの呼吸が止まる。
そして――
「……はい。」
アレクシウスの指先が、エルフリーデの手の甲に触れた瞬間。指がびくりと震え、その震えにアレクシウスの胸が熱くなる。
「ありがとう……フリーデ……」
「わたくし……戻りたいです。あの……あなたが微笑んで……わたくしも笑って……ただ毎日を過ごしていた頃に……」
アレクシウスは、その手を包むように握りしめた。
「取り戻す。必ず。どれだけ時間がかかっても。君にまた信じてもらえる様に」
「……はい……」
二人はそっと額を寄せ合った。震える息が触れ合うほどの距離で。
完全ではない。傷も、誤解も、まだ残っている。
それでも――向き合うことを選んだ二人の間に、確かに光が戻り始めていた。
その時だった。遠くから帝都の空を割るように、深い鐘の音が鳴り響いた。
……ゴォン……ゴォン………
ゆっくりとではなく、誰かが必死に叩きつけるような、切迫した響きだった。
皇城の石壁がわずかに震え、窓枠の金具がかすかに鳴いた。




