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神の器と嘘つきな皇太子  作者: ゆうきあさひ


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第8章 皇帝が突きつけた選択  第2話

皇后マティルダの私室は、帝都の騒がしさから切り離された、小さな聖域のような空間だった。

厚い絹のカーテンは外の光を柔らかく遮り、壁には古い王家の肖像画ではなく、草花や子どもの絵画が多く飾られている。

ここだけは、政治の匂いよりも、「家族の匂い」が強い部屋。

その寝台の上で――エルフリーデは、ゆっくりと瞼を開いた。喉が焼けるように熱い。関節の奥が重く、身体が自分のものではないようだ。

「……ここは……」

細い声が零れた瞬間、枕元に座っていた女性がはっと顔を上げた。

「……エルフリーデ」

柔らかな低い声。金色の髪をきちんとまとめ上げ、

落ち着いた翡翠色の瞳を持つ女性――皇后マティルダである。

彼女は、皇太子妃であるエルフリーデにはお義母様と呼ばれるべき人物。そして、帝国の象徴の一つ。

今、その瞳の奥には、ただ心配と安堵しかなかった。

「……目が覚めたのね。本当に……よかった」

マティルダは、堪えきれないものを抑えるように息を吸い込み、そっとエルフリーデの額に手を伸ばした。

「まだ熱いわ……。でも、さっきよりは下がっている。

 あなた、4日も高熱で……何度も意識を失っては、うなされていたのよ」


4日――。

その言葉に、エルの胸がずきりと痛んだ。

わたくし……また……迷惑を……

身体を起こそうとした途端、視界がぐらりと歪んだ。

マティルダはすぐにそれを支える。

「無理しちゃだめ。寝ていて。ここは私の部屋よ、ゲルトもルッツも、扉の外でずっと見張っているわ」

エルフリーデの手が、掛け布団の端をぎゅっと握りしめた。

瞼を伏せると、サイラスの言葉がフラッシュバックする。

――価値の高いものは、常に利用されるのです

――殿下は、あなたを駒として求めた

――ゼラニアの王妹殿下とキスをしていたと、帝都で噂になっております

――お2人には婚約の話しが

――避妊薬を飲んでいた

 

エルフリーデは、熱の残る瞳のまま皇后マティルダを見上げていた。

「……わたくし……何も知らなかったのです。アレク様も、お兄様も……陛下たちもどうして何も……」

 エルフリーデはマティルダの腕に縋りつく。

「アレク様は……わたくしを守るためと言いながら……わたくしにだけ、何も教えて下さいませんでした!アルトリヒトのことも……紋様のことも……ディオス侯爵の亡くなった娘の代わりに侯爵家に入れられたことも……ひ、避妊薬の事だって!」

言葉にした瞬間、今まで押し込めていた感情が、溢れ出した。涙まじりの声は細く震え、迷子の子供のように頼りない。

「わたくしは、駒だったのでしょうか。帝国にとって、アレク様にとって……便利な位置に置いておいた方がいい、アルトリヒトの血で……それだけで……愛されていると、思い込んでいただけで……全てアレク様の思いのまま動かされて……」

涙がぽろぽろと落ちる。

マティルダはしばらく何も言わず、ただ、エルフリーデを抱き寄せた。


エルフリーデの細い身体が、自分の腕の中ですすり泣く。その温度が、胸に痛いほど重くのしかかる。

「……違うわ」

マティルダは、静かに、はっきりと言った。

「エルフリーデ。あなたは駒ではない。アレクシウスも、私たちも、絶対に」

エルフリーデの肩がわずかに揺れる。

「……なら、どうして……」

 マティルダは、まるで自分の娘を抱くようにエルフリーデの肩をそっと包み込んだ。

 「エルフリーデ。あなたはね……守られた子なのよ。」

「あなたの本当の両親は、帝国に背を向けられたわけでも、捨てられたわけでもないの。」

その声は政治の影を一切感じさせない、ひとりの母の声音だった。

エルフリーデは息を呑む。マティルダは優しく微笑んだ。

「あなたの両親は……あなたを生かすために友人だった私たちに託されたの。それだけで十分に、尊い決断よ。」

「……わたくしを、生かすため……?」

「ええ。あなたの髪と瞳は……あまりに目立つもの。この大陸では追われる色でもあった。」

耳元でそっと囁くような柔らかさで。

「でもね、エルフリーデ。あなたの色を、私はずっと美しいと思ってきたわ。」

エルフリーデの胸に、熱とは違う何かが広がる。

マティルダは続ける。

「ディオス侯爵夫妻は、たまたま亡くした娘の代わりに

 あなたを抱いたわけじゃないの。」

エルフリーデの瞳が揺れた。

「あなたを守るためだった。あの方々は、とても優しくて……強いご夫婦よ。この子は手放してはいけないと、心から思われたの。」

「……わ、わたくし……迷惑だったのでは……?」

マティルダは首を横に振る。

「いいえ。あなたは愛されていたのよ。帝国の誰よりも、何よりも大切に。」

その言葉は、エルフリーデの幼い頃の記憶に灯りをともすように染み込んでいった。

「だったら……だったら、なぜアレク様は避妊薬を……。わたくしに子を産ませたくないのか……イザベラ様と密かに2人きりでキスをしていたと。婚約のお話しもあったと。だから……形だけの妻にして紋様を持つ私だけが欲しいのだと……」

そこでマティルダの表情が、ほんの少しだけ苦くなった。

「――それは、違うのよ。」

エルは涙に濡れた目を瞬いた。

「……?」

「あの子がゼラニアの娘とキスをしただなんてバカげた噂を信じたのね?あれはあの子の考えで――罠にわざと乗ったみたいだけど……貴女を傷つけてまでやる事かしらね?」

「……嘘……なのですか?」

「ええ。エルフリーデ。なんて言ったらいいのか……。あの子の名誉に誓って言ってしまうけれど、あの子は本当に貴女を愛しているのよ。それは信じてあげて。……アレクは、あの子は確かに避妊薬を飲んでいたわ。」

 エルフリーデの呼吸が止まる。

「でもそれは貴女との子供が欲しくないって事では無いの」

「……え……?」

マティルダは柔らかい声で続けた。

「あなたの身体を気遣ったの。結婚当時はまだ貴女は16歳で、子供を授かるには早い。妊娠も出産も……大人の女でも命を削るもの。」

エルフリーデの胸がぎゅっと縮む。

「もし、出産に耐えれずあなたに何かあったら?アレクはそれが怖かった。それにあの子は、あなた自身に薬を飲ませたくなかったの。」

エルフリーデは震えた声で問う。

「……どうして、そこまで……?」

マティルダは微笑む。

「それほどあなたを想っていたということよ。あの子はね――あなたを守りたいそれが、彼の本心だったの。」

エルフリーデの瞳がじわっと涙でにじむ。

「アレク様は……わたくしを……」

「愛していたのよ。ずっと前から。あなたが気づくより、ずっと早く。」

エルフリーデの頬に温かい涙がこぼれ落ちる。

「それにね、フィンツが白状したわ。あなたが不妊に悩んでるのを知って、冬の始まりの舞踏会、あなたがロートベルク伯爵令嬢をやり込めたあの辺りから、服用を辞めてますって。」

エルフリーデの脳裏に、アレクシウスの姿が次々と浮かんだ。

疲れている時でも微笑んで自分の髪を撫でてくれたこと。

忙しいのに、夜遅くまで書類に向かい、それでも自分の寝室には必ず顔を出してくれたこと。初夜の夜でさえ、

「怖くない?」と何度も確認してくれたこと。

(……わたくしが……怖いと言えば……きっと、すぐに止めた……)

「確かに、あの子は新婚生活を楽しみたいという本音もあったでしょうね」

マティルダは冗談めかしながらも、真剣な目で続けた。

「なんせあの子が13歳で4歳のあなたと婚約して、結婚まで12年。ずっと待っていたのだもの。まだ2人きりで子供に邪魔されず甘い時間を過ごしたかったのよ。キスぐらいはしてたでしょうけど、あの子も若い男だもの。」

 エルフリーデの顔が赤く茹る。

「でも、根っこにあったのは――あなたが若すぎるうちに、命の危険を負ってほしくなかったという恐れ。そしてあなたに薬を飲ませたくないという、どうしようもない甘さだった」

「……っ……」

エルフリーデの胸の奥が、じわりと温かく、同時に痛くなる。マティルダはその涙をそっと指で拭い取った。 

「エルフリーデ。」

「……はい……」

「あなたは駒ではない。アレクの所有物でもない。ましてや、政治の道具なんかでは決してないわ。」

マティルダはエルを胸に抱き寄せた。

「あなたは――アレクシウスが生まれて初めて愛した少女よ。」

「……っ」

「あなたは家族なの。この帝国の、私の、大切な娘よ。」

エルフリーデはその言葉に、はじめて安心して泣いた。

誰の陰謀も、誰の嘘も、誰の政治も混じらない――

ただ温かい真実を胸に抱いて。涙が枕を濡らす。どれくらい泣いていたのか、自分でも分からない。やがて、エルフリーデの呼吸が少し落ち着いた頃、マティルダはそっとエルフリーデの髪を撫でた。

「……もう少し休みなさい。熱もまだ残っているし、心も傷だらけだもの」

「……はい……」

エルフリーデは掠れた声で答えた。

「でも、覚えておいて。陛下も、アレクも、ディオス侯も、皆――間違った形ではあったけれど、あなたを守るために動いていたの」

マティルダの瞳には、複雑な光が宿っていた。

「その間違った守り方の結果が、あなたの涙だという事実からは、もう誰も逃げられない。だから――明日、陛下はあなたとアレクを皇帝会議室に呼ぶわ」

エルフリーデの目が、かすかに見開かれた。

「……陛下が……?」

「ええ。“帝国の命運”と、一人の少女の心に――正面から向き合うために」

マティルダは、最後にそっとエルフリーデの額に口づけを落とした。

「エルフリーデ。あなたは一人じゃない。――それだけは、どうか忘れないで」

エルフリーデは、閉じた瞼の奥で、アレクシウスの顔と、

ディオス侯爵夫妻の笑顔と、マティルダの柔らかな抱擁を思い浮かべながら――

静かに、浅い眠りへと沈んでいった。


その外側で、帝都は――

神の器の覚醒を巡って、激しくざわめき始めているとも知らずに。

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