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神の器と嘘つきな皇太子  作者: ゆうきあさひ


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第8章 皇帝が突きつけた選択 第1話

帝都の城壁が見えるころには、夜はまだ明けきらず、空は深い群青に沈んでいた。馬車の車輪が石畳を叩く音だけが、冷えた空気に響いている。

その馬車の中――

アレクシウスは、腕の中のエルフリーデを離せずにいた。

エルフリーデは、三日以上続けて高熱にうなされ、ほとんど意識を取り戻していない。体は熱く、頬は赤く、呼吸は浅い。

胸元に額を預けるようにして抱えるアレクシウスの服は、

エルの吐息と熱で何度も濡れ、乾き、また濡れていた。

「……もうすぐだ、フリーデ。あと少しで帝都だ……」

低く囁いた声は、普段の彼とは思えないほど弱い。

その声は震えていた。馬車を走らせながらレオナルトが声をかける。

「殿下……速度を落としますか。段差が続きます、妃殿下の身体に――」

「落とすな」

アレクシウスは震える声で遮った。

「一刻でも早く……フリーデを皇城の医師に……」

レオナルトは振り返って見る。アレクシウスの髪は乱れ、服は泥にまみれ、目の下には深い影が落ちている。彼はこの数日まともに休んでいない。

――馬を変え、休まず帝都へ急いだ。

その馬車の中で、アレクシウスは片時もエルフリーデを離さなかった。

(……何でもいい……どうか……死なないでくれ……)

胸の奥で何度も崩れそうになる気持ちを押し殺し、ただ必死にエルフリーデを抱き締めた。

彼女の指が、ほんの少しだけアレクシウスの服を握った。

「……っ……フリーデ……?」

返事はない。ただ、熱に浮かされた呼吸がかすかに震えただけ。アレクシウスの喉が詰まり、目が伏せられる。

どうか……もう少しだけ……頑張ってくれ……

ようやく馬車が皇城の門をくぐると、門番達は光に照らされたアレクシウスの姿を見て、一斉に片膝をついた。

殿下の顔は血の気がなく、抱く少女はぐったりと胸に寄り添っている。

兵たちの目には、その光景が皇太子が世界のすべてを失いかけている姿に映った。

「……道を開けろ」

アレクシウスの掠れた声が響く。

その声には――

帝都すべてを従わせる力と、一人の少女を失う恐怖と、二つの色が同時に混じっていた。

兵たちは道を開けた。アレクシウスはエルフリーデを抱いたまま馬車を降り、皇后の待つ宮殿へと、ただひたすら真っ直ぐに向かった――。 

皇城に駆け込んだアレクシウスの姿を見た瞬間、皇后マティルダは息を失ったように立ち尽くした。

「……アレク……? その子……エルフリーデは……?」

彼女の声には、母としての恐怖が滲んでいた。

アレクシウスは口を開く前に、静かに膝をついた。エルフリーデを抱いたまま、そっと皇后の前に差し出すように。

その指は震えていた。

アレクシウスの震える指など、マティルダは一度も見たことがなかった。


「……高熱が……三日以上……下がりません。崩落で……額の紋様が発現し、そこで力を使い果たしたらしく、それから……」

言葉にするたび、アレクシウスの喉が震えた。

マティルダの胸に、自然とエルフリーデの小さな身体が抱き寄せられた。

「こんな……こんなに……熱い……!」

皇后は声を失ったまま、震える手でエルフリーデの頬を撫でる。

「侍医!氷!薬湯!すぐに用意を!急ぎなさい!この子は……この子は私の娘なのよ……!」

皇后マティルダは、母だった。皇太子妃であっても、国の象徴であっても――エルフリーデは家族、自分の娘だ。

アレクシウスはその背中を見ながら、胸を締めつけられる思いだった。呼吸が苦しくなるほどに。

本当は……私が……一番そばにいたかった……

だが、エルフリーデは自分を拒んだ。

触れようとした手を払い、声を震わせて涙を流し、自分を信じられないと言った。

アレクシウスの胸に走る痛みは、肉体の傷とは違う。

心臓が割れるような、深い痛みだった。

 

皇帝の怒りは、この帝国全土を揺るがすほど凄まじく皇城内に怒号が響く。

「なぜだ……なぜエルフリーデを一人にさせた!!!」

重厚な机が拳で叩き割られ、破片が床に散る。

その音は、雷のように響き渡った。レオナルトが肩を震わせ、フィンツさえ目を伏せる。

だがアレクシウスは顔を上げなかった。

ひたすらに立ち尽くし、拳を握りしめていた。

「……お前が言ったのだぞ!エルフリーデの安全は盤石だと…!あれだけ慢心が嫌いな男が、なぜその口で……!」

アレクシウスは静かに息を吸った。その声は弱々しくさえあった。

「……予測できなかった。」

その言葉は、帝国の歴史においても極めて珍しい。

なぜなら――

アレクシウス皇太子は、一度も読みを外したことがなかったから。皇帝は思わず目を見張る。アレクシウスは顔を伏せたまま言う。

「私は……エルフリーデが信じてくれると思っていた。

 私が気持ちを伝えれば、必ず……真実を知っても……私を信じてくれると。だから、告げる順番を誤った。」

拳を握り込んだ指の隙間から、血が滴った。

「……フリーデが泣いたんです。私を……信じられないと。」

その瞬間――皇帝は口を閉ざした。

それは、帝国の天才が初めて味わった敗北だった。

アレクシウスには次の日から政務復帰が命じられたが――

「殿下、この予算は孤児院救済費で……牢屋の整備費ではありません。」

「……ああ、そうか。」

「殿下!書類が逆さまです!いえ、違います、これは窓際のカーテンの布見本です!!」

「……そうか。」

「殿下!?署名欄、アレクシウス・フォン・ヴァル……の後が……震えて読めません!!」

アレクシウスは机に突っ伏す。

「……フリーデが……いない……呼吸が……しづらい……」

侍従たちが次々と泣きそうになり、頭を抱える。フィンツは机に頭をゴンと打ちつけた。

「殿下ぁああああ!!天才皇太子の脳が!!失恋で!!ショートしておられるぅぅぅ!!」

ニコラウスは兄を覗き込みながら小声で。

「……兄上、死んでない?」

レオナルトが眉間を押さえる。

「ニコ、黙れ……いや、しかし当たらずとも遠からず……」

帝国が誇る天才、「若き氷刃」「盤上の覇者」アレクシウス・フォン・ヴァルデンシュタイン。


エルフリーデが離れた瞬間――ただの恋に敗れた青年へと変貌した。

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