第7章 デルミア遠征 崖崩れと光 第3話
土砂崩れの夜が明けた。
雨の名残を含んだ冷たい風が吹き抜け、斜面はまだ湿り、泥は重く呼吸をしていた。
エルフリーデは、薄い光の中で目を開いた。
身体が重い。関節の奥がずきずきと痛む。喉が焼けるように熱い。
……頭が、痛い……わたくし……倒れ……
記憶が断片的につながっていく。
崩れた斜面。
落ちていく土砂。
その中で沈んでいく誰かの手。
伸ばした自分の手が、眩しい光に包まれたこと。
そして、テオとオスカーが土砂の底から、生きたまま引き上がった――あの瞬間。
「妃殿下……ご気分は……?」
瞼の隙間から見えたのは、ゲルトと侍女の安堵に震える顔だった。
「ゲルト……わたくし……何か……したの?」
「はい。妃殿下は……あの直後に倒れられました。ですが、あの時……土砂に埋もれていたテオとオスカーを……助けられたのは、妃殿下です」
「わたくしが……?」
「説明は……正直、できません。ですが……妃殿下が手を伸ばした瞬間、あの崩れた土砂が……ぐ、と持ち上がったんです。光って……」
その時――ずきん、と胸の奥が熱く脈打つ。昨日、頭の中に響いた言葉が蘇る。
──アルトリヒトの神の器よ……
神の器……、アルトリヒト神聖王国……。銀の神の女神。あれはお伽話ではなく……わたくし……が?
「……っ」
息を吸うだけで胸が苦しい。
額に触れたゲルトが驚いた声をあげた。
「妃殿下、かなりの高熱です。倒れてから3日、熱が下がっておりません」
そう言われて初めて、エルフリーデは自分が毛布にくるまれ、領主館の客間のベッドに寝かされていることに気づいた。
「……お兄様は……帝都へ……」
ゲルトは頷いた。
「レオナルト団長は夜を徹して馬を走らせて行きました。
妃殿下の無事と、崩落の件を……殿下に届けるために。団長と別れてから3日経っています。今頃、アレクシウス様と一緒に再びこちらに向かっているかと。」
そうだ。レオナルトは行った。きっと今頃、アレク様のもとに。
「警備上、部屋に侍女だけでは危ないと、私とルッツが交代で。他の近衛はこの領主館の私兵と交代で部屋の前を警備しています。今はまだ熱が高い。侍女と私どもがついていますので安心してお休みください」
エルフリーデは、胸の奥がじんと熱くなるのを感じたが――
同時に、別の熱が身体を焼いていた。それは病の熱ではない。あの声――
その声に呼応するように胸奥が熱を帯び、身体の奥で“紋様”が、まだ眠ったまま震えているようだった。
わたくしのこと……わたくしは……
わからないことばかり。けれど――ひとつだけ確かなのは、
「……アレク様……」
その名を呼んだ時、胸の奥の震えが少しだけ和らいだ。
そして、エルフリーデが眠っていたその頃――
彼女の運命を揺るがす第二の影が、静かに近づいていた。
夕刻。
エルフリーデの高熱は下がる気配がなかった。
額を冷やす布が何度も取り替えられ、侍女はずっと付き添い、ゲルトとルッツが交代で見守っていた。
しかし夜半、雨がやみ、館に静けさが戻った頃――
エルフリーデはふと目を覚ました。熱でにじむ視界に、天井の模様が揺れている。
アレク様……
その名を思っただけで胸が痛む。
熱のせいか、ぼーっとしながらも、頭の中で記憶がとりとめもなく蘇る。
──あれは、いつだっただろう。
初めて、アレクシウスを「兄のような存在」ではなくひとりの男性として意識した夜のこと。
婚約が正式に決まった時、わたくしはまだ4歳だった。
皇城の花迷路の中の、噴水の前でプロポーズをして下さった。ちゃんと片膝をついてくださったわ。
それから、アレク様とお兄様と、ニコラウス様とわたくしの4人でよく遊んだわ。お兄様達に遊んでもらってた、というのが正解なのだけど。
ピアノを習ったら一緒にバイオリンで伴奏して
『フリーデはプロの音楽家みたいだね!』と褒めてくださり、ダンスの練習にも付き合って貰って、
『大丈夫。君ならもっと優雅に踊れるようになる』と励まして下さった。
新しく外国語を覚えたら話し相手になって下さり、
『未来の私の奥さんは頼もしいね』と発音を褒めて、お茶会のマナーを覚えたら、2人だけのお茶会を開いて下さり『所作が綺麗だ』と侍女達に自慢なさった。
皇太子妃のお勉強が辛くて、お庭の影でコッソリ泣いた時も、何処からともなくわたくしの前に現れて、『私の為に頑張ってるエルフリーデが大好きだよ、だからこれはご褒美』とポケットからキャンディを取り出して、渡してくださった。
婚約者で恋人だったけれど、9歳の歳の差を気にしてか、わたくしの年齢が上がっても、決して過度な触れ合いはなさらなかった。
あれは、わたくしが13歳の時だった。
蛍を見に行こうと誘って下さって、夜に皇城の中に流れる小川に連れて行ってくれた。
夜風に揺れるランプの光。歩みが自然と寄り添った瞬間――アレク様がふと立ち止まった。
『フリーデ。……寒くないか?』
そう言って肩にそっとアレク様のジャケットを掛けてくれた。その距離の近さに、胸が跳ねた。
小川のほとりで蛍を見ながら、肩を抱いて下さった。あの時、蛍の光よりも、風の音よりも、アレク様の鼓動が近かった。
そしてもう一つ。─初めて自分からキスをねだった夜。
15歳の時。その日お友達の令嬢達とのお茶会で、それぞれの婚約者と男女の仲が、どこまで進んだのかと話題になった。皆はデートを重ね、キスは当然の事の様に自慢された。その当時、アレクシウス様は24歳。
「勿論、皇太子殿下は大人ですもの、エルフリーデ様も色々経験済みですわよね?」
その問いに曖昧にしか答えれなかった、その日の夜。
就寝の挨拶にアレク様の私室に訪れた際、たまらずお願いしたのだ。
『……アレク様。その……部屋に戻る前に……キスを……』
自分でも驚くほど震えていた。
アレク様は目を見開き、小さく息を呑んだあと――
まるで宝物を扱うように頬を包み、ゆっくりと唇に触れた。甘くて、優しくて、世界が静かに溶け落ちるような感覚。いつも、いつもわたくしを大事に護ってくださる、
アレク様……。
その記憶だけが今、熱に浮かされる身体を支えていた。
熱がさらに上がった。
胸の奥が焼けるように痛む。脈が強くなり、耳鳴りが響く。
……また……この声……
昨日の崩落の時、紋様が光った瞬間に聞こえた声。
──アルトリヒトの神の器よ……
これは女神様の声────?
「やめて……わたくし……アルトリヒトなんて……知らない……!」
叫んだつもりだったが、声は熱に溶けて掠れている。
それでも声は寄り添ってくる。
──あなたは、私の血を引く子……
──王朝が滅ぶ前に守られた最後の赤子……
いや……嫌……!
エルフリーデの額の紋様が、再びかすかに熱を帯びる。
涙が溢れた。
アレク様……助けて……
その願いは、届いたのか届かなかったのか。
室内の空気は薄く揺れる。
だが――
そんな彼女の弱り切った心に、静かに、柔らかく近づく影があった。
熱の高いエルフリーデの為に、侍女はぬるくなった氷水を交換して来ます、と部屋を出た。その時、ゲルトは領主館の書記官から急ぎの文書確認を求められ、部屋を離れた。
「妃殿下、すぐ戻ります。どうか安静に。ルッツ頼んだぞ」
そう言い残し、扉を閉める。残ったルッツが椅子を引き寄せ、エルフリーデの枕元に座った。その数分後だった。
「ルッツ様! 裏庭に不審者が出たとの報告が!」
館の私兵が息を切らして駆け込む。ルッツは眉をひそめた。
「……妃殿下の護衛が第一だ。私はここを離れられない」
「妃殿下の部屋前には、すでに館の私兵を二名配置しております!不審者が本物なら、目的は妃殿下の拉致の可能性も……!」
その言葉に、ルッツは一瞬だけ迷った。
(確かに……裏庭を見逃せば妃殿下が危ういかもしれん)
兵士が重ねるように言う。
「妃殿下のお側には、待機している他の近衛騎士様にもお声をかけておりますので、すぐにこちらにいらっしゃるかと。どうか裏庭の確認を!」
ルッツは扉前の兵を確認し、小さく頷いた。
「……妃殿下。すぐ戻ります。絶対に……誰も部屋に入れないように」
それが、彼の残した最後の防壁だった。
扉が閉まる。廊下に残された館の兵は、静かに合図を送る。影がスッと動いた。
「……妃殿下の容体確認に参りました」
それだけ言って、デルミア行政局――サイラス・ヴァーンは、無抵抗のまま扉の中へ通された。
◆◆◆
部屋に静かな気配が落ちる。
エルフリーデは高熱にうなされながら、薄く目を開いた。
扉がきしむ。
「妃殿下……ご気分はいかがでしょうか」
低く、柔らかい声。枕元にゆっくりと膝をついたのは、デルミア行政局のサイラスだった。
濡れたような艶のある黒髪。
目の奥にどこか冷たい影を宿した整った顔の男。
「行政局の……サイラス様……?」
「はい。妃殿下の容態を確認するよう、館より任されております」
「わたくしの侍女……は……?」
「今し方部屋の前で氷水を預かりましたよ。彼女も疲れている様でしたので、休憩をお勧めしたのです。部屋の前には私兵も警備しておりますし、安心して休憩なさい、と。」
微笑みながら、彼は冷えた布を手に取る。その指が、エルフリーデの首筋へそっと触れた。冷たさと、指先の温もりが同時に広がる。
「っ……そこは……」
「熱がこもっています。冷やさねば危険です」
指が首の後ろをなぞり、布を当てる。
それは医療行為よりも、――甘く、淫靡な動きだった。
「ゲルトとルッツは?」
「護衛の方々には用事を作って少し席を外していただきました」
(……そんな……ゲルトとルッツまで……)
熱に浮かされるエルフリーデは、反応が遅れる。視界が揺れ、彼の存在がやけに近い。
「そんなに怯えなくとも。悲しいなぁ、先日一緒に護岸工事を視察した仲ではないですか。失礼ながら……この視察で帝都を離れ、お一人の時間が長いと聞きましてね。妃殿下との仲をもっと深めてお慰めできれば、と。」
サイラスは、ベッドに腰掛けた。
その動きは礼儀正しく、だが“逃げ道を塞ぐ獣”のように滑らか。
「妃殿下の孤独……よく分かりますよ。誰も傍にいない。
帝都とも途絶え……殿下も、兄上もいない」
「わたくしは……ひとりでは……」
「……本当に?」
サイラスはわずかに艶のある笑を落とす。その声は甘く、体温を溶かすように柔らかい。彼の指が冷え布を取り替えるふりで首元へ触れる。あまりに自然すぎて止める余裕がない。
「首筋……とても熱い。冷やさねばなりませんね。失礼いたします」
布とともに、指がエルフリーデのうなじをゆっくりなぞる。
ぞくり。喉がひゅっと縮み、息がうまく吸えない。
「お痛みですか? それとも……」
問いは完成しないまま、サイラスの顔が近づいてくる。
熱で揺れる視界に、その瞳だけがやけに鮮明だった。
深く、底が見えず、落ちたら戻れない沼のような黒。エルフリーデは恐ろしくて、必死に重たい身体を起こし後ずさるがヘッドボードに遮られた。
サイラスは、エルフリーデの震える体を支えるように手を添えながら、まるで優しく諭すような声音で、しかし蛇のように締め上げていく。
「妃殿下……あなたは、本当に何もご存知ないのですね」
「何……を言って……」
エルフリーデの喉が震える。
サイラスは、首筋へそっと冷え布を当て、距離を詰めた。
「まず……アルトリヒト自治領、妃殿下もその地はご存知でしょう?このデルミアには、アルトリヒト自治領から逃れた者が何人かおります。先日、妃殿下を見て泣き崩れた方もいたとか……」
「……っ」
胸が刺されるように痛い。サイラスは淡く微笑む。
「十九年前、アルトリヒト自治領が焼かれ……領主一家は全滅したはず。帝国史にもそう記されています」
指が銀の髪を払うように触れる。しかし熱で身体が思う様に動かず逃げられない。
「けれど……その王家の特徴をご存知ですか?銀の髪。碧い瞳。額の紋様。――妃殿下、あなたはどれもお持ちだ」
「や……め……て……」
「そして――」
サイラスは、ゆっくり首筋へ触れ、そのまま肩へ沿うように手を滑らせた。
「ディオス侯爵家の死んだ娘。あなたが、その代わりとして迎えられたことも……噂になっております」
エルフリーデの呼吸が止まる。
「ち、が……違っ……何を根拠にっ」
「本当ですよ。侯爵家は自分たちの家族の死さえ隠し、
あなたを……まるで宝のように育てた。死んだ本当の娘の代わりに。あれは、保護ではなく秘匿です」
肩が震える。サイラスの声はさらに甘く、深く沈む。
「では、昨日の土砂崩れ――覚えておられますね?」
エルフリーデの胸の奥がズキンと熱く脈打つ。
「妃殿下が手を伸ばした瞬間、土砂が光に包まれ、死んだと思われた近衛が“奇跡のように”救われた」
「……やめ……っ」
「ええ。奇跡。その言葉がふさわしい。妃殿下は気づいておられないでしょうが……その額の紋様は神の器の証。
三百年ぶりに現れた、王朝の正統なる継承者。近衛の者は誰1人口にはしていませんが、その奇跡を見た者がいたんです。」
エルフリーデは涙を浮かべ、首を振る。サイラスは、さらに追撃する。
「価値の高いものは、常に利用されるのです」
冷たい唇がうなじをかすめた。
「ひっ……!」
エルフリーデの身体が跳ねる。
「そして――帝国が、その神の器を見逃すはずがない。
あなたの結婚……それが愛だけだと? 本当に?」
「アレク様は……そんな……!」
「では、なぜ殿下は全てを黙っていたのでしょう?あなた何も知らされていなかった。あなたの出自も。紋様も。昨日の奇跡の意味も。旧アルトリヒト王朝の血を引くことも。―帝国は最初から全部、知っておられたのですよ?」
エルフリーデの瞳から涙が滑り落ちた。
信じたい。でも、信じられない。
――わたくしは、本当に何も知らない――
サイラスは、さらに毒をそっと流し込む。
「そして……これは妃殿下にとって酷かもしれませんが――帝都では今、殿下とゼラニア王妹イザベラ殿下が口づけを交わしていたと噂になっています」
エルフリーデの世界が音を立てて崩れた。
「……っ、アレク……様が……?」
「妃殿下が倒れて熱を出している、この数日の出来事です。帝国は――あなたが知らないところで、あなたの価値を利用し、殿下は……イザベラ様と……。あのお二人には過去、婚約話があった事はご存知で?」
「………………!」
エルフリーデは首を振った。だが、熱と涙で視界は揺れ、言葉が出ない。サイラスは、泣き崩れるエルをそっと抱き寄せるようにしながら、耳元で最後の毒を囁く。
「それに、これは本当にトップシークレットですが、皇太子殿下は密かに……避妊薬を服用されている様ですよ。誰のため、でしょうね?妃殿下の為?それともイザベラ様……?」
その毒にエルフリーデは胸をナイフで突かれた様に痛んだ。
避妊薬?ア……レク様が?わ……わたくしが子供が欲しいと……知っていて…?
エルフリーデが混乱を極めた時、首筋に何かが這う。
――熱に浮かされたうなじへ、冷たく湿ったサイラスの唇が這い、まるで毒蛇に噛まれたような悪寒が走った。
「ひあっ……!」
逃げようとしても、熱で力が入らない。
「やめて、離して!」
「あぁ、堪らない。妃殿下のその表情……帝都の、この世の誰より美しい。そして誰より……危うい。」
指が肩から背へ滑り落ちる。蛇が身体に巻きつくような感触。
「覚えておいてください……妃殿下。あなたは利用されるために選ばれた存在なのです」
サイラスはエルフリーデの身体をなぞり、押し倒す。
「いや、嫌よ!やだぁ!」
サイラスの唇が、エルの首筋へ沈み込んだ、その瞬間だった。
――轟音と共に、扉が開いた。
冷たい風が吹き込み、その中心に立つ影があった。
アレクシウス。
泥と雨に濡れた外套。
肩で荒く息をしながら、
ベットに押し倒されたエルフリーデと、その上にいるサイラスを――
一瞬で理解した。視界が、赤く染まった。
「……何を、している」
声は低く静かだった。だがその静けさは、破壊の前触れのように冷たい。
サイラスが慌てて身を離れようとした瞬間――アレクシウスの足が、彼の手首を踏み砕いた。
「ぐっ……!」
骨の折れる音が、部屋に響いた。レオナルトが後から駆け込み、息を呑む。
「アレク――!待て!」
だが止められるような気配ではなかった。
サイラスの喉元に剣が突きつけられる。ほんの少しでも動けば、首が落ちる角度。
「殿下……っ、こ、これは……誤解で…妃殿下が……!」
「黙れ」
アレクシウスの一言で、部屋の空気が震えた。
後から飛び込んで来たゲルトもルッツも、近衛たちも息を飲んで動けない。
アレクシウスはサイラスの腹をを踏みつけた後、ゆっくりとエルフリーデに近づいた。
「フリーデ……」
高熱で涙に濡れたエルフリーデの瞳がアレクシウスを映した。
恐怖。
悲しみ。
疑い。
混乱。
そして――絶望。
そのすべてがエルフリーデの胸を刺した。
「エルフリーデ、迎えに来た……。遅くなって、すまない。もう大丈夫だ。私は……君を守るために――」
手が触れようと伸ばされた瞬間。エルフリーデは、びくりと身を震わせた。
そして小さく、しかしはっきりと叫んだ。
「触らないで!!」
アレクシウスの動きが止まった。
「……フリーデ?」
「来ないで……アレク様……わたくし……わたくし……!」
エルフリーデは涙を流しながら、首を振る。
「わたくしは……殿下の…帝国の……何なのですか……?
アルトリヒトの……生き残り?政治の……駒……?
神の器?だから……必要なのですか……?」
アレクシウスの背筋が凍りついた。
……誰が……フリーデに何を……
サイラスに視線を向けた瞬間、殺意が溢れ、レオナルトがとっさに腕を掴んだ。
「アレク!」
「離せ、レオ。今すぐ殺す」
「落ち着け!!エルの前でそんなもん見せられるか!」
エルフリーデは胸を押さえて泣きながら続けた。
「では……ディオス侯爵家の……亡くなったお嬢様。
その代わりにわたくしが迎えられたのも……殿下はご存じで……?」
「……っ、それは……!」
「お兄様も……皇帝陛下も……皇后陛下も……みんな……知っていて……!わたくしだけが……何も知らずに……!」
エルフリーデは喉を押さえ、崩れ落ちるように泣いた。
「守られるだけでは……わたくしは……アレク様の形のない駒です……!」
アレクシウスの顔から血の気が引いた。
完璧な男が、初めて言葉を失った。
「フリーデ……違う。君を利用など……!」
「では……ゼラニア王妹殿下との噂は……?」
アレクの目が大きく開く。
「……噂……?」
エルフリーデは涙で声を震わせながら絞り出す。
「城で……キスしていたと……聞きました……!わたくしが…いない間に!お二人には昔、婚約の話もあったとか」
アレクシウスの呼吸が止まった。
イザベラの罠の件か、これもサイラスか!
だが今、その説明をしても――エルフリーデには届かない。更にエルフリーデは泣き笑いの様な顔でアレクシウスに問う。
「……避妊薬も……そういう理由で?やはり、わたくしはただの政治の駒で、女としては見れない?わたくしが余りにも幼いから?だから避妊薬を飲まれていたの?」
「っ違う!」
アレクシウスは頭を殴られた感覚だった。目の前の彼女は、高熱で心が壊れそうで、真実も嘘も区別がつかない状態。今何を言っても言い訳にしか聞こえない。
胸に穴が開くような痛みの中で、それでも一歩だけ近づいた。
「フリーデ……私は……ずっと君を……」
その言葉を遮るように。
「――信じられない!!」
エルフリーデの叫びが部屋を裂いた。アレクシウスは静かに膝を折った。
天才皇子が――初めて崩れた。
「……フリーデ……」
自分の読み違え。
自分の過信。
自分の策が招いた最悪の結果。
目の前で震えるエルフリーデを、抱きしめることすらできない。
アレクシウスは、そっと手を伸ばした。けれど触れることはできず、ただ空を掴む。
「……ごめん……フリーデ……私が……君の心を……わかっているつもりで……何も、見えていなかった……」
その声さえも、エルフリーデには届かない。
エルフリーデは泣き崩れ、頭を振り続けた。
アレクシウスは、震える彼女をそっと抱き上げると、ビクっと怯えて硬直する。その反応に心が抉られた。
それでも――。
「帰ろう、フリーデ……もう誰にも、君を触れさせない」
その声は震えていた。
誰より冷静な天才が、今だけはただの一人の男で――
全てを失いそうな男だった。
部屋の空気は張り裂けるような沈黙に包まれた。
そして――
二人の間に、初めて深い「亀裂」が落ちた瞬間だった。




