第6章 祈りが集まる夜-帝都の影 第2話
帝都郊外、廃墟同然の古い修道院跡。
夜の闇が冷たい吐息を吐く中、数名の“巡礼者”が音もなく歩を進めた。
外套の下の目が、紅玉のように妖しく光る。
イザベラ・フォン・ゼラニア王妹。
「巡礼者の服って便利ね。人は信徒を疑わない。夜分に呼びつけてしまってごめんなさいね。……国教会の先生方にとっては大切な季節でしょうに?」
しなやかな声。まるで慈しむような微笑み。しかし──氷より冷たい。前に跪くのは国教会強硬派の司祭――コンラート。国教会総本山、大司教モレノの帝都での手足。
「王妹殿下のお力添えがある限り、我らは全てを捧げます」
イザベラは、その忠誠の響きに薄く笑った。
「全てを捧げるなんて……物騒ね。でも、嬉しいわ。──あなた方なら、話が通じると思っていたもの」
イザベラは聖典を撫でながら微笑む。
「アルトリヒトの血、300年ぶりの紋様……本来なら教会が導く聖女なのでしょう?」
コンラートの瞳が狂気に揺れる。
「ええ、そうです!エルフリーデ妃殿下こそ、神の器……!額の御印が解放されれば、奇跡は世界へ広まるでしょう!あぁ!今代の御印様は何のお力か……!」
イザベラは、優しい声のまま内心で冷笑する。
(扱いやすいわ…こういう信徒は、理想の形を勝手に作って崇めてくれる)
「でも帝国に囚われたままでは可哀想だわ。本来の神の座につけて差し上げたいの」
コンラートは深く頭を垂れる。
──好都合。こういう奴らは、神さえ盾にすれば、容易く動く。
「妃殿下を救うためなら、我らは影でも動きます」
「ええ。それが神の意志なのでしょう?」
「すでに反皇太子派の貴族らへ働きかけています。皇太子妃は――不安定な血筋だ、との噂も」
イザベラは微笑んだまま、指先でカップの縁をなぞる。
「不安定、ね」
「ええ。ディアス侯爵家とも血が繋がらず、帝国中枢のどの家とも縁の薄い出自。どこの馬の骨とも知れぬ娘を、皇太子妃に据え続けていいのか――そう囁かせています」
すでに効果は出始めていた。
古参貴族の席では沈黙が増え、国教会強硬派の司祭たちは正統な血という言葉を、祈りの中に混ぜ始めている。
イザベラの微笑は甘いまま、瞳だけが飢えた獣のように揺れた。
「……最初は水のようでも、一度火がつけば、誰にも消せないものだわ」
「それと、これは最近わかったことなのですが……」
コンラートは声を一段と落とす。
「妃殿下にお子が出来ないのは、どうやら皇太子殿下ご自身が避妊薬を服用している、と」
「……どこから?」
「軍医の帳簿です。正式なものではありませんが、補給記録に不自然な欠落がありました。それを拾った者が……おります」
「‼︎……っふふ……‼︎」
イザベラは一瞬だけ目を伏せ、次の瞬間、その紅い瞳を見開いて笑い出した。
「……あはははは‼︎なるほど。殿下ご自身が“望んでいない”のなら――それはもう、神の思し召しではなく、意志ですものね」
ひとしきり腹の底から笑ったイザベラがようやく息を整える。
「そう、そうなの。とっても良い情報だわ。」
そして──机の上に置かれていた地図に、指を滑らせる。
イザベラの指が地図の一点を撫でた。
デルミア北部――アレクシウスが護岸工事を進めている地帯。
「大地は脆いわ。予測不能の自然崩落には、誰も責任を取れない」
コンラートが息を呑む。
「まさか……妃殿下を危険に?」
「死なない程度によ。神の器は生きていなければ意味がないでしょ?」
地図がくしゃりと折られた。
「事故で足止めさえすれば、世界が動くわ。あなた方は救う者に。私は手を差し伸べる者に……どちらが本物の導きか、後の世界が判断するでしょう?」
コンラートは深く頭を垂れる。イザベラは満足げに息を吐き、外套を翻した。
だが扉の外へ出た瞬間──彼女の目は冷たく細められた。
「神の導き? 滑稽ね。宗教が何になるって言うのよ。戦場の勝敗を祈りで変えられるなら、ゼラニアはとっくに大陸を取っているわ。」
そう、低く吐き捨てた。
――本当に導くのは神ではない。世界を動かすのは力。奇跡なんて信じるもんですか。……でも神の器という駒を手にすれば、覇権を握れる。帝国を潰せる……!
その時にはアレクシウスだってきっと――。
そして誰にも聞こえない声で呟く。
「お子を授けて貰えない可哀想なお姫様は……ゼラニアのものよ。それまで国教会には働いてもらいましょう」
夕闇に、軍事国家の影が溶けていく。その背中にまとわりつくのは、恋敵ではなく──帝国を切り裂く戦争の炎そのものだった。




