第6章 祈りが集まる夜-帝都の影 第1話
ゼラニア使節団が帝都に到着してから三ヶ月――
冬の硬い空気が去り、春の光がようやく街の輪郭を和らげ始めた頃。
議会室には、散会後の静けさが満ちていた。
アレクシウスはひとり、整えられた資料に指を添え、微かな沈黙を味わっていた。
「殿下」
フィンツがそっと声をかける。
「エルフリーデ妃殿下の視察日程、デルミア側との調整が完了しました。三日後の出立となります」
「……そうか」
アレクは軽く息を吐き、椅子にもたれた。その表情は穏やかでありながら、どこか遠い。
「護衛の編成はどうなっている」
「レオナルト団長が主軸となります。妃殿下付きの近衛――ゲルト、テオ、オスカー、ルッツに一個小隊を随伴させます」
「レオ」
呼ばれたレオナルトが一歩前に出る。
「フリーデの専属は、近衛の主力四名だ。お前は安全確認の名目だが……実際は、私の代わりに盾となる」
フィンツが肩をすくめる。
「妃殿下の盾――ですね」
アレクシウスはその言葉を否定しようとはしなかった。
「……レオほど信用できる盾はいない」
レオは短く笑う。
「任せろ。あいつは、俺の妹だ。誰にも指一本触れさせない」
「ニコは皇城に残って、俺とゼラニアの相手を一緒に頼むぞ」
「あぁ、僕も頑張るよ」
ニコラウスは胸を軽く叩いてみせたが、すぐに少しだけ表情を曇らせた。
「……でもさ。正直に言うと、やっぱり俺、イザベラ王妹殿下は苦手だ」
「どうしてだ」
「兄さんに対して、距離の詰め方がいちいち計算づくなんだ。視線の向け方も、袖に触れるタイミングも、相談の持ちかけ方も――全部“偶然です”って顔をしてる。一度や二度なら気のせいで済ませるけど、あれは続けすぎだろ」
ニコラウスは小さく息を吐いた。
「……正直、ねちこい」
その横で、フィンツが何も言わず淡々とメモを取っている。
「それにさ」
ニコラウスは一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。
「姉さんがいるのに、兄さんももっとはっきり線を引いていいはずだ。なのに、そうしない。――昔、強く出られなかった理由でもあるのか?」
アレクシウスはその問いを受け流すように、何も答えず立ち上がり、静かに椅子を押し戻した。
それ以上、言葉を交わすつもりはない――そう告げるような仕草だった。
背を向けたまま、わずかに歩みを進める。その途中で、ふと視線を落とした。
ニコラウスには見せなかったが、その一瞬だけ、アレクシウスの動きが止まる。胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
アレクシウスが視線を伏せたとき、春の陽光とは裏腹に胸中を冷やす影がひそんでいた。
(本当は、行かせたくない。だが――彼女の未来のためには必要な一歩だ)
「……デルミアの件は、本来なら“順調な帝国統治の証”でしかなかったはずだ」
誰にともなく呟き、すぐにいつもの無表情に戻る。
「だが、盤上の駒が勝手に動くこともある。だからこそ、先を読んで把握しておく。──それだけだ」
フィンツは、その言葉にうっすらと苦笑した。
(やれやれ……相変わらず、“天才”の言うことは難解ですね)
しかし、その天才がこのあと“たったひと駒のために”冷静さを失うとは──
この時は、まだ誰も知らなかった。




