第5章 婚約という檻、守護という嘘 第2話
けれど、小さな影がまだ残っていた。
いくら結婚していると言っても、わたくしとアレク様は9つも歳が離れている。婚約を結んだ当時、アレク様は13歳。女性に興味を持つお年頃だったわ。
──アレクシウス様は……本当に、わたくしだけを……?
皇后の言葉は冷えた心にとても暖かく沁みたが、自分の心の闇は、なかなか消えない。
……あんなに令嬢が囲んでいたら、不安にもなる……
エルフリーデは自嘲気味に笑った。
わたくし、強いつもりでいて、実はとても弱い……
皇后の「泣くのは今日だけよ」という声が響く。
――大丈夫、わたくしはちゃんとやっていけるわ。
先日、レオ兄様と喧嘩した日だって、「愛してる」とちゃんと言葉にして下さったじゃないの。あれだけ心を砕いてくださるアレク様を信じなくてどうするの?
エルフリーデは深呼吸して、冬宮の廊下を歩いた。空気はひんやりしているのに、胸の中はまだ温かい。
その夜の寝室。
エルフリーデは膝に本を置いたまま、ページをめくる指が止まっていた。
──皇后の言葉が何度も蘇る。
「あなたは、わたくしの娘よ」
「アレクシウスは唯一としてあなたを選んだ」
胸の中で、あたたかいものと不安の名残が混ざり合う。
あの日、アレク様は一緒に考えて下さると約束した。今夜を最後に悩むのはもうやめよう。そう、心に決めたその時、寝室のドアが開いた。
「……難しい顔をしているな」
軍服ではなく、柔らかなシャツ姿の夫。昼間の冷徹な皇太子ではなく、彼女だけが知るアレクシウスの顔。
「お帰りなさいませ」
「ただいま、フリーデ」
彼は当然のようにベッドに腰を下ろし、エルフリーデの頭を優しく撫でる。
「母上とは、ゆっくり話せたか」
「……はい。色々……叱られました」
「ふ」
アレクの横顔に、わずかな優しさが浮かぶ。そして、エルフリーデは思い切って口を開いた。
「……アレク様。もし……もしも、わたくしたちに子どもが授からなかったら」
アレクシウスの手が止まる。
「帝国のために、側妃を──」
「ない」
即答だった。
エルフリーデは驚いた。
アレクシウスはゆっくり、彼女の顎に手を添えて顔を向けさせた。
「フリーデ。もしもの話ではなく、あり得ない話だ」
「でも……皇太子としては……」
「俺は皇太子である以前に、アレクシウスだ」
声が深く、強い。
「アレクシウスは、エルフリーデ以外を愛さない。政治も国も、その次だ」
「……アレク様……」
「お前以外の女を妻にするくらいなら、帝国の制度の方を変える」
あまりの言葉に、エルフリーデは息を飲んだ。
「……卑怯ですわ」
「またそれか」
アレクシウスはふっと笑い、エルフリーデの額に唇を触れさせた。
「いいか、フリーデ。──お前の居場所は、俺の隣だけだ。それを忘れるな。」
アレクシウスの腕に引き寄せられ、胸に顔を埋める。その胸の音は穏やかで、嘘のない鼓動だった。
エルフリーデは震える声で答える。
「わたくし……アレクシウスを愛していますわ」
アレクシウスの指がぴくりと動き、そして彼は静かに目を閉じた。
「……それだけで、この帝国の半分は救われる」
銀の髪に軽く口づけながら、彼は囁いた。
「フリーデ。……子どもの件は、焦る必要はない。授かるかどうかではなく──二人で家族になることが大事だ」
エルフリーデは目を閉じ、そっと頷いた。
……この人は、わたくしの夫。そして、わたくしの……唯一。
その夜、エルフリーデの胸のわだかまりは、静かに溶けていった。




