第5章 婚約という檻、守護という嘘 第1話
その日、皇城の大広間は、春の陽光を受けて宝石のように輝いていた。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアは、無数の光を散らし、濃紺のカーペットに金の模様を映し出している。
帝国名家の貴族たちが招かれた昼餐会。
香ばしい肉料理の香り、グラス同士が触れる澄んだ音、談笑のざわめき。
その中心で──
皇太子妃エルフリーデは、完璧な微笑みを浮かべていた。
皇后の一段下手に座り、品よくグラスを傾け、近づく貴族令嬢や夫人たちに丁寧に応じている。
だが、視線の端はどうしても動いてしまう。
夫──皇太子アレクシウスのいる卓へ。
今日も、若い令嬢たちが彼の周りに集まっていた。宝石で飾り立てた髪、若さを強調するドレス。その誰もが「皇太子妃の席」を夢見る瞳で、アレクへ声をかけている。
「皇太子殿下、最近とてもお疲れではありませんか?もしよろしければ、今度の音楽会の折など──」
「殿下、父が新しいワインを入れまして……殿下に最初にお味見していただければと」
自分の夫にまとわりつく虫たちを眺めながら、エルフリーデは微笑みを絶やさない。だが胸の奥では、ざわりとした波が立つ。
……分かっているわ。政治的な距離。婚姻の思惑。でも……胸が苦しいのは、どうしようもないの。
その時。
カップが、そっと彼女の前に置かれた。
「気にしているなら、堂々としていなさいな、エルフリーデ」
皇后の、落ち着いた声だった。紺碧の瞳は、どこか愉快そうに細められている。
「……お見苦しいところをお見せして申し訳ありません」
「いいのよ。夫の周りに虫が飛んでいたら、気になるのは当然でしょう?」
エルフリーデは思わずカップを握る。皇后はさらりと続けた。
「ほら、よくご覧なさい。──あの子の顔を」
促されて視線を向ける。
アレクシウスは令嬢たちに囲まれてなお、明らかに別の空気を纏っていた。わたくしには決して見せない、どこか冷えた、遠い表情。
「殿下、夜会ではぜひ──」
「夜会では、公務上のダンス以外の予定はない」
「では、非公式の茶会など……殿下のご休息の折に──」
「皇太子の休息に踏み込めるのは、この帝国でただ一人だ」
令嬢は困惑の笑みを浮かべる。
「……どなた、でしょう?」
「言わずともわかるだろう。皇太子妃だ。それ以外に誰がいる?」
一拍、大広間が静まり返る。
そしてアレクシウスは──
穏やかなまま、鋭い一言を落とした。
「継嗣の件は二人で考える。第三者の心配は不要だ」
それは明確すぎる線引きだった。皇后はため息をつく。
「相変わらず可愛げのない子ね、あれは。本当にいつも、あなた以外の令嬢を褒めた試しがないんだから。」
「……でも、とても誇らしいですわ」
エルがそっと呟くと、皇后は満足げに口角を上げた。
やがて昼餐会が終わり、客人たちが退室していく。
「エルフリーデ。少し、お茶でもどう?」
♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎
皇后マティルダの私室は、光のよく入る静かな部屋だった。
壁には本棚、机には政務書類の山。侍女が下がり、二人きりになる。
マティルダは紅茶をひと口飲むと、容赦なく切り込んだ。
「さっきのあなたの顔は、わたくしは好きじゃないわ」
「……そんなに、変でしたか?」
「安心しているくせに、自分を下げている顔よ。私は不十分かもしれないって顔」
エルフリーデの呼吸が止まった。
「あなた、こう思ったのでしょう?アレクシウス様は私を選んでくださっている。でも子どもはいない。いつか側妃が必要になるかもしれない。そうなったら私は──」
図星を刺され、目を伏せる。マティルダは口調を緩めない。
「それに、出自。本当にディアス家の娘なのか。拾われたのかもしれない。そんなふうに自分を下げるのも嫌いなの」
エルフリーデは手を震わせながら弱々しく答えた。
「……陛下は、なんでもお見通しなのですね」
「母親だからよ。あなたとアレクの顔くらい、見れば分かるの」
マティルダは自分のカップをそっと置くと、まっすぐエルフリーデを見つめた。
「大事なことを言うわ。エルフリーデ──あなたは、わたくしの大事な娘よ」
「っ……」
一瞬、世界が止まった。マティルダは静かに微笑む。
「あなたが初めて皇城に来た日。泣き疲れて眠っていたあなたを抱いた瞬間、この子は私が守ると思ったのよ」
そして、そっとエルフリーデの髪を触った。
「あなたの銀の髪を梳かした日も、踊りを覚えた日も、アレクに拗ねて泣いた日も──全部覚えている」
視界に涙が滲む。声が震えないようにするのが精一杯だった。
「……陛下……」
マティルダはふっと目を細め語気を強めた。
「子どものこともね。悩むのは当然よ。でも授からないから価値がないなんて思ったら、私が許さないわ」
その言葉は鋭いのに、やさしさに満ちていた。エルフリーデはついに涙をこぼす。
「継嗣の件なら、心配しなくていいわ。弟のニコラウスがいる。もしあなたが本当に授からなかったとしても──
その時は彼の子が次の皇太子になれば良いの。あなただけに背負わせる必要は、どこにもないのよ。」
皇后は椅子を立ち、その肩にそっと手を添える。
「泣いていいのは今日だけ。明日からまた、強い皇太子妃でいなさい」
エルフリーデは小さく頷いた。




