第4章 ディアス侯爵家の娘として 第1話 消えゆく足跡、残る標的
――その足跡は、夜明け前の雪に消えかけていた。
帝都オルデン郊外の林道。薄く積もった雪の上に刻まれた靴跡は、帝国兵の軍靴とも、巡礼者の粗末なわら靴とも違っていた。
深く、固く、爪先がわずかに反り上がったその形は──
「……ゼラニア北辺軍の戦靴だな」
跡を見下ろし、帝国軍の偵察隊長が低く呟いた。彼はすぐさま測量用の棒を差し込み、歩幅と深さを確認する。
「重装歩兵。数は……五。潜入にしては多いが、斥候にしては少ない」
「隊長、痕跡は?」
「夜のうちに帝都近くまで入り、夜明け前に退いた。目的は交戦ではない……“下見”だ」
風が吹き、雪がさらりと舞う。戦靴の跡は、あっけないほど容易く白に飲み込まれていく。
「記録しろ。帝都近辺でのゼラニア軍靴跡──これは、ただの迷い込みでは済まない」
隊長は、消えゆく足跡を一瞥し、馬へと戻った。
その報告は数日と経たずに、皇都の中心──帝国軍議場へと届くことになる。
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冬宮の奥にある軍議室。
巨大な地図が壁一面に貼られ、国境線に沿って赤と黒の駒が並んでいる。
その中央に、オルデンブルグ帝国皇帝と皇太子アレクシウスが座っていた。
「……ゼラニアの戦靴が、帝都近くで見つかったと?」
皇帝の声は低く、しかし怒りに染まってはいない。
軍務卿が汗を拭いながら答える。
「は、はい。数は少なく、交戦行為もありません。ただ……完全に意図的な侵入と見て間違いないかと」
「国境警備に穴があったということだな」
「弁解の余地もございません」
重い空気が落ちる中、アレクシウスは地図の一角を指でなぞった。ゼラニアとの国境線から皇都オルデンまで。
山脈、平原、街道。そして、密かに使われる獣道。
「現場は……ここか」
「そうです、殿下。その林道で──」
「なら、ゼラニアは見たな」
アレクシウスの声は静かだった。軍務卿が戸惑うように眉をひそめる。
「何を、でございますか?」
「帝都の喉元だ。ゼラニアから見れば、ここが一番、帝都に抜けやすいのは知っているだろう。だが、実際に夜間に動き、警備の薄い時間帯と兵の交代、巡回経路まで把握した」
アレクシウスは視線を地図から離さない。
「今回は五人かそこらの斥候だ。だが次は、五十かもしれないし、五百かもしれない」
「しかし、ゼラニアは帝国に喧嘩を売るほど愚かでは……」
財務局長が恐る恐る口を挟む。アレクシウスはふっと目を細めた。
「ゼラニアは愚かではない。あそこは軍事偏重の国だが、馬鹿ではない。だからこそ……自分たちの限界もよく知っている」
皇帝の瞳が、じっと息子を見つめる。
「つまり、どういうことだ、アレクシウス」
「単純な侵攻では勝てないと分かっている。だから……正当性を奪いに来る」
軍議室が静まり返る。
壁の地図の上に視線を滑らせながらアレクシウスが続けた。
「大陸で、帝国に真正面から楯突ける国は、もはやゼラニアしかない。それでも規模は我々より小さい。なら、どうやって帝国と肩を並べるか?」
彼は指を、今度は別の場所──アルトリヒト自治領のあった位置へと移した。
「アルトリヒトの血だ」
その名を出した瞬間、何人かの重臣が息を呑む。宗教国家として栄えた王朝の名。今は亡き、王家の血筋。
「大陸の古い国々は今も、アルトリヒトを神に選ばれた一族と考えている。帝国が覇権を握れた理由の一つは、アルトリヒトの血筋と古い同盟を保っていたからだ」
「それを、ゼラニアは……?」
「欲している」
アレクシウスは短く答えた。
「帝国に匹敵する神話上の正当性が欲しい。それが、ゼラニアの喉から手が出るほど欲しいものだ」
軍務卿が首を傾げる。
「しかし、アルトリヒトの血は……十九年前に途絶えたはずでは?」
部屋の空気が、ほんの一瞬だけ、冷たくなる。アレクシウスは、その沈黙を飲み込みながら、あえて表情を動かさなかった。
「……そう、公式には途絶えた。だが、噂は生きている。アルトリヒトの残照が帝都にいる、と」
銀の髪。
碧の瞳。
額に宿る、淡い王家の紋。
アレクシウスは、その像を心に描きながらも、決して口には出さなかった。ここは軍議の場であって、自分の妻の話をする場所ではない。
「ゼラニアが帝都近くまで斥候を送り込んだのは、軍事的な利点の確認だけではない。本当に噂通りなのか、その匂いを嗅ぎに来たのだろう」
皇帝が腕を組む。
「……お前は、ゼラニアがアルトリヒトの血を巡る戦を起こすと見るか?」
アレクシウスは少しだけ目を伏せた。
「戦は……まだ早いでしょう。あそこは必ず、別の手を先に打つ」
「別の手?」
「婚姻。使節。保護の名を借りた引き抜き。」
重臣の一人が顔色を変える。
「まさか……皇太子妃殿下を?」
アレクシウスの瞳が、まだ口にするなと言わんばかりにその重臣を睨む。
「ゼラニアがどう考えるかは知らない。だが──俺は誰にも渡さない」
その言葉は、軍略の話とは思えないほど、静かで、強かった。皇帝はわずかに目を細める。
……やはりあの時の事を、まだ根に持っているか
息子が13歳の頃、エルフリーデとの婚約を望み、自力で問題を解決して見せろとけしかけたあの時。皇家にたまに現れる天才的な頭脳を持つこの息子は、帝国内外から持ち上がる、己の縁談を半年で潰してみせたあの執念。
「よかろう。ゼラニアの斥候については、国境守備隊の増強と監視体制の見直しを命じる。帝都近辺には、目立たぬ形で近衛を増やせ」
皇帝の言葉に、将たちが一斉に頭を垂れる。アレクシウスは最後に一つだけ付け加えた。
「……それと、エルフリーデが行く春の終わりのデルミア護岸工事の視察の日程を前倒しに」
「工事の視察を?」
「ゼラニアに、帝国は何も見ていないと勘違いさせるわけにはいかない。我々はしっかり監視していると思わせなければ。」
軍務卿が慌ててメモを取る。
「は、はい。では、春の終わりではなく……春の初めに」
「そうだ。」
アレクシウスは何気ない口調で言った。だが、その声の奥には、誰にも気づかれないほどの鋭い警戒があった。
(エルを戦場の匂いから遠ざけておく)
それは、皇太子としての判断ではなく──
一人の男としての本能から出た結論だった。




