表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神の器と嘘つきな皇太子  作者: ゆうきあさひ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/38

第3章 銀髪の幼子、皇太子の誓い   第3話 誓いは、氷よりも静かに

いつもは執務室にいる時間。

この日必要な書類が揃っておらず、事務官に準備させる間に少し時間が空いたアレクシウスは、久しぶりに書庫に向かった。

過去の皇家の禁書や大陸の歴史、今流行りの小説まで国内すべての蔵書が全て揃う、帝国随一の蔵書量を誇る書庫。

本を眺めながら、ふと過去を思い出した。


 ――あの夜も、書庫には誰もいないはずだった。

高い本棚が並ぶ、皇城の大書庫。壁の燭台に灯る火が、淡い橙の光で静かな闇を切り取っている。

 十三歳のアレクシウスは、机の上に積み上げた資料に目を走らせていた。


 帝国の人口推移。

 穀物価格の変動。

 近隣諸国との過去二十年の外交記録。

 気象の年ごとの統計。

 紙が擦れる音だけが、空間を満たしている。

 ……十年後、二十年後、この帝国はどうなる?

 誰にも相談できない。

相談しても、誰も本当の意味では理解してくれない。

私の頭の中には、常に先の形が見えていた。

 人口増加と耕地面積の限界。

 宗教勢力の膨張と既得権。

 ゼラニアの軍備拡張。

 アルトリヒトの血に群がる思惑。

それらが複雑に絡み合い、最悪の形を取ったとき──帝国は、容易に戦火へ傾く。

その未来図が、他の誰よりも早く、正確に見えてしまう。

……見えるのに、今はまだ何もできない。胸の奥を掴まれるような苦しさ。

 

 ――なぜ私はこんなにも理解できてしまうのか。

言葉を覚えるのも早ければ、文字を書くのも人より早かった。人々の会話を耳にしては頭の中で繋げていく。皇太子という恵まれた環境から、教師達も最高の者たちが選ばれ帝王学を学び、5歳になる頃にはどうすれば人が動くのか把握できていた。母の茶会に連れ出されれば、夫人達の会話の端から帝国内貴族のパワーバランスを読み取り、誰が何を好んで苦手とするのか頭に入れていく。父皇帝の主宰するチェスの大会に参加すれば、必ず私が優勝を掻っ攫うので、途中からは出場を禁止される程だった。ゲーム中の何気ない会話から貴族達の情報を読み取っていた私は、その後は紳士クラブに顔を出し、低俗な行いをする貴族達を煽り、けしかけ、宥め、自滅させていった。あくまで自然にそうなった様に、私が関わった痕跡は一切残さずに。

 全ては自分の意のままで、まさにチェスと同じく盤上の遊戯を人で楽しんだ。

 そうして動いた貴族たちは、自分の失敗を自分の判断だと信じ込む。私は何もしていないように見える。

 ――だが一度だけ、老練な伯爵が私を見て震えた。

 この皇子は、帝国を裏返す男になる”と。

 あの目だけは忘れられない。

 

 過去にも皇家には自分と同じ様な人間がいたと言う。今は禁書になっている、その皇子達の日記や側近達の記録。正直、読めば読むほど気持ちが重くなった。決して良い統治者ばかりではなかったかからだ。

誰にも理解されない、いや、私が本当の意味で他者を理解出来ないのか――。


 その時だった。

「……アレク兄さま……?」

か細い声が、書庫の入り口から落ちてきた。

私が顔を上げるとそこには、小さな影がひとつ。眠そうに目をこすりながら、銀髪をくしゃくしゃに乱したエルフリーデが立っていた。

「……どうしてここに」

 先日、ディアス侯爵夫妻が亡くなり、兄のレオナルトと一緒に皇家に引き取られてきたばかりだった。

 初めて見た赤子の頃から、彼女には特別な感情を抱いてはいた。守らなければ、と思わせる何か。

それが何なのかは、正直この時までは私にも分かっていなかった。弟のニコラウスへの感情とも違う、大切にしたい相手。孤独と戦うこの場所を、そんなエルフリーデには知られたくなくて思わず、いつものより硬い冷静な声で問いかける。


 エルフリーデはそんな態度の私にはお構いなしで、とことこと近づいてきて、机の上を覗き込んだ。

「こわい夢を見たの……」

 涙を堪える声。私は短く息を吐いた。

「夜の廊下は迷う。戻れなくなるぞ」

「フィンツが、ここならアレク様がいるって……」

 なるほど。あの執事め、と心の中で舌打ちする。ここは、私が孤独と戦うための静かな牢獄だ。例えエルフリーデであっても来て欲しい場所ではない。

「少しだけ、ここにいてもいい?」

 エルフリーデが机の端に手を乗せて、上を見上げる。薄く笑っているが、その瞳はまだ怯えの色を残していた。

「……好きにしなさい」

 結局、小さな彼女を突き離事など出来ずにそう答えて、私は再び資料へ視線を落とす。

本当は、誰かにこの数字と線の意味を話してみたい。この先に起きるかもしれない災禍のことを、分かってほしい。

だが、四歳の、ましてやその当事者たるエルフリーデに話して良い内容ではない。机の上には、帝国全土の地図が広げられている。各地の数字、記号、矢印。私がひとりで描いた「未来予測」の跡だ。

「……たくさん、線があるのね」

エルフリーデは地図をじっと見つめていた。

「アレク様は、とても遠くを考えているのね……」

ぽつり、と落ちた言葉に、手が止まる。

「けど、ひとりで考えてたら、さみしくなっちゃうよ?」

淡々とした口調ではない。数字の意味も、地図の記号も、エルフリーデは理解していないだろう。

 それでも── “ひとりで考えていること” そのものは、何故か正確に言い当てていた。

「さみしく……?」

自分がそんな感情を抱いていたことに気づいていなかった。

 完璧であれ。

 誰よりも先に、誰よりも高みへ。

 そのために生きてきたはずだった。

エルフリーデは机の角をぎゅっと掴んで、少しだけ胸を張る。

「さみしくなったら……私も一緒に考えるわ。むずかしいことは分からないけど、そばにいるのはできるの」

当たり前のように言ったその一言が、私の胸に刺さった。

……そばにいる

 皇太子としてでもなく。

 天才としてでもなく。

 ただの「アレクシウス」の、隣にいると言った。

誰も気づかなかった孤独を、世界で初めて、幼い少女が言葉にした。

胸の奥で、何かが音を立てて崩れた気がした。私は、ふっと笑ってしまう。

「エルに分かるとは思えないが」

「ん〜、分からないわ。でも、さみしいのは分かるの。だって……さっきのアレク様の背中、すこし寒そうだったもの」

 エルフリーデの言葉に、私は肩の力が抜けるのを感じた。

……寒そう、か

誰もそんな見方をしなかった。

誰も私の背中を、ひとりの少年としては見ていなかった。

四歳の子どもが言うにはあまりに的確で、一瞬だけ私はどうしてこの子は分かったのだろうと考えた。

だが、すぐにその疑問を追いやった。今はただ、この温もりに甘えたかった。

 その夜、書庫でエルフリーデがうとうとし始めるまで。私は一度も数字に戻らなかった。

 ただ、暖炉の火の音と、小さな寝息を聞いていた。

ああ……この子がいない世界は、きっと耐えられない

 その感覚を、当時の私は恋だとはまだ認識していない。ディアス侯爵に助け出された赤子のエルフリーデを見た時の衝撃とも違う。あの時はただ、ただ彼女が護られるべき存在だと本能が理解した。しかしこの書庫での出来後は圧倒的な護るべきものが胸に据えられたのだと、静かに理解したのだ。

 ――これが執着せずにいられようか。

 

 次の日の早朝、父に謁見の申し込みをし、皇太子特権で順番を無理やり1番に繰り上げさせた。

「……お前が我儘通すとは、珍しいな。何があった?」

「父上、今すぐに私とエルフリーデとの婚約を」

「……それはエルフリーデがの血を引いているからか?帝国で護るとは名ばかりで、お前と結婚する事であの子を囲い、利用し、飼い殺す為か?」

父は冷たく言い放った。

「陛下」

私はあえて父を陛下、と呼んだ。

オルデンブルグ帝国皇帝陛下の、あくまで1人の臣下として、父が保護している1人の少女に結婚を申し込む為に。

「エルフリーデの血にまつわる諸々の事情は関係ありません。私はエルフリーデがエルフリーデであるからこそ、彼女を心から欲しているのです。」

「そこにアルトリヒト家の血の因縁が付き纏い、彼女がそれを厭うなら、私はそれを振り払うまで」

「アルトリヒトの血を因縁と呼ぶか。の血は存在するだけでその国を豊かにし、更に紋様のある子は神の器だと言われ世界中が欲しがる存在だぞ。」

「私にはそんなもの関係ありません。私にとって、かけがいのない存在がエルフリーデであり、ただその彼女に紋様があるだけの事。」

「……そうか、お前にそう思わせるほどの存在か。」

「はい。きっとこの先にもエルフリーデ以上に私の心を動かす者が現れる事はないでしょう。」

皇帝陛下はしばらく考え込んだが、2つだけある条件を出した。

 その時エルフリーデはまだ4歳で、私は13歳。歳の差が離れすぎていると反対する貴族、アレクシウスに年頃の近い自分の娘を推して来る貴族、姫を送る事で我が帝国から優遇されたい属国からの縁談。

 父には、何もわからない幼いエルフリーデを巻き込むのだから、それくらい自分で何とかして見せろと言われた。それが1つ目の条件だ。

 また2つ目は、大人になってエルフリーデの気持ちがアレクシウスに向かない場合には、彼女の気持ちを尊重し離婚も認める事。

「確かに」――そう思い、まずは一つ目の条件に関わる者を洗い出した。そして、そのすべてを裏で潰した。

もちろん表立ってではない。秘密裏に反対してくる貴族の弱みを暴いて失脚させ、縁談を持ちかけてくる家には、丁重に断りつつ格上の別の相手をあてがった。こちらに火の粉が飛ばぬよう、むしろ恩を売る形で処理する。


当時、ゼラニア王国とはまだ国交が盛んで、王女イザベラとも茶会で顔を合わせる機会が多かった。

ゼラニアは我がオルデンブルグ帝国には到底及ばない。だが先王の代から軍事力の増強に力を入れ始めた頃で、とりわけ動きが読みにくい国でもあった。

彼女個人に興味はない。だが、親しくしておけばいずれ何かの役に立つ――そう踏んで、儀礼として贈り物は欠かさなかった。

婚約話が正式に持ち上がったわけではないらしいが、外交官の間では話題に上がっていたという。正式に打診されれば厄介だ。だからこそ、さらに慎重に、帝国が損をしない範囲で、あえて相手に少しだけ有利な形で貿易交渉を進めさせた。手綱はこちらが握ったまま、機嫌だけを取る。


それらを、たった半年で片付けた。

そして改めて、父に謁見を申し込む。


「一つ目の条件はクリアしました。二つ目は、今すぐ結論が出るものではありません。これから時間をかけて、エルフリーデに私という存在を刻み込んでいきます。――ひとまず、これで認めていただけますね? 私は、エルフリーデとの婚約を望みます」


――あのときの父の、呆れたような顔を。俺はきっと忘れない。

 私はただ、未来の帝国の安定を述べただけだ。しかし父はそれが娘を守りたい少年の必死の策であることを見抜いていた。政治とは本来こうして動くものだと、私はこの時初めて知った。

 父は呆れながらも、エルフリーデが成人する16歳になるまでは結婚は待つ様に、しかし婚約は今すぐ認めると言った。


 次の日、エルフリーデを腕に抱き、アレクシウスはエルフリーデの大好きな、庭の花迷路に2人だけで入り、迷路の真ん中にある噴水の前で跪き、エルフリーデに結婚を願った。

と言っても相手は4歳できっと意味はわかるまい。

「エルフリーデ。この間夜の書庫で、僕に言ってくれた事、覚えてる?」

「んーと、アレク兄さまが紙にたくさん文字と線を書いてた時?」

「そうだよ、その時のこと」

「覚えてるわ!アレク兄さまがさみしい時にエルが一緒にいて、そばにいるのよ!そうよね?」

「そうだね。僕はあの時とても、とても嬉しくて、フリーデの事がもっともっと大好きになったんだ」

「そうなの?エルもアレク兄さまの事大好きだからとても嬉しい!」

「フリーデ、これからもずっと僕と一緒にいてくれる?そしてもっと大きくなったら結婚してくれると嬉しいな」

「結婚?結婚ってお父様とお母様や、陛下たちみたいにずっと仲良くするの?同じベットで寝て、ほっぺにチューとか、おてて繋いだり?」

「ふふっ、そうだね」

「うん、けっこんする!エル、レオ兄さまは時々意地悪で嫌だし、ニコはまだ小さいから、アレク兄さまと結婚する」

 そう言ってエルフリーデは跪いていた私にギュッとしがみついた。

 13歳の皇太子から4歳の小さな女の子へのおままごとみたいなプロポーズ。

 婚約式はすぐに執り行われ、兄のレオナルトは少し複雑な顔をして私たちを祝福したのだった。

 それからエルフリーデが16歳になるまで、エルフリーデが他の男に目を奪われない様にしっかりと周りを牽制し、

護った。それから彼女は「帝国の至宝」と呼ばれる様に、美貌も知識も兼ね揃えた大人な女性になり、待ちに待って16歳になってようやく結婚式を挙げた。婚約してから12年。ある意味私は己を律して健全な関係を築いた。

 キスだけはエルフリーデに請われ、私も我慢できずにしたけれど。

 それから3年……それまでの12年間、色々我慢した分、もう誰にも邪魔されずに、夫婦2人の生活を楽しみたい。エルフリーデには秘密だが私の完全なる我儘でわざと避妊薬を飲んでいた事は多めに見て欲しい。

 そう考えるアレクシウスだった。


 ♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎

冬が濃くなるある日。

国営の孤児院へ続く道を、エルフリーデの一行が進んでいた。馬車で通れる道まで進み、そこからは徒歩だ。

先頭に、古参の護衛ゲルト・ハルトマン。45歳だが剣士として衰えを見せない。寡黙で表情を崩さないが、その歩幅は常にエルの半歩前で止まるよう調整されている。

エルフリーデが4歳でアレクシウスと婚約した直後から配置されて、それから15年彼女の盾であり続けた男だ。護衛の中でもエルフリーデは1番信頼を置いている。

エルフリーデは密かに「お父様ってこんな感じかしら?」と思っている。


 エルの斜め後ろには、若手のテオ・レンナー。25歳、

エルフリーデについて5年目、柔らかな物腰で侍女とも話しやすく、場の空気を和ませる役割も担っている。平民の出でエルフリーデに下町の事をたくさん教えてくれるし、侍女とお忍びで出かける時にはテオが必ず警護についてくれる。幼馴染の彼女と結婚する為に騎士として立身出世し、頑張っているらしい。


 少し後方の柱影には、新たな護衛オスカー・ヴァルター。知性派で、目の動きだけで周囲の情報を拾っていく。

女性には興味がなく、仕事にしか関心がないことで兄から太鼓判を押されている。


 そして──

人混みの中でも自然に紛れ込む位置に、ルッツ・アイゼンベルク。

ルッツの役目は、エルフリーデの視界の届く範囲での観察。皇太子妃の周囲で、誰がどのように視線を向けているか。その「違和感だけ」を拾い上げて、皇家の影とレオナルトに渡す。その視線が、城内に紛れ込んだある男を捉えた。


 質素な外套に、巡礼者の木札。

だが、彼の目は壁の装飾ではなく、警備の配置ばかりを見ている。

……あれが、巡礼者か

ルッツは足を止めない。歩きながら視界の端で男の動きを追い、その情報を心の中で整理していく。

距離、二十歩。巡礼者の視線は今、妃殿下ではなく兵の交代……。直接の脅威は今はない。だが、長く滞在させるのは危険だ

数刻以内に、この情報はレオナルトと影に届くだろう。

ルッツは黙って列の位置を調整した。


 エルフリーデは、そんな護衛たちの密かなやり取りを知らず、侍女と共に会話をしながら進む。


 雪は、まだ降りそうで降らない、どこか宙ぶらりんな空の色だった。

……アレク様、今日はまた一段と忙しそうだったわね

 最近、アレクは以前にも増して鋭く、冷静で、

 そしてどこか遠くを見ているような表情をする。


 国教会の説法。

 ゼラニアの軍再編。

 反皇太子派の沈黙。


 エルフリーデは政治の表側の情報しか知らない。それでも、夫が今、帝国全体を相手に戦っていることだけは感じ取っていた。自分は、その隣で何もできていない。

……子どもも、まだ授かれないまま


 胸が、少しだけ締めつけられる。

アレクシウスは「気にしなくていい」「今は二人の時間でいい」と笑ってくれる。その笑顔が優しいほど、逆に不安になるせいで、そんな自分が嫌になる。


 ダメ。信じなきゃ。アレク様は、私をちゃんと見てくれている。それに、春にはわたくし1人でデルミア護岸工事の視察と、周辺の孤児院と救護院に視察へ行く事が決まった、と陛下から直に依頼された。

今まで式典に参加したり、色んな事業の視察は何度もしたけれど、遠方の、しかも政治が絡む大規模工事の視察は初めてだ。これが成功すれば、皇太子妃としての実績にも、ひいては先の皇后としての良い布石になるし、わたくしにもっと自信がつくよ、とアレク様が仰った。陛下から信頼されているんだから、そう言い聞かせるように、エルフリーデは微笑みを整えた。


ここへ来るのは、もう何度目だろう。

皇太子妃として三年。帝都オルデンの孤児院はすべて巡り、子どもたちの顔も名前も覚えている。


今日は――ただ会いに来ただけ。

それを受け入れてくれるほど、この孤児院の人々はエルを信頼していた。

「妃殿下、ようこそいらっしゃいました!」

 孤児院の院長に笑顔で迎えられる。院の庭に入ると、一斉に子どもたちが駆け寄ってくる。

「エルさまー!」

「みて!これ、きのう描いたの!」

「抱っこ!」

エルはスカートを押さえ、かがんで一人ひとりを優しく受け止めた。

「久しぶりね。みんな元気にしていたかしら?」

「うん!」

「えへへへ!」

子どもたちの無邪気な声に、先程まで冷えていた胸の奥が温かくなった。

「まぁ、フェリクスまた背が伸びたのではなくて?ルーカスも、今日までに計算を覚える約束は?」

「そうだよ!僕やっとアンナを抜かしたよ!」

「計算覚えた!エル様との約束だもの!あれから院長先生にちゃんと習ったんだ」

「エル様ー、わたしレース編み作ったのよ、見てみて〜」

「うふふ、素敵なレース編みねぇ!」

スタッフが感嘆したように言う。

「妃殿下。……本当に、一人一人覚えておられるのですね」

「当然ですわ。会いに来ている子たちのお名前を忘れるなんて、そんな失礼はできませんもの」

それは、皇太子妃としての言葉というより、エルフリーデというひとりの女性の心そのものだった。


「まぁ……あなた、力が強いのね」

 乳児室で泣く赤ん坊を抱き上げたとき、小さな手が彼女の指をぎゅっと握る。

「この子は事故で両親を亡くしまして。他に身寄りが無かったものですからこちらに。」

「そうなの、両親がいないのはわたくしと同じね。」

 そうやってあやすと、赤ん坊は泣き止みきゃっきゃっと笑いだす。

 胸がちくりと疼いた。

……もし私が、アレク様との子を授かれたら……この子くらいの小ささなのかしら?

誰にも言えない小さな願いが、ふと胸の奥からこぼれ落ちそうになる。

だが、微笑みで押し込めた。

「よしよし……泣きやんでえらいのね」

抱く腕の温かさと、自分は本当に誰の娘だったのかという不安が一瞬、重なってしまう。


相談役としてその後も、読み書きの得意な子に本を渡したり、服を引っ張る子に膝を貸し、自信のない子に「あなたの絵は素敵よ」と励ます。

そうやってエルフリーデは自然に振る舞った。

食糧庫、備品倉庫の棚を見て回り、院長と共に不足はないかと確認していく。備品倉庫を確認していた時、エルフリーデはふと首を傾げた。

「……院長先生。確か春先に、古い毛布はこの冬が来る前に買い換える様に本部に届けましょう、とお話ししませんでしたか?まだ古いままの様ですけれど……」

院長は一瞬だけ言葉を詰まらせた。

「ええ……妃殿下の指示通りに申請はしました。しかし今年は、教会本部からの備品購入費が少し……。現場にはなかなか行き渡らない様で……」

「そうなのですね?教会本部への備品購入などの割り当ては例年通りと聞いていますが……。倉庫管理の書類や帳簿を帰りに預かれますか?皇城で確認してみますわ。」

院長はホッとしたように微笑む。

「妃殿下……助かります。私どもでは限界で……」

そっと子供たちの背をさすりながら、何かおかしいと引っかかる。まずは国から国教会本部へ寄付金とは別に、孤児院への備品や食料の割り当てが年に2回分けて送金されている。国教会本部はそこから先の各自孤児院へ、人数に対しての金額を分配して送っているはずで……。

有り余る程の金額ではないにしろ、寄付金と合わせれば、子供達が不自由なく暮らせる様な額を孤児院には割り当てられるはずだけれど。院長が着服している?でもこんなにわかりやすく着服するかしら?

ではその上の国教会本部が?でも帳簿をみてすぐにわかるような不正をするのも考えにくいけど……。

ひとまずは持ち帰ってアレク様に相談だわ。

 

この三年で、皇太子妃という立場を越え、

帝都の子どもたちの姉のような存在になっていた。


 孤児院の帰り際、幼い女の子が袖を引いた。

「エルさま……お嫁さんなのに、赤ちゃんいないの?」

わたくしの胸が小さく跳ねた。

だが、優しく微笑む。

「そのうち……神様がゆるしてくだされば、ね?」

「じゃあ神さまにお願いする!」

ぎゅっと手を握られ、わたくしは思わず声を立てて笑った。

「ありがとう。あなたのお願いは、とっても強そうね」

外へ出ると、護衛のゲルトとテオが馬車の前で控えていた。

「妃殿下。本日の訪問も問題ありませんでした」

一歩後ろには、追加護衛のオスカーとルッツが周囲に目を配っている。

ルッツが低い声で言う。

「巡礼者の姿が増えています。ただ……我々護衛は影部隊の領域を侵さぬよう、離れた位置からの観察にとどめます」ゲルトが短く頷く。

「影は影、護衛は護衛。それぞれの役割を守るべきだからな」

皇太子妃の護衛としてのラインを、絶対に踏み越えない。

それでも“危険の臭い”は確かに追っていた。

エルフリーデは深く息を吸い、ふと遠くの空を見上げる。

「……みんな、無事でいられますように」

誰に向けた言葉か、自分でもよく分からなかった。


冬宮に戻ったエルフリーデが、孤児院の備品が足りていない件で、帳簿を持ち帰っている事をアレクシウスに伝える。

「……そうか、それは心配だね。わかった。早急に調べるよ。実は他の孤児院に慰問に行った母上も同じ様な事を言ってたんだ。古い窓ガラスを替えるはずが、いつまで経っても古いままだ、とね。」

「そうなのですね……。孤児院に予算が降りてくるまでに誰かが着服するとしても、こんなあからさまにするでしょうか?」

「私が国教会側なら完璧に上手くやるけどな」

「アレク様なら完璧に隠蔽しそうですわ」

笑いながらそう言うと酷いな、と苦笑いしながら艶やかな銀髪を一房手に取り口付ける。

 夫婦になって3年経っても、未だこういった触れ合いにドギマギしつつ、無邪気に子どもたちとの時間を話す――それをアレクは静かに耳を傾けていた。

「みんな、可愛くて……また抱っこさせてもらいましたわ。小さな手が……すごく温かくて……」

アレクシウスの心臓が、痛いほど強く打つ。

彼女は子供がいない事を本気で悩んでいるだろう。


……エルが子を抱きしめている姿を……本気で、見たいと思ってしまう。

けれど私にはそれを声にして言えない。自分の我儘で最近まで避妊薬を服用していた事が重くのしかかる。

彼女の不安を知ってしまっているから。

代わりに、優しく微笑んで答える。

「……また行くといい。お前が望むなら、いくらでも」

だがその声は、ほんのわずか震えていた。

エルフリーデは気づかない。 

――夫の胸の内で、“父になりたい”という、誰よりも人間くさい願いが、そっと芽を出したことを。


 銀髪は祝福か、呪いか──。

 帝都の誰も、まだその意味を知らない。


 ただひとつ確かなのは。

 その光を求める手が、帝国の内外から静かに伸び始めているという事実だけだった。


 ♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎


 その夜。

遥か南方、国教会総本山バシレイオスでは、大聖堂の鐘が重く鳴り響いていた。


大司教モレノは祭壇の前でひざまずき、祈りの言葉を口にしながら、心の中では全く別のことを思っていた。

(……巡礼者は帝都に入った。器が本物であることが確かめられれば──あとは奪うだけ)

神の名の下に。

正義の看板を掲げて。


 帝国からアルトリヒトの血を取り戻すのだと、彼は本気で信じていた。鐘の音が、バシレイオスから帝都へ、そしてエルフリーデの額の奥深くへと、静かに波紋を広げていく。

まだ眠ったままの紋様が、ほんのわずかに、疼いた気がした。――三つの影が、出揃いつつあった。

ゼラニア、国教会、そして、反皇太子派。


 その中心にいるのは、銀の髪の皇太子妃。


彼女自身はまだ知らない。

自分の存在そのものが、この大陸の“火薬庫”になりつつあることを──。


 その同じ夜。

帝都南外郭の監視塔で、夜警の兵がふと息を呑んだ。霜の降りた石畳に、一本の“見慣れぬ軍靴の跡”が残されていたのだ。


帝国兵の靴でも、巡礼者のわら靴でもない。

深く刻まれた独特の靴底の紋様──

北方の軍だけが使う、硬革製の戦靴跡。

風が吹き、雪が薄く積もり始める。痕跡はゆっくりと白い闇に消えていった。

その足跡を“誰が残したか”を、この夜の帝都では、まだ誰も知らない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ