プロローグ
プロローグ
果てしなく続く白銀の大地に、赤い雫が散っていた。
「……綺麗。旦那様との初めての夜の時みたい。」
真紅の薔薇の花弁を撒いた、あの初夜のベッドの飾り付けのように——
雪の上に落ちた赤い雫は、凍てついた大地の中で異様なほど鮮やかだった。それが自分の血であったとしても、リゼットは不思議と恐怖も痛みも感じなかった。
「……ふぇ……ん……」
腕の中で、小さな赤子が弱々しく泣く。
「よかった……あなたに怪我がなくて……。お腹すいたわよね。でもごめんなさい。母さまはもう……何もしてあげられそうにないの。」
凍える指先でも、赤子だけは必死に抱きしめる。
──ああ、この子は大きくなったら、どんなに可愛いのかしら。どんな相手を連れてきて、どんな人生を歩むのかしら。
その未来を見届けることができないと分かりながらも、
リゼットは優しく微笑んだ。
フリードリヒ様と私の、大事な大事な愛の結晶。どうか、この子の未来に光を。
薄れゆく意識の中で、思いが祈りに変わる。
「もうすぐ、帝国から助けが来るわ……それまで頑張って」
襲撃で負った致命傷の痛みはもう遠く、代わりに、終わりが静かに迫る冷えだけが身体を支配していった。
「あぁ……エルフリーデ。最後に……あなたの瞳を見せて……。神に選ばれし……アルトリヒトの……証の碧い……」
願いが届いたのか、赤子は泣き止んで顔を上げた。
深い碧い瞳——
夫と同じ、旧王家の証の色。
「ふふ……やっぱり……旦那様と同じ色……。愛してるわ、エルフリーデ……。どうか、生きて……。……あぁ……フリードリヒ様……」
その身体から、ふっと力が抜け落ちた。
その瞬間、静寂を切り裂くように、雪原へ重い軍靴の音が響く。
「リゼット様!」
雪原に道標の様に散った赤い血を辿った先に、リゼットが倒れていた。
「……く……遅かったか……!」
黒い軍装に身を包んだ男——
オルデンブルグ帝国大将軍、ディアス侯爵が駆け寄った。
息絶えてもなお、宝物の様にリゼットの腕の中で護られていた赤子は、抱き上げると驚くほど軽かったが、その重みは、先日産まれてすぐに逝った自身の娘と重なるものがあった。
ぱちりと丸い大きな瞳と目が合う。その赤子の深い碧の瞳。これは——
「……フリードリヒと、同じ碧い瞳だ……」
親友の最期を悟ったように、侯爵は目を伏せた。
その瞬間——
赤子の額が、淡い金色の光に包まれる。
現れたのは、雪明かりに輝く古い紋様。
「……アルトリヒト旧王家の紋……!これは……。
急げ……陛下の元へ連れ帰らねばならん!」
背後で帝国騎士たちが森へ散り、追撃を完全に断ち切る。
侯爵は赤子を抱きしめたまま立ち上がり、帝国軍総司令官の声を轟かせた。
「撤収する!帝都オルデンへ——全速で向かう!!」
雪は静かに降り続ける。
母の祈りと、王家の紋と、宿命を抱いて。
大陸の運命は、この瞬間から静かに変わり始めていた。




