拡声器付きの動物園と、静かな9割
「インターネットは巨大な拡声器付きの動物園だ」と先輩は言った。
手元のフライドポテトには手を付けず、ストローの先を弄びながら。
深夜二時、ファミレスの店内は妙に静かで、遠くの席で店員がカトラリーを片付ける「カチャカチャ」という音だけが響いていた。
「動物園、ですか」と僕は聞き返す。
さっきまでスマホの画面を見ながら「世の中、怒ってる人ばかりで嫌になりますよ。もう疲れます」と愚痴をこぼしていたところだった。
「ああ。考えてみろ。檻の中で奇声を上げたり、ガラスを叩いて暴れてる動物は、実は全体のほんの1部だ。1割にも満たない。
だが、そいつらはデカい拡声器を持ってるから、入園者の耳にはその声だけが響くんだ。
『この動物園はなんてうるさいんだ、なんて荒れてるんだ』と客は思う。
でも実際は、ほとんどの9割の動物は、奥の日陰で寝そべってるか、黙々と草を食べてる。静かなもんだ」
先輩の比喩はいつも少しずれている気がするけれど、言いたいことは分かった。
そして、先輩はテーブルの上のグラスを指差した。
「1対9対90の法則、っていうのがあるらしい」
先輩はポテトを1本摘まんだ。
「ネットの世界の話だ。実際に声を上げるやつが1パーセント。
それに『いいね』とか言って燃料を投下する野次馬が9パーセント。
残りの90パーセントは、ただ見てるだけ。ROM専ってやつだ」
「たったの1パーセントですか」僕は驚きでポテトを食べるのを忘れた。
「そう。お前がスマホで見て『みんなが怒ってる』と感じているその『みんな』は、クラスで言えば40人中の1人か二人。そいつらが、巨大なスピーカーを持って校庭の真ん中で1日中叫んでる。
残りの38人は、教室で弁当食ったり、早弁したり、居眠りしてる」
「早弁と居眠りは同じようなものですけどね」
「細かいことはいいんだよ」先輩は笑った。
「問題は、動物園の『警備員』もグルだということだ。
警備員、つまりSNSのアルゴリズムは、静かなカピバラの寝息じゃ儲からない。
怒鳴り声や喧嘩、熱狂的な愛憎、つまり『強い感情』こそが客を惹きつけると知ってるから、1パーセントの声を増幅させて、お前の耳元に直接届けるんだ」
「アルゴリズムが、わざと僕らを怒らせてる?」
「そういうことだ。だから、ネットの『世論』なんてのは、濃縮還元されたジュースみたいなもんだ。果汁百パーセントに見えるが、実際には、とんでもなく強い感情を持った少数の人間が、煮詰められて詰め込まれてる。
その原料は怒りだけじゃない。
『断罪したい』っていう欲望とか、『自分が正しいと証明したい』っていう自己満足とか、そういうドロドロした感情も入ってる」
僕は窓の外を見た。
国道を走るトラックのヘッドライトが流れていく。
誰も怒って走っているようには見えない。
「でも現実じゃ、ネットであれほど叩かれてたコンビニの新商品は売り切れてたし、酷評されてた映画館は満員だった。
選挙の結果だって、タイムラインの予想とは全然違いましたよ。
あれは、静かな90パーセントが動いたってことですか」
「大正解だ。それがその90パーセントの『静かな多数派』の仕業だよ」
先輩は断言する。
「彼らはネットで『正しさ』や『イデオロギー』を議論するよりも、明日の朝ごはんのパンが美味いかどうかとか、週末に誰と遊ぶかの方を大事にしてる。ネットで炎上してる店でも、自分にとって便利なら使うし、面白そうなら見る。
彼らは冷めてるわけじゃない。ただ、拡声器を持ってないだけだ」
「そして、賢い」
「ああ、賢いんだよ。
『変な絡まれ方をするのは面倒だ』とか『自分の言葉が誰かを傷つけて、それが回り回って自分に返ってくるかもしれない』っていうリスクを肌で感じて、あえて沈黙を選んでる。
彼らは知ってるんだ。世の中には『白黒はっきりしないグレーゾーン』が圧倒的に多いってことを。
1パーセントの叫び声は、全てを白か黒かに分けようとするけど、
90パーセントは『まあ、どちらにも良いところはあるし、完璧じゃなくても困らない』って、曖昧なグレーゾーンを許容してるんだ」
先輩はストローで氷をかき混ぜながら、付け加えた。
「ネットの声は、理想や正義を語る。『こうあるべきだ』ってな。
でも、現実の人々は、習慣と利便性を大切にする。『これで十分だ』ってな。
この『べき論』と『で十分論』のズレが、あの動物園の檻と、外の世界の境界線なんだ」先輩はそう言って、冷めたポテトを口に放り込んだ。
「だから、もしお前がスマホを見て疲れたら、こう思えばいい。
『これはクラスの1人が騒いでるだけだ』ってな。
あるいは、動物園の奥で昼寝してるカピバラのことを想像しろ。
世界の大半は、そっち側で、平和なグレーゾーンの中で回ってるんだ」
「カピバラですか」
「悪くないだろ。平和で。拡声器なんか無くても、世界は静かに動いてるってことだ」伝票を掴んで立ち上がった先輩の背中は、ネットのタイムラインで見るどんな勇ましい言葉よりも、なんだか頼もしく見えた。
僕は慌てて水を飲み干し、その背中を追った。




