著作権という巨大な風船を割る針は
「著作権」って、なんだか大きな風船を膨らませるための空気みたいなものだと、僕はときどき思う。
もともとは、作品という名の宝物が、みんなが気持ちよく遊べる広大な空間を作るための、親切な設計図である「ベルヌ条約」という灯火だったはずだ。
その空間(パブリックドメインと呼ぶ人もいる)は、過去の物語や音楽を自由に手に取り、それを材料にして新しいものを作る遊び場だった。
文化というものは、誰かの真似から始まり、それを少しずつズラしていくことで前進する。
つまり、遊び場は新しい創作のための燃料補給基地でもあったのだ。
けれど、どうやらその風船に最近、やけに空気が過剰に送り込まれているらしい。
その空気を入れているのは、大きなポンプだ。
彼らは自分の利益のために「保護期間」という名の空気を入れ続け、風船の境界線はどんどん広がる。
この大きなポンプがやっていることは、単に風船を膨らませるだけではない。
それは、まるで文化の貯水池の底に穴を開けないように、セメントで固めているようなものだ。
本当は、著作権が切れて「社会の共有財産」になった古い作品は、水のように自由に流れ出て、みんなの創作意欲を潤すはずだった。
だが、保護期間が長くなるほど、ポンプの圧力が強くなるほど、その水は貯水池の中で澱み、誰も手がつけられなくなる。
「創作者の死後七十年」なんて、生きている人間にはほとんど関係のない、気の遠くなるような数字だ。
これは、亡くなった芸術家のためというより、その芸術家が作った作品を抱え込んでいる巨大な組織の通帳に、数字を書き足し続けるための儀式のように見える。
彼らは、過去の作品という名の「種」を抱え込み、それが勝手に芽吹いて、自分たちの管理下にない新しい森を作るのを極端に恐れている。
その結果、風船はパンパンに膨らみ、僕らが動ける自由な空間は壁に囲まれて狭くなる。
あれ、おかしいな。空気は空間を広げるんじゃなくて、僕らの自由を制限する、息苦しい圧力になってないか?
さらに厄介なのが、インターネットという名の、誰もが探偵になれる監視社会だ。
僕らは今、「正義」という名の小さな針を片手に、その風船の表面を隅々まで照らし出すことができる。
少しでも「似ている」と感じれば、それは即座に「盗作だ」「パクリだ」と大声で叫ばれ、みんなが一斉に針を突き立てる。
著作権法なんていう難しい法律は誰も気にしない。
誰もが自分の感情という名の小さな裁判官になって、作品が合法かどうかではなく、「僕のモラルに反するかどうか」で裁きを下す。
この「大衆バイアス」という名の猛烈な風は、本来なら許されるはずの「アイデアの流用」や「ちょっとした参考」という、創作の種を根こそぎ吹き飛ばしてしまう。
プロのクリエイターでさえ、ちょっとした勘違いやツールの使い方のミスで、この「針の群衆」に囲まれ、社会的制裁という名の「私刑」を受ける。
裁判所の判決より、ネットの炎上の方が圧倒的に速く、容赦がない。
その結果、何が起きるか。
誰もが互いを疑い、安全で無難なものしか作れなくなる。
つまり、僕らは「アイデアはみんなのものだ!」と声高に叫びながら、結局は自分の感情の暴走という名の針を投げて、風船(創作の自由な空間)を自ら破裂させようとしているのだ。
そして、破裂した空間は、僕たち自身の首を締める見えない鎖になっている。
鎖を長くしたポンプも問題だが、その針を使って、みんなが息苦しくなるゲームを始めているのは、他ならぬ僕ら自身だ。
だから、一度立ち止まって、感情のスイッチを切る。
本当に大切なのは、誰かを叩く正義感よりも、この世界で新しい面白いものが生まれるための、静かで広々とした空気を守ること。
それが、僕らの自由を守る、唯一の方法なのかもしれない。




