第3話 「祈る者」
次の車両に足を踏み入れた瞬間、少年は思わず息を呑んだ。
そこは、薄闇の中に無数のろうそくが浮かぶ、不思議な空間だった。
淡い橙色の光が、ゆっくりと上下に揺れながら、まるで星々のように漂っている。
天井も、壁も、見えない。ただ、光が点々と浮かんでいるばかりだった。
その中央付近には、巨大な像が鎮座していた。仏のような姿。けれど、その顔は何も刻まれていない。
表情のない大仏――いや、何かを封じた「空洞」そのもののようだった。
すべての乗客がその像の方を向き、正座し、両手を合わせていた。
祈りをささげる声は一言もない。ただ静かに、呼吸だけが響く。
その静寂は、音よりも重く、少年の心臓をゆっくりと締めつけていく。
「……すごい。ここも、まったく違う世界だ。」
車両を移動するたび、景色も雰囲気も一変する。
少年は透明のチップを手の中で弄びながら、周囲を興味深そうに見回していた。
この列車の中に、いくつの世界が詰まっているのだろう――そんな純粋な好奇心が、彼を前へと進ませていた。
その時だった。
彼の指先が、ふと一つのろうそくに触れた。
軽い抵抗感のあと、炎が一度ふるえ、ふっと消えた。
次の瞬間、ろうそくは浮力を失い、ゆっくりと下へ――ポトリ、と落ちた。
その音は、ありえないほど大きく響いた気がした。
祈っていた人々の動きが止まる。
やがて、一斉にこちらを振り向いた。
「――――」
誰も何も言わない。
だが、全員の目がうつろだった。
深い井戸の底を覗いたような、色のない瞳。
「神を、冒涜した……」
「赦されぬ……赦されぬ……」
どこからともなく、囁き声が響く。
次の瞬間、祈っていた人々はゆっくりと立ち上がり、少年の方へ歩き出した。
「……!」
少年は反射的に後ずさる。
腕を掴まれた。冷たい。
無理やり振りほどくと、手のひらに白い痕が残った。
「やめて! ぼくは――」
叫ぶ間もなく、数十人の人影が押し寄せる。
四方を囲まれ、逃げ道がなくなった。
視界の端に連結扉が見えるが、そこへたどり着くのはもう不可能だった。
そのとき、少年は咄嗟に透明チップを取り出した。
女性からもらった、唯一の頼みの綱。
――今使うしかない。
端末の差込口にチップを滑り込ませた瞬間、耳をつんざくような音が響いた。
車両全体が震えた。
ろうそくの光が一斉に消える。
そして――景色が変わった。
そこは、普通の電車の車内だった。
シートが並び、天井には蛍光灯。窓の外には真っ暗な宇宙が流れていた。
祈っていた人々が、一斉に目を見開いた。
「……神が、消えた」
「我らの役目は……終わったのだ」
「終焉が、来た……」
彼らはゆっくりと立ち上がり、並んで車両の連結部へと向かう。
少年は呆然と、その背中を見送った。
やがて一人が、ドア横の赤いボタンを押した。
ピッ――という電子音のあと、上の案内板が切り替わる。
《死者出口》
扉が音を立てて開いた。
その先には、光すら吸い込むような漆黒の闇が広がっていた。
少年は知っていた。
“死者出口”――寿命を終えた者、あるいは病で動けなくなった者を、処理するための扉。
生きたまま入ればどうなるのか、誰も知らない。
祈っていた人々は、ひとり、またひとりと、その闇の中へ消えていった。
泣く者も、叫ぶ者もいない。
静かに、まるで安堵したように。
最後の一人が闇に溶けた瞬間、扉が音もなく閉じた。
車両には、少年ひとりだけが残された。
次の瞬間、列車が激しく揺れた。
「な、なんだ!?」
床が波のようにうねる。天井から火花が散る。
このままでは――崩壊する。
少年は慌ててドアへ走った。
赤いボタンを押すと、《通常出入口》の文字に戻る。
扉が開くと同時に、少年はその車両を飛び出した。
――その直後だった。
背後から轟音。
振り向くと、さっきの車両が連結部分を外し、まるで何かに吸い込まれるように暗闇へと飛び去っていった。
一瞬で、消えた。
代わりに、後方から車内販売車両が音を立てて連結される。
呆然と立ち尽くす少年の背後から、声がした。
「なにぼーっとしてんだい。早く行きな。」
声の主は、車内販売の店員だった。
エプロンの端が焦げている。だが、口調はどこか落ち着いていた。
「この車両もすぐ飛ばされるよ。向こうの住人が消えたら、帳尻を合わせるためにね。」
「帳尻……?」
「そうさ。ひとつの車両が“空”になると、そのバランスを取るために、隣の二つ――つまり、仕事場と販売車両も一緒に消える仕組みさ」
「そんな……!」
「他人のことは気にしなさんな。」
店員は少年の背を軽く押した。
「いいから行くんだよ、小さな旅人さん」
少年は言葉を失いながらも、頷いた。
その瞳に映るのは、なおも長く続く、終わりの見えない通路。
車内販売員の声が背後で小さく響いた。
「……出口は、いつも“誰かが去ったあと”にしか現れないんだ。」
少年は振り返らなかった。
ただ前を向き、次の車両へと歩き出した。
――その背中を、炎のような警告灯が淡く照らしていた。




