序章 進駐
夜明け前の霧が、博多湾を覆っていた。鈍色に濡れた港のコンクリートに、無数の軍靴が小さく音を立てて着地する。人民解放軍第38機械化師団――先鋒部隊。濃緑の装甲車が静かに船腹から降りると、その砲塔は既に福岡市街地に向けて定位置を定めていた。
「速やかに確保せよ。抵抗の気配はない。」
通信が交わされる。海岸通に面した商業施設にはまだ灯りが残っていたが、人の気配はない。ひとりの兵士が、歩道に転がる新聞紙を拾い上げる。そこには昨日の日付――令和20年1月2日。そして見出しにはこうあった。
“皇室、消失。政府沈黙。東京、祈りと混乱。”
兵士の肩越しに、降り立った政治部隊の女官が顔を覗かせる。長い黒髪と高い襟元に、見慣れぬ紋章の刺繍があった。彼女は小さな台に立ち、報道陣のレンズが一斉に向けられたのを確認すると、静かに口を開いた。
「諸君。我々は新たな時代の始まりに立ち会っている。今日未明、満州皇統の血を引く正当なる後継が、我が国の支援を得て、日本国天皇として即位された。今、福岡は天朝の玉座を迎えるにふさわしい新首都となる。」
兵士たちは整列したまま沈黙し、市民の誰もが窓越しにその姿を見つめていた。数十年守り続けてきた国の形が、音もなくほどけ始めていた。
やがて一人の若者が小走りで建物から飛び出し、路地の壁にスプレーを走らせた。
「九州は、日本だ」
その言葉はすぐに塗りつぶされたが、通りの空気は確かに変わった。進駐は、ただの軍事行動ではなく――時代の裂け目だった。そして、反撃はまだ沈黙の中に潜んでいた。