第2話 動き出す波紋、貴族たちの思惑
レオナルトは王の執務室を後にし、石畳の廊下を静かに歩いていた。
窓の外には、朝陽に照らされた王都オルテールの街並みが広がっている。
「若き世代が、新たな知を手にし、過去の過ちを超えていく未来を――君たちに託したい」
王の言葉が胸の内に澱のように残っていた。
(……託された責任の重さ。だが、それが誇りにもなる)
視線を巡らせれば、王城の回廊に仕える侍女や従者たちが忙しなく動いている。
普段と変わらぬ朝の営み。だが、レオナルトの歩む先だけは、確かに新たな道を開いていた。
そんな折、柱の陰からぬるりと現れた影がひとつ。
「やあ、レオナルト様。まさか、あの部屋から出てくるとは」
軽口を叩くその声――栗色の髪に銀の飾り紐を揺らす、王宮侍従クリストフである。
その口元には、相も変わらず含み笑いが浮かんでいた。
「……どこにでもいるな、お前は」
「それが仕事なんでね。風向きを読むには、風の吹く場所にいなくてはならない。それに、今日の“気配”はちょっと特別ですから」
レオナルトは足を止め、静かに問い返す。
「何か、起きているのか?」
「正確には、“起きつつある”。貴族たちの間では、今朝の会議に“王命で騎士候補生が出席する”という噂が広まり始めてます。さて、それって――誰のことでしょうね?」
クリストフはおどけた口調で言うが、その瞳の奥は決して笑っていなかった。
王都に流れる政治の水脈を読む者の視線だ。
「……王の命であれば、やるまでだ」
「良い返事。ならもう一つ。あの会議室にいるのは、“話し合い”が目的じゃない。“自分が話したことだけが議事録に残れば満足”な連中だ」
「……承知してる。けど、引かない。引いてはいけない場面だからな」
「ほう、それを自覚しているなら、大したものです。私としても、“若き声”がこの王国に新しい流れを生み出すことに期待していますよ、レオナルト様」
軽く一礼し、クリストフは去っていった。
残されたレオナルトは深く息をつき、小会議室へと続く石段を登り始めた。
王城西翼の中層――政治中枢の一角にある小会議室。
そこは普段、閣僚級の貴族たちが密事を交わす場として用いられる。
レオナルトは厚い絨毯が敷かれた静謐な廊下を進み、会議室の前で立ち止まった。
扉は閉ざされている。内側からは微かに声が漏れていた。
「……魔導工学だと? 絵空事を語るな」
「若造の幻想に踊らされて国が滅ぶぞ」
貴族特有の、響くようで抑えた言い争い。そのどれもが、すでに険しさを孕んでいた。
(……この中へ、入るのか)
剣の稽古とは違う。ここでの一言が、国の進路を左右するかもしれない。
手のひらに、薄く汗が滲んでいた。
(だが俺は、王の言葉を背負っている。引けるはずがない)
控えていた侍従が一歩進み出て、軽く一礼した。
「アヴィネル殿。定刻となりました。どうぞ――」
頷き返し、レオナルトは重厚な扉に手をかけた。
鋳鉄の取っ手が冷たく、金属のような沈黙を伝えてくる。
深呼吸一つ。扉を押し開ける。
眼前に広がったのは、沈着と対立が同居する空間だった。
中央には楕円形の長卓。椅子はすでにすべて埋まっていた。
――そのどれもが、アーレンク王国の政を担う者たち。
室内に一歩足を踏み入れると、空気の質が変わった。
まるで濃密な霧の中に入り込んだような、圧があった。
レオナルトは、目の前の楕円卓に目をやる。
その周囲に座す者たちの顔ぶれ――王国の権力を担う者たちだった。
最奥、正面の席には――クロイツ公爵。
王政の守旧派の象徴とも言える男。
紫の外套に金糸の徽章。表情はほとんど動かず、まるで彫像のようだ。
だが、その沈黙こそが威圧であり、歴戦の政治家としての風格を纏っている。
クロイツの隣には、傷だらけの手を膝に置く壮年の男――ロデル辺境伯。
戦場育ちの軍貴族で、剣よりも先に血が動くタイプに見える。
噂では、十年前の内乱でも最前線にいたという。
卓の左手側、深い黒のドレスに身を包んだ女性がひとり。
知的な光を宿す瞳と、翳りを感じさせる雰囲気。エルメリア女侯爵。
どちらの派閥にも属さず、審美と理性を重んじる中立貴族として知られる。
向かいには、整えられた栗毛の髪、銀縁の眼鏡が印象的な青年――バルニエ男爵。
歳はレオナルトとさほど変わらぬように見えるが、その眼差しには冷静な熱意があった。
筆頭改革派の一人として、草の根の民意を拾い上げていると聞く。
最後に、椅子の肘掛けに体重を預けて座る太った男――ヴィラン司政官。
満腹そうな笑みの奥に、どこか商人の目が光っている。
中立を装いながら、風向きを誰よりも早く読むタイプだ。
(……これが、“国の重み”か)
レオナルトは胸の内で呟く。
若者の入り込む隙間など、本来はどこにもない。
だが、ここに来いと命じたのは――あの王だ。
「――王命によって、今回の協議に臨席いたします。近衛騎士団候補生、レオナルト・アヴィネルです」
静まり返る会議室。
レオナルトの名乗りに、ざわりと空気が揺れた。
その中心、クロイツ公爵がわずかに顎を上げる。目元には嘲笑にも似た、だが何かを試すような光。
「騎士候補生……ふむ。王もお若くなられたものだ。使節団に候補生とは、次は見習い司祭でも外交文書に署名するのだろうか?」
その場に笑いはなかった。ただ、何人かが視線を伏せた。
ロデル辺境伯が低く呟く。
「この期に及んで、共和国に膝を折るなど……そもそも技術協定とやらが、国を守れる保証はあるのか?」
「保証が欲しいなら、何も動かないことが最も確実でしょう」
言葉を返したのは、若きバルニエ男爵だった。レオナルトよりも少し年長だが、言葉には堂々たる重みがある。
「だが、その結果として何が起きるか。――昨日までの正義は、今日には遅れになるのです。民は変化を望んでいます。“技術”という新しい火が、王都に灯っていることを、我々は認めねばならない」
クロイツ公爵が鼻を鳴らした。
「民意を盾にするな。技術の火は、国を照らすだけでなく焼き尽くす。それを制御する知恵が、今の若造どもにあるとは到底思えんな」
全員の視線が、再びレオナルトへと向けられる。
緊張が指先をかすめる。手元の書簡に走らせたメモが、震えで微かに揺れた。
(言葉を……選べ。焦るな。王は“等身大の声”を求めている)
静かに立ち上がる。
「私は学者でも、政治家でもありません。ですが、魔導工学が人を救う可能性があると、私は信じています」
その声は、大きくはない。だが、揺るぎがなかった。
「昨夜、私は資料庫で“エーテル理論の初期定式”を読んでいました。その理論では、“意志を持たぬ魔力”が、安定して供給されれば、無尽の動力となる可能性があると書かれていた」
ヴィラン司政官が興味深げに頷く。
「おやおや……若いのに、なかなか専門的な話を。誰に教わった?」
「誰にも。私はただ、知りたかっただけです。なぜ、それが脅威としてしか語られないのか。なぜ、“希望”ではないのか」
クロイツ公爵が椅子に背を預ける。
「理想だな。だが、若さはときに毒にもなる。お前は“知識”を語ったが、それは“経験”を知らぬ者の戯言に過ぎん」
重く、場が沈む。
そのとき――
「では、その経験とやらで、私たちはどれだけ国を変えられましたか?」
バルニエが再び言葉を放つ。
その口調はあくまで冷静だったが、確かな怒りと誇りを帯びていた。
「クロイツ公。貴族としての務めは、“変わらぬ価値”を守ることです。だがそれは、“変化を拒むこと”とは違うはずだ。アヴィネル殿は未熟かもしれない。しかし、未熟であることを恐れず、知ろうとした。それを笑う権利は、我々にはない」
再び沈黙が落ちる。
やがて、エルメリア女侯爵が口を開いた。
「……若者の声が、ようやくこの部屋に届いたわね。王がこの場に彼を送った理由も、少しだけ見えた気がするわ」
その一言が、場の空気を和らげた。
クロイツは眉を寄せたまま黙していたが、やがてゆるやかに頷いた。
「よかろう。議題を戻すとしよう。……“過去”を守る者として、“未来”を語る者と、向き合うことも必要かもしれんな」
重厚な扉が閉まる音が、低く部屋に響いた。
ゆったりと椅子に背を預けたまま、クロイツ公爵は指先で机を軽く叩く。その音は、まるで鐘の音のように静寂を切り裂き、口を開いた。
「さて……陛下の意図は伺った。だが、それでも私は問わざるを得ん」
低く、そして、よく通る声だった。それは激しさではなく、“正論の装い”を纏った冷たい刃。
「この場は、我が王国の未来と、王政の礎を論じる場だ。そこで、騎士団候補生が“意見”を述べることに、何の意味があるのか」
無言の圧が、レオナルトに向かって押し寄せる。
(……これが、守旧の重み)
「軍歴もなければ、議場の経験もない。机上の書に親しんだ程度で、“魔導工学”を語られてはたまらんな」
さらに、ロデル辺境伯が続いた。
「火器とは、刃物より無情なものだ。制御できなければ、民も騎士も等しく焼き尽くされる。――それを、若造が語るのか?」
揺さぶる言葉に、他の貴族たちが口元を押さえつつも、その視線は試すようにレオナルトへ注がれる。
レオナルトは胸の内に王の言葉を思い出し、息を整えた。
だが、そのとき――先に声を発したのは、バルニエ男爵だった。
「では、我々は何年待てば、“若者が意見してもよい年齢”になるのでしょうか?」
静かながらも張り詰めた声。その一言に、場の空気がわずかに変わった。
クロイツがわずかに眉を動かす。
「……若さゆえの性急さか。だが、理想を語るには、まず現実を学ばねばなるまい」
「ええ、ですから彼は学ぼうとしている。それこそ、誰に命じられるでもなく、知識を貪っている。“現実”から目を背けているのは、むしろ“変化”を恐れる我々の側では?」
バルニエの視線は真っ直ぐだった。
「候補生であるアヴィネル殿の知識は、私も一部確認させていただきました。共和国で最新とされるエーテル安定式にも通じており、密輸経路や市街地火災との関連性にも言及している。――表面的な若さで一刀両断するには、惜しい人材です」
ロデルが鼻を鳴らす。
「ふん、学識は所詮紙の上。火器を扱うとは、そういうことではない」
その瞬間――
「ですが、その“紙の上”の知識で、国が守れる可能性があるなら、否定する理由にはなりません」
レオナルト自身が応じた。
会議室に、静寂が落ちる。
「私は、未熟です。だからこそ、知ろうとするんです。今までの方法で足りていないなら、“新しい何か”に希望を持たずにはいられない」
彼の声は決して高ぶらず、しかし揺るぎなかった。
ロデル辺境伯が身を乗り出した。傷だらけの指が卓をとんと叩き、その声音は低くも刺すようだった。
「魔導火器は、確かに威力もある。だが、それは“人を殺すために最適化された技術”だ。戦の現場で何より恐ろしいのは、“効率”で命が奪われること。そんなものが、国を守ると言えるか?」
レオナルトは、真っ直ぐその言葉を受け止めた。
「……私も、魔導火器の全てを肯定しているわけではありません。ですが、密輸や模倣品が流通している現状を放置すれば、我々ではなく“裏の者たち”がその技術を制することになります」
「ならば、王国が火に油を注ぐ必要もあるまい。技術など、知らぬままの方が平和というものだ」
そう割って入ったのは、ヴィラン司政官だった。
肘掛けにふんぞり返ったまま、仏頂面で茶を啜りつつ言葉を重ねる。
「仮に正式な協定を結んでも、共和国は技術の“肝”を明かさぬでしょうな。こちらは利用され、内政は混乱し、魔獣の次は技術で国が壊れる。そんな未来の、どこに投資する価値があるんです?」
その言い回しに、バルニエが眉をひそめる。
「あなた方は“未知”を恐れるあまり、“無知”に甘んじていませんか?火が恐ろしいからといって、闇の中で手探りを続けるのが“賢明”だとは、私には思えません」
ヴィランは皮肉げに笑った。
「君ら改革派は、すぐそうやって詩人みたいな口を利く。だが現実ってのはね、そんな美文では動かんのですよ」
「現実を語るなら、現実を知る努力から始めるべきです」
静かに、だが鋭く切り込んだのはレオナルトだった。
「今この瞬間にも、辺境では魔導火器が使われ、民間人に被害が出ている。密造された武器に国境はありません。無関心でいることが、一番のリスクだと思います」
「なるほど……では、聞こう。君はその技術をどう制御するつもりだ?」
クロイツがようやく再び口を開いた。
「火器の構造を学べば、心まで制御できるとでも?“学ぶ”ことと“扱える”ことの間には、大地と奈落ほどの差がある。技術が進めば、封じられてきた禁忌に触れる者も出てくるだろう」
沈黙が落ちる。
レオナルトは、ふっと目を閉じて、少し間を置いた。
「……それでも、私は学びたい。制御することが不可能だからといって、無知を選ぶ理由にはなりません。その先にあるものが、“過ち”でないと信じたいからです」
バルニエが微笑む。
そして、その視線の先――
「ようやく、静まったわね」
エルメリア女侯爵が声を上げた。まるで、剣戟の終わりに静かに鞘に納めるような声音だった。
「……議論が熱を帯びるのは結構。けれど、熱が過ぎると視野が狭くなる。皆様、忘れていないでしょうね?“使節団の派遣”が本件の議題であり、“魔導火器の全面採用”を是とする話ではないのですよ」
彼女の言葉は、場に水を打ったように静けさをもたらした。
「私はこの若者の言葉に、無垢な理想と、それに伴う恐れの両方を感じました。それは、私たちの誰よりも“素直な声”だと思います。そして……そういう声こそが、風を変えるものなのです」
視線がレオナルトに向けられる。
彼は立ったまま、小さく、だが確かな声で応えた。
「私の発言が、皆さまの記憶に一つの石を投げられたなら――それで十分です。いつかその波紋が、形になることを信じています」
銀の砂時計が音もなく砂を落とし続けている。
やがて、クロイツ公爵が重々しく椅子を引いた。
「……この場は、あくまで陛下のご意向を受けた非公式の協議の場。 ゆえに結論はここで定まるものではない。だが、発された言葉には責任が伴う。 我らはそれを記憶にとどめ、しかるべき場にて、改めて論ずるとしよう」
ロデル辺境伯も立ち上がる。
「王命とあらば、従う。……だが、我々が持ち帰るべきは、“懸念”という名の火種だ」
ヴィラン司政官は軽く肩をすくめ、茶器を片づけながら呟く。
「まあ、風が吹くのは分かってましたからね。どこへ流れるかは、もう少し様子を見ましょう」
バルニエ男爵は椅子の背に手をかけながら、ふと笑った。
「君の言葉は、思った以上に響いたよ。――“表の会議”では言えないことほど、こういう場で種を蒔く意味がある。不安を持って語った言葉ほど、人を動かす。君はそれを体現した」
最後に残ったのは、エルメリア女侯爵だった。彼女は小さな書簡の束を整理しながら、微笑を浮かべていた。
「レオナルト・アヴィネル。――言葉の重みを知っているのね」
レオナルトは、戸惑いながらも頭を下げた。
「光栄です。けれど、皆さんが向き合ってくださったからです」
「ふふ……謙虚さは美徳。けれど、時にはそれが“罪”になることもあるわ。
自分の言葉に、もっと誇りを持ちなさい。そうしないと、強者の声ばかりが残るから」
彼女は小さな書簡の束を整理しながら、微笑を浮かべていた。
エルメリア女侯爵が書簡を整理し、立ち去ろうとしたそのとき、ふと歩みを止めた。
「――そうそう、一つお願いがあるの」
「……私に、ですか?」
「ええ。使節団が出発するまでに、少しだけ時間があるでしょう?
もしよければ、私の屋敷を訪ねてくださらない? いくつか、お見せしたいものがあるの。あなたになら、きっと意味が伝わると思う」
「……畏まりました。お招き、光栄に存じます」
「ふふ、それじゃあ。次に会うときは、少し“私的な顔”でね」
エルメリアもまた、音もなく去っていった。
レオナルトは、ひとり残された会議室で深く息を吐いた。
(……これが、“言葉で戦う”ということか)
剣とは違う疲労感が、背中を包む。
扉を開けると、廊下の先に懐かしい姿が立っていた。
「ご苦労だったな、レオナルト」
アギュステ団長だった。
「お前がこの場に立った意味は……王も私も、確信を持っていた。 その答えを見せてくれたようだな」
「……ありがとうございます、団長」
「次は、実行の場だ。“使節団”の準備は、既に動き出している」
その背に続きながら、レオナルトは静かに誓った。
(必ず……結果を残す)
王都の石造りの廊下に、再び彼の足音が響き始めた。