落語声劇「佐野山」
落語声劇「佐野山」
台本化:霧夜シオン@吟醸亭喃咄
所要時間:約30分
必要演者数:6名
(0:0:6)
※当台本は落語を声劇台本として書き起こしたものです。
よって性別は全て不問とさせていただきます。
(創作落語や合作などの落語声劇台本はその限りではありません。)
※当台本は元となった落語を声劇として成立させるために大筋は元の作品
に沿っていますが、セリフの追加及び改変が随所にあります。
それでも良い方は演じてみていただければ幸いです。
●登場人物
佐野山:小兵(体格が小柄)だが十両筆頭。親孝行で有名。
母親が大病を患ったため、その治療に自分の食費まで回してしま
い、結果勝負で勝てずに黒星続きで九連敗を喫してしまう。
谷風:大横綱、谷風梶之助。
人情を解し、品格抜群と称される。
長い大相撲の歴史の中でも屈指の強豪とされる力量を誇り、文献な
どから初代の横綱と扱われている。現在の宮城県仙台市の出身。
幼少から怪力で、七人がかりで持ち上げる天秤石をたった一人で
持ち上げたと伝わる。
佐野山の実力にそぐわない散々な戦績を訝しんでいたが、佐野山の
母を治療していた医者から話を聞いた事で、何とか力を貸してやり
たいと思案する。
医者:佐野山の母を治療している。
佐野山の経済状況が厳しい事を知り、支払いは後でも良いと言うが
聞き入れない。谷風と会話した際にその話を出す。
木村庄之助:行司の最高位。
相撲番付に例えると、東の横綱に相当する。
ちなみに西の横綱相当の行司は式守伊之助。
現代にいたるまでその名は受け継がれている。
親方:谷風の親方。
谷風から千秋楽の対戦相手を佐野山に変えて欲しいと頼まれ、
了承する。
伊丹屋:佐野山の贔屓・ファン。戦績の振るわない佐野山を元気づけるべ
く、谷風に勝ったら千両の祝儀を出そうと約束する。
町民1:江戸っ子その1。
町民2:江戸っ子その2。
町民3:江戸っ子その3。
語り:雰囲気を大事に。
●配役例
佐野山:
谷風:
伊丹屋・町民3:
親方・町民1:
木村・町民2:
語り・医者:
※枕は佐野山役以外の誰かが適宜に兼ねてください。
枕:我が国日本の国技、相撲。
その起源は古事記にまで書かれているほど古く、歴史あるものでござ
います。
戦国時代になると、武士の訓練の一環として盛んに行われました。
中でも織田信長は深く相撲を愛好し、安土城で各地から力士を集めて
上覧相撲を催し、勝ち抜いた者を家臣として召し抱えたといいます。
さらに時代が下がって江戸時代の寛政期、第11代将軍、徳川家斉の
御代の頃、谷風、小野川、雷電、阿武松などの強豪力士が現れます。
さらには将軍上覧相撲も行われ、大いに隆盛を極めました。
この頃に今の大相撲の基礎が確立されたと言って良いでしょう。
さて、そんな伝説とも言うべき力士たちがひしめく中、佐野山という
力士がおりました。
小柄ながら実力もあり、贔屓の客もいるほどでしたが、
ある時、母親が大病を患ってしまいます。
幕内とはいえ最下級の十両、高額な薬の支払いにほとんどが消えてし
まうのでした。
佐野山:先生、いつもすまねえ。
これが今回のお代だ。
医者:…佐野山さん、こんなこと言うのもなんだけど…
お前さん、ほとんど食べてないだろ。
佐野山:!! はは…いやあ、先生の目はごまかせないなあ。
でも、全然食べてないってわけじゃねえんだ。
医者:でもね、私があなたのおっかさんを初めて診た頃から比べると、
目立ってやせてる。
身体を動かす体力を維持するだけのメシを食ってない証拠だ。
食べてるというけど、一体何を食べてるんだね?
佐野山:少しの米を炊いて、おかゆにして食べてます。
医者:バカな、それじゃ腹が満たされるわけがない。
診察や薬代の支払いは後でまとめてでもいいんだ。
今は、自分の食事を確保するのが先だよ。
佐野山:いや、ツケておくのはどうも心持ちが悪くて。
医者:お前さんが律儀なのは分かってる。
だからこそ、後でもいいと言ってるんだ。
佐野山:先生…お代を、納めてください。
医者:……分かった。
佐野山:じゃ、わしぁこれから取り組みがありますんで。
語り:取り組みに向かう佐野山。当時、十両筆頭でした。
しかしこの十両筆頭という地位は別名・貧乏神と呼ばれます。
なぜかと申しますと、東西に分けられた力士は今と同じく西同士・
東同士では対戦しませんが、当時の力士は病気での欠場が多かった
そうです。
なので三役…いわゆる関脇・小結・大関などが休場して取り組みの
人数が足りなくなると、十両筆頭をぶつけるなんて事がよくあった
とか。
これがなかなか勝てない。その為に番付が上がったり下がったり、
行ったり来たりを繰り返す。それゆえの貧乏神。
そこへ自身の空腹も合わさって余計に佐野山の黒星は続き、
ついには立ち会う前に目を回して倒れてしまう有様。
町民1:おい聞いたかい。
佐野山の奴、塩をまいてる時に目ぇ回して、
立ち会う前にすっ転んじまったって話だ。
町民2:佐野山ってあの、十両筆頭の貧乏神かい?
もうこれで九連敗だって聞いたぞ。
町民3:こりゃあ、佐野山は今場所限りで引退だな。
あんな見映えしねえ小兵だと、ついてる贔屓も離れるだろ。
町民1:引退したら最後、路頭に迷うぞ。
おっかさんがいるようだが、松の肥やしになってしめえだな。
町民2:可哀想に、せめて他の仕事してりゃあ良かったものをよ。
なまじちょいと力があるからって、フンドシ担ぎになっちまった
のがそもそもの間違いってやつだ。
町民3:違いねえ。
さて、今日の谷風の取り組みは絶対見なきゃな!
語り:事の真実を知らない者ほど、言いたい放題するものでございます。
口さがない江戸っ子たちの立ち話を茶屋の影でじっと聞いている者
が一人いました。
大相撲初代横綱にして力量・人格共に力士の模範たるべき者として
名高い、谷風梶之助、その人であります。
谷風:…。
妙な話だ。
佐野山は体格は小兵とはいえ、まだ伸びしろがある奴だ。
なのに九連敗というのは、何かわけでもあるんじゃないのか…?
医者:おや、横綱じゃあありませんか。
ご無沙汰してます。
谷風:おぉ先生、お久しぶりですな。
医者:どうなすったんです?
何やらむずかしい顔をなさってましたが。
谷風:いや、実はさっきそこで町の者が噂してたのが耳に入りましてな。
佐野山が今場所限りで引退するんじゃないか、と。
医者:!
そのことなんですが、実はあたくし、佐野山さんのおっかさんを
治療しているところでして。
谷風:なるほど、先生が佐野山のおっかさんを診ておられたんで。
それで、具合はどんなです?
医者:ええ、もうだいぶ良くなったんですが、まだ気は抜けなくて。
佐野山さんは毎回無理して診察と薬の代金を、そのつど支払って
くれるんですが…どうやら、自分の食い扶持もお金に替えてるみ
たいなんですよ。
谷風:それで立ち会う前に目を回して倒れたのか…。
当然じゃ、力士は呑めば呑み力、食えば食い力、
それだけの力が出るもんだ。
そいつを減らしちまったら、勝てるもんも勝てねえ。
そうか、そういうことだったか…。
医者:あたしは、支払いは後でまとめてでも良いっていつも言ってるんだ
が、ツケは心持ちが悪いからと…。
谷風:ううむ、佐野山はまだこんなところで終わる奴じゃない。
それに親孝行な者が困っているのをうっちゃっておくのは、わしの
相撲道に反するし、相撲界にとっても恥だ。
…よし、わかった。
先生、今の話は内密に…その代わり、ひとつ噂を広めてもらいたい
。
医者:ほう、噂ですか。
どのような?
谷風:わしに若い女が出来て、それまで通ってた柳橋の年増の女から
足が遠のいた。
今は落ち目の佐野山が、それとねんごろの仲になったのをわしが
知った。
これは許しておけない、土俵の上で佐野山を叩き殺すかもしれない
と。
医者:えっ、それはつまり、横綱が佐野山さんと対戦すると?
谷風:親方衆にはわしから組んでもらえるよう頼んでおこう。
ちょうど明日は千秋楽、人も多く集まるだろうからうってつけじゃ
。
医者:ははぁ…なるほど、そういうことですか。
わかりました。あたしに任せてください。
それと、この事は口が裂けても周りには言いませんから。
谷風:頼みます。
語り:何事か決意した谷風、茶屋を出るとさっそく親方衆の元へ向かいま
す。折しも親方衆は膝を寄せ集めて千秋楽の話し合い、とは言って
も取り組みは小野川と谷風で決まりだろうという流れの中、不意に
谷風がやって参りました。
谷風:親方、ちょっとよろしいですか?
親方:おお谷風、どうしたんじゃ?
いま、千秋楽の取り組みを話しあっとったんじゃが…。
谷風:そのことなんですが…親方、ひとつ、わしの我儘を聞いてもらえま
せんか?
親方:なんじゃ、急に改まって。
谷風:明日の千秋楽の取り組み、わしと…佐野山にしてもらいたいんじゃ
。
親方:なに、佐野山ァ!?
あの「出ると負け」とか!?
谷風:なんです、その、「出ると負け」てのは。
親方:いま奴は全敗中じゃろ。
出ると負けてばっかりだから、わしらの間で今そう呼ばれとるんじ
ゃ。
谷風:そらぁあんまりじゃ。
実力がのうて負けとるわけじゃなかろうに。
親方:とにかく、明日の千秋楽の結びの一番は、谷風と小野川、
東西の両横綱と決まっとるんじゃ。
それが「出ると負け」の佐野山と組ませたら、だいいち客が納得せ
ん。
谷風:それは分かっとるんです。
分かったうえでこうして無理を言っとるんです。
これっきりにしますから、明日は何とか佐野山と取らしてください
。
親方:ならん! 客が納得せんと言っとるのが分からんのか!
谷風:…そんなら結構。
わしは明日、土俵へは上がらん。
親方:なっ、なっ、なんじゃとォ!?
谷風:わしも思うところあってこうして頼んでるんです。
佐野山関と取らしてもらえんなら仕方ない。
明日の千秋楽は小野川の不戦勝で決まりでしょうな。
親方:そ、そんな締まらん千秋楽があるか!
むぅぅ~~…ッ。
……分かった。
お前に何か考えがあるんじゃろ。
そこまで言うなら、明日は佐野山と取らそう。
谷風:取らしてもらえますか?
親方:ああ、大丈夫じゃ。
何か言われたら、わしが尻を引き受ける。
明日の先触れを言う者らには、ちゃんと言っておくからな。
谷風:親方…ありがとうございます。
親方:…谷風。
谷風:? なんです?
親方:横綱というのはな、心・技・体の全てにおいて優れてなくてはなら
ん。
力士たちの模範でなくてはならん。
お前の技と体は申し分ない。心はどうだろうかと思っとったが…、
今日はっきりとわかった。
谷風、お前は正真正銘の立派な大横綱だ。
わしから言えるのはそれだけじゃ。
谷風:親方…ありがとうございます…!!
親方:どれ、先触れに伝えてくるか…。
語り:かくして親方の説得に成功した谷風。
それから街には顔の長い者、べらんめぇ口調の者、痩せてるが声の
よく通る者、さまざまな先触れ達が明日の千秋楽の取り組みを触れ
て回ります。
「明日の千秋楽結びの一番、谷風、佐野山~ッ!」
これを聞いた江戸の町民たちは大騒ぎ。
てっきり東西の横綱の大一番が見れると思っていただけに、
驚きはひとしおであります。
町民1:おっ、おいッ、聞いたか!?
明日の千秋楽、谷風と…佐野山らしいぞ!?
町民2:ええっ、谷風と小野川じゃねえってのかい!?
町民3:こりゃ前代未聞の珍事だ。
医者:ははぁ…なるほどなァ…。
そりゃあそうなるな…。
町民1:ん? 医者の先生、さっきから一人うんうん言ってるけど、
何か知ってるのかい?
町民2:おい皆、この医者先生、何か知っとるみたいだぞ。
町民3:先生、なんで佐野山が横綱とあたることになったんだ?
医者:ああ、いやね、これはおそらく遺恨相撲だよ。
町民1:えっ、遺恨相撲!?
町民2:まさか…谷風ほどの、それも横綱ともあろう者が?
町民3:佐野山関が、何か横綱の恨みでも買うようなことしたのかい?
医者:ああ、実は私も聞いた話なんだが、以前、横綱は柳橋に女がおった
。
けど、他に若くていい女ができたって言うんで、足が遠のいたらし
い。
そんな折、佐野山関が偶然その女と知り合い、末にはねんごろな仲
になった。
ところがそれが横綱の耳に入ってしまい、これは許しておけないと
激怒した。
かといって、横綱ともあろう者が道端とかで遺恨を晴らすのも
おかしな話だ。
だから土俵の上で佐野山関を叩き殺そうとしとるんだろう。
町民1:いくら何でもそりゃあ、佐野山がかわいそうじゃねえか!
町民2:そうだそうだ!
お見限りとはいえ、てめえの女ァ取られたからって、
腹いせに土俵の上でやっつけようなんてのは良くねえ!
町民3:よっしゃ、明日は佐野山を応援しようじゃねえか!
医者:そうだとも、ここは一番、佐野山の贔屓になろう。
お、噂をすれば佐野山関だ! こっちへ来るぞ。
明日に向けて、景気づけの言葉でも掛けようじゃないか!
町民1:おうッ、佐野山ァ!
明日は頑張れよ!
いや、言葉だけじゃあいけねえな。
よしッ、谷風の前褌取ったら、五両の祝儀を出すぜ!
町民2:そんなら俺は、もろ差しになったら十両出すぞ!
町民3:それだけじゃねえ、土俵際まで押して行ったら二十両、
そして万が一、谷風に勝ったら…百両の祝儀を出してやるぜ!
佐野山:み、皆さん…ごっつぁんです…!
町民1・2・3:さーのやま! さーのやま! さーのやま!
医者:【つぶやく】
ふふふ…これでよし。
町民1・2・3:さーのやま! さーのやま! さーのやま!
佐野山:ごっつぁんです…!
ごっつぁんです…!
【二拍】
しかし、いったいこれはどうした事だ…?
わしが千秋楽の、しかも結びの一番で横綱と…。
みんなああやって応援してくれてるが、
今のわしじゃ横綱のまわしどころか、触れる事さえできずに
張り倒されるのが目に見えている…。
語り:人の口とは恐ろしいものでございます。
町民の間に流れた根も葉もない噂は、あっという間に江戸じゅうに
広まり、佐野山のにわか贔屓がどっと増えました。
日本橋の魚河岸や大旦那連中は、勝ったら祝儀に百両や二百両出そ
うと約束するし、花柳界の綺麗所まで佐野山に祝儀を約束。
事の成り行きに首をかしげて歩く佐野山の前に、また一人の贔屓が
立ちます。
伊丹屋:やあ、佐野山関。
佐野山:! こりゃあどうも、伊丹屋さん。
伊丹屋:聞いたよ。
明日の千秋楽、谷風関と対戦することになったそうじゃないか。
佐野山:そ、そうなんです。
わしにもわけがわからないんで…。
伊丹屋:みんな佐野山関に祝儀を出すと言ってる。
そうそう、さっき田町の青物問屋の鉄五郎さんに会った。
まわしを掴んだら二十両、四つになったら三十両、
もろ差しになったら五十両、万が一勝てたら百両出すと言って
いたよ。
佐野山:て、鉄五郎さんまで…。
伊丹屋:むろん、私も祝儀を出すよ。
佐野山関、あたしはあんたの贔屓として、
一遍だけ言ってみたいことがあるんだ。
聞いてくれるかい?
そして聞いたらすぐ忘れておくれ。
佐野山:な、なんでしょう…?
伊丹屋:…もし横綱に勝ったら…千両出そうじゃないか!
佐野山:!!!ええっっ!?
伊丹屋:ははは、聞いたらすぐ忘れてくれと言うたはずです。
聞いたらすぐ忘れて…それじゃ明日は大一番、頑張っておくれ。
佐野山:は、はい…!
語り:さて一夜明け、天は高く空は澄み、やって参りました勧進相撲の
千秋楽。
両国回向院に集いし観衆の、熱狂的な空気の中、
取り組みは次々と消化されていきます。
ついに結びの一番、谷風と佐野山の土俵入りと相成りました。
木村:番数も取り進みましたるところ、
かたや佐野山、佐野山っ、
こなた谷風、谷風っ。
町民1:佐野山ぁぁあああ! やったれーー!
町民2:ぶちかませぇぇぇえ佐野山ぁぁああッッ!!
町民3:勝てーーーッ谷風ーーッ!
木村:この相撲一番にて、千秋楽ぅぅううう!!!
語り:くだんの噂による判官びいきとはいえ、会場はすさまじいまでに
佐野山ほぼ一色の声援で、
それにまじってぽつぽつと谷風の名がちらつく中、
双方とも土俵入りを済ませます。
塩をまき、腰を落として互いに見合うとふと、谷風が笑みをこぼし
ました。
谷風:【つぶやくように】
佐野山関…良かったのぉ。
今日はいちだんと声援が多い。
お前さんの親孝行、手伝わせてもらうよ。
佐野山:【つぶやくように】
!!!
た、谷風関…その為にこの取り組みを…!?
あ、ありがとうございます…!!
語り:谷風の海より広いその度量、佐野山は感激のあまり嬉し涙の一滴を
流します。
それを目ざとく見つける観衆、噂はやはり本当だったかと騒ぎ出し
ました。
町民1:おい見ろ、谷風のやつ、ニコニコ笑って何か言ってやがるぞ!
町民2:それに対して佐野山が涙ァ流して泣いてる…これァやっぱり
遺恨相撲だ! 意趣返しだ!
町民3:谷風は土俵の上で堂々と佐野山を叩き殺せるから、
ああやってほくそ笑んでるんだ!
佐野山はきっと、堪忍してくれと泣いているに違ぇねえ!
町民1:佐野山ぁッ! 気合い入れろォ!
町民2:谷風なんてやっちめぇッ!
町民3:おっ、木村庄之助の軍配が返ったぞッ!
木村:手を下ろして…、待ったなしッ!!
はっけよぃッッッ!!!
佐野山:う、うおぉぉぉッッッ!!
谷風:ぬううぅうッ!!
町民1:ああっ!? 見ろッ、佐野山がッ!!
町民2:谷風のまわしを…!
町民3:つかんだァァァァああッ!?
木村:のこったのこった! のこったのこった!
町民1:や、やべえ、祝儀の五両…。
佐野山:ふんンンンンッッ!
谷風:ぬぅうおおおッ!!
町民2:うわッわッ! もッもろ差しだああッッ!
じゅ、十両の祝儀…どうしよう…。
伊丹屋:【声を落としてつぶやく】
もろ差し…いや違う!
横綱が佐野山関を抱きかかえている!?
なぜそんなことを…?
佐野山:う、うぐぐぐぐ……!
木村:のこったのこった! のこったのこった!
谷風:【声を落として】
これッ佐野山ッ、しっかりせえ!
ここで腰砕けてはならん!
佐野山:【声を落として】
で、でも、ち、力が…。
腹が減って…。
谷風:【声を落として】
このままではいかん…ならば…!
ぬぅぅああああッ!!
町民3:あっあっ、佐野山が谷風を押して、ど、土俵際まで…!!
町民1:お、俺ァ、夢でも見てんのか!?
木村:のこったのこった! のこったのこった!
伊丹屋:【声を落としてつぶやく】
そうじゃない…横綱が佐野山関を抱きかかえたまま、引っ張ってい
るんだ…!
なぜ八百長を…?
谷風:うぐぬぅぅぅうッ!!
佐野山:ぐ…ぐぐぐ…ハァハァ…!!
町民2:す、すごい…土俵際で競り合っている!
佐野山が腰を低くして寄り切ろうとしてるぞ!
町民3:こりゃあ分からんぞ…!
伊丹屋:【声を落としてつぶやく】
いや、佐野山関に押す力は残っていない。
となると、やはりこれは情け相撲…!
そうか…そういうことか…!
いけェーーーッ、佐野山ァーーーーッッ!!
木村:のこったのこった! のこったのこった!
佐野山:うぐっ…ぐっ…!
あ、足に、力が…!
谷風:【声を落として】
まずい、このままでは…!
佐野山ッ、男を見せろッ! 押せッ!
佐野山:! う、うぅぉおおおおッッ!!
谷風:【声を落として】
こ、これは! まだこんな力が…!
だが、予定通りうっちゃりで…!!
ッぬぅぅぅぁぁあああああッッッ!!!
木村:ッ!!!
佐野山:ッッうッぐッ!!!
…はは…これで…終わりか…。
町民1:かァーッ、さすがは谷風、強ぇなあ…。
町民2:けど、佐野山もよくやったよ…。
町民3:ん…?
お、おい、行司の軍配を見ろ!
木村:勇み足ッ! 佐野ォ山ァッ!!
町民1:な、なにーーーッッ!?
あっ、み、見ろ! 谷風のかかとが土俵の外に!!
こ、これでしばらくは素寒貧だ…。
町民2:ウソだろ…な、なんて大番狂わせだ…って、ああ!!!
祝儀! やべえ…二十両なんて大金、どうやって…。
町民3:バカ野郎! 俺なんか百両だぞ!?
ど、どうすりゃいいんだぁ!?!
語り:佐野山を応援しつつも、谷風が負けると誰もが思っていませんでし
た。
ところが終わってみればまさかの大番狂わせ。
観衆は総立ちになり、興奮で顔を真っ赤にして囃し立て、
祝儀の約束を公言した者達は逆に真っ青になる有様。
土俵は投げられた羽織や座布団、財布でたちまちいっぱいになって
しまったのであります。
二人はすでに退場していたが、奥で佐野山はひとり、合点のいかな
い表情で考え込んでいました。
佐野山:そ、そんなまさか…わしが…勝った…?
伊丹屋:佐野山関、おめでとうさん。
勝ちましたなぁ。
佐野山:あ…伊丹屋さん、ごっつぁんです。
伊丹屋:いやぁ嬉しかったねぇ…。
皆が佐野山関の名前を呼んでいた時、胸がすくような気持ちでし
たよ。
しかし…こらあ困った。
千両の担保として、家をお渡ししなければい
けなくなってしまいました、ははは。
佐野山:い、いや、さすがにそれは…。
伊丹屋:いいんですよ。
あなたの贔屓としてこれほど嬉しい事はない。
約束の祝儀千両、お出ししましょう!
佐野山:あ、ありがとうございます…!!
伊丹屋:あたしはこれから千両を稼いで、その家を買い戻しますから。
佐野山:い、伊丹屋さん……。
谷風:佐野山、おめでとうさん。
佐野山:た、谷風関!
先ほどは…本当にありがとうございました…!!
伊丹屋:横綱、あたしは佐野山関の贔屓をしとります、伊丹屋と申します。
横綱の情け相撲だという事はよく分かっております。
自分の顔を潰してまで佐野山関に花を持たせていただいて、
ありがとうございました。
谷風:手ぇ上げてくれ、伊丹屋の旦那。
わしは確かに情け相撲を取った。
だが仮にも天下に鳴り響いた横綱、負けてやる気はなかったんじゃ
。
じゃが土俵際でうっちゃる直前、わしは言うてしもうた。
押せ! と。
あんな力がまだ残っているとは思わなんだ。
それで算段をしくじって、先に足が出てしもうたんじゃ。
ははは…我ながら情けないわい。
伊丹屋:横綱、少しばかり足が出たくらいの事、何でもありませんよ。
あたしは千両も足が出ました。
終劇
参考にした落語口演の噺家演者様等(敬称略)
金原亭馬生(十代目)
桂文治(十一代目)
桂文我(四代目)
※用語解説
フンドシ担ぎ・:力士、相撲取りの別名。
貧乏神・:ここでの貧乏神は相撲界の十両筆頭の別名を指す。
本場所の取組は原則十両同士であるが、休場などにより幕内の
出場力士が奇数になった場合などには幕内力士と、関取全体の
出場力士が奇数になった場合などには幕下力士と対戦すること
がある。休場が多くなると複数の繰り上げ取組が行われ、特に
終盤にはいわゆる「入れ替え戦」が多く行われる。これにちな
んで、筆頭力士を「貧乏神」「瀬切り」と称することがある。