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落語【声劇台本書き起こし】

落語声劇「佐野山」

作者: 霧夜シオン


落語声劇「佐野山さのやま


台本化:霧夜きりやシオン@吟醸亭喃咄ぎんじょうていなんとつ


所要時間:約30分


必要演者数:6名

      (0:0:6)


※当台本は落語を声劇台本として書き起こしたものです。

よって性別は全て不問とさせていただきます。

(創作落語や合作などの落語声劇台本はその限りではありません。)


※当台本は元となった落語を声劇として成立させるために大筋は元の作品

 に沿っていますが、セリフの追加及び改変が随所にあります。

 それでも良い方は演じてみていただければ幸いです。



●登場人物


佐野山さのやま小兵こひょう(体格が小柄)だが十両筆頭じゅうりょうひっとう。親孝行で有名。

    母親が大病たいびょうわずらったため、その治療に自分の食費まで回してしま

    い、結果勝負で勝てずに黒星くろぼし続きで九連敗をきっしてしまう。


谷風たにかぜ大横綱だいよこづな谷風梶之助たにかぜかじのすけ

   人情を解し、品格抜群ひんかくばつぐんと称される。

   長い大相撲の歴史の中でも屈指の強豪とされる力量を誇り、文献な

   どから初代の横綱と扱われている。現在の宮城県仙台市の出身。

   幼少から怪力で、七人がかりで持ち上げる天秤石てんびんいしをたった一人で

   持ち上げたと伝わる。

   佐野山さのやまの実力にそぐわない散々な戦績をいぶかしんでいたが、佐野山さのやま

   母を治療していた医者から話を聞いた事で、何とか力を貸してやり

   たいと思案する。


医者:佐野山さのやまの母を治療している。

   佐野山さのやまの経済状況が厳しい事を知り、支払いは後でも良いと言うが

   聞き入れない。谷風たにかぜと会話した際にその話を出す。


木村庄之助きむらしょうのすけ行司ぎょうじの最高位。

      相撲番付すもうばんづけに例えると、東の横綱に相当する。

      ちなみに西の横綱相当の行司ぎょうじ式守伊之助しきもりいのすけ

      現代にいたるまでその名は受け継がれている。


親方:谷風たにかぜの親方。

   谷風たにかぜから千秋楽せんしゅうらくの対戦相手を佐野山さのやまに変えて欲しいと頼まれ、

   了承する。


伊丹屋いたみや佐野山さのやま贔屓ひいき・ファン。戦績せんせきの振るわない佐野山さのやまを元気づけるべ

    く、谷風たにかぜに勝ったら千両せんりょう祝儀しゅうぎを出そうと約束する。


町民1:江戸っ子その1。


町民2:江戸っ子その2。


町民3:江戸っ子その3。


語り:雰囲気を大事に。




●配役例


佐野山:

谷風:

伊丹屋・町民3:

親方・町民1:

木村・町民2:

語り・医者:



※枕は佐野山さのやま役以外の誰かが適宜てきぎねてください。



枕:我が国日本の国技こくぎ相撲すもう

  その起源きげん古事記こじきにまで書かれているほど古く、歴史あるものでござ

  います。

  戦国時代になると、武士の訓練の一環いっかんとしてさかんに行われました。

  中でも織田信長おだのぶながは深く相撲すもう愛好あいこうし、安土城あづちじょうで各地から力士りきしを集めて

  上覧相撲じょうらんずもうもよおし、勝ち抜いた者を家臣としてかかえたといいます。

  さらに時代が下がって江戸時代の寛政期かんせいき、第11代将軍、徳川家斉とくがわいえなり

  御代みよの頃、谷風たにかぜ小野川おのがわ雷電らいでん阿武松おうのまつなどの強豪力士きょうごうりきしが現れます。

  さらには将軍上覧相撲しょうぐんじょうらんずもうも行われ、大いに隆盛りゅうせいを極めました。

  この頃に今の大相撲おおずもう基礎きそ確立かくりつされたと言って良いでしょう。

  さて、そんな伝説とも言うべき力士りきしたちがひしめく中、佐野山さのやまという

  力士りきしがおりました。

  小柄こがらながら実力もあり、贔屓ひいきの客もいるほどでしたが、

  ある時、母親が大病たいびょうわずらってしまいます。

  幕内まくうちとはいえ最下級の十両じゅうりょう、高額な薬の支払いにほとんどが消えてし

  まうのでした。


佐野山:先生、いつもすまねえ。

    これが今回のおだいだ。


医者:…佐野山さのやまさん、こんなこと言うのもなんだけど…

   お前さん、ほとんど食べてないだろ。


佐野山:!! はは…いやあ、先生の目はごまかせないなあ。

    でも、全然食べてないってわけじゃねえんだ。


医者:でもね、私があなたのおっかさんを初めてころから比べると、

   目立めだってやせてる。

   身体を動かす体力を維持いじするだけのメシを食ってない証拠しょうこだ。

   食べてるというけど、一体何を食べてるんだね?


佐野山:少しの米をいて、おかゆにして食べてます。


医者:バカな、それじゃ腹が満たされるわけがない。

   診察や薬代くすりだいの支払いは後でまとめてでもいいんだ。

   今は、自分の食事を確保するのが先だよ。


佐野山:いや、ツケておくのはどうも心持こころもちが悪くて。


医者:お前さんが律儀りちぎなのは分かってる。

   だからこそ、後でもいいと言ってるんだ。


佐野山:先生…おだいを、おさめてください。


医者:……分かった。


佐野山:じゃ、わしぁこれから取り組みがありますんで。


語り:取り組みに向かう佐野山さのやま。当時、十両筆頭じゅうりょうひっとうでした。

   しかしこの十両筆頭じゅうりょうひっとうという地位は別名・貧乏神びんぼうがみと呼ばれます。

   なぜかと申しますと、東西に分けられた力士りきしは今と同じく西同士・

   東同士では対戦しませんが、当時の力士りきしは病気での欠場が多かった

   そうです。

   なので三役さんやく…いわゆる関脇せきわけ小結こむすび大関おおぜきなどが休場きゅうじょうして取り組みの

   人数が足りなくなると、十両筆頭じゅうりょうひっとうをぶつけるなんて事がよくあった

   とか。

   これがなかなか勝てない。その為に番付ばんづけが上がったり下がったり、

   行ったり来たりを繰り返す。それゆえの貧乏神びんぼうがみ

   そこへ自身の空腹も合わさって余計に佐野山さのやま黒星くろぼしは続き、

   ついには立ち会う前に目を回して倒れてしまう有様ありさま


町民1:おい聞いたかい。

    佐野山さのやまの奴、塩をまいてる時に目ぇ回して、

    立ち会う前にすっころんじまったって話だ。


町民2:佐野山さのやまってあの、十両筆頭じゅうりょうひっとう貧乏神びんぼうがみかい?

    もうこれで九連敗だって聞いたぞ。


町民3:こりゃあ、佐野山さのやま今場所こんばしょ限りで引退だな。

    あんな見映みばえしねえ小兵こひょうだと、ついてる贔屓ひいきも離れるだろ。


町民1:引退したら最後、路頭ろとうに迷うぞ。

    おっかさんがいるようだが、松のやしになってしめえだな。


町民2:可哀想かわいそうに、せめて他の仕事してりゃあ良かったものをよ。

    なまじちょいと力があるからって、フンドシかつぎになっちまった

    のがそもそもの間違まちがいってやつだ。


町民3:違いねえ。

    さて、今日の谷風たにかぜの取り組みは絶対見なきゃな!


語り:事の真実を知らない者ほど、言いたい放題するものでございます。

   口さがない江戸っ子たちの立ち話を茶屋ちゃやの影でじっと聞いている者

   が一人いました。

   大相撲初代横綱おおずもうしょだいよこづなにして力量りきりょう人格じんかく共に力士りきし模範もはんたるべき者として

   名高なだかい、谷風梶之助たにかぜかじのすけ、その人であります。


谷風:…。

   妙な話だ。

   佐野山さのやまは体格は小兵こひょうとはいえ、まだ伸びしろがある奴だ。

   なのに九連敗というのは、何かわけでもあるんじゃないのか…?


医者:おや、横綱よこづなじゃあありませんか。

   ご無沙汰ぶさたしてます。


谷風:おぉ先生、お久しぶりですな。


医者:どうなすったんです?

   何やらむずかしい顔をなさってましたが。


谷風:いや、実はさっきそこで町の者がうわさしてたのが耳に入りましてな。

   佐野山さのやま今場所こんばしょ限りで引退するんじゃないか、と。


医者:!

   そのことなんですが、実はあたくし、佐野山さのやまさんのおっかさんを

   治療しているところでして。


谷風:なるほど、先生が佐野山さのやまのおっかさんをておられたんで。

   それで、具合ぐあいはどんなです?


医者:ええ、もうだいぶ良くなったんですが、まだ気は抜けなくて。

   佐野山さのやまさんは毎回無理して診察と薬の代金を、そのつど支払って

   くれるんですが…どうやら、自分の食い扶持ぶちもお金にえてるみ

   たいなんですよ。


谷風:それで立ち会う前に目を回して倒れたのか…。

   当然じゃ、力士りきしめば(りき)、食えば食いりき

   それだけの力が出るもんだ。

   そいつを減らしちまったら、勝てるもんも勝てねえ。

   そうか、そういうことだったか…。


医者:あたしは、支払いは後でまとめてでも良いっていつも言ってるんだ

   が、ツケは心持こころもちが悪いからと…。


谷風:ううむ、佐野山さのやまはまだこんなところで終わる奴じゃない。

   それに親孝行な者が困っているのをうっちゃっておくのは、わしの

   相撲道すもうどうに反するし、相撲界すもうかいにとってもはじだ。

   …よし、わかった。

   先生、今の話は内密に…その代わり、ひとつうわさを広めてもらいたい

   。


医者:ほう、うわさですか。

   どのような?


谷風:わしに若い女が出来て、それまで通ってた柳橋やなぎばし年増としまの女から

   足が遠のいた。

   今は落ち目の佐野山さのやまが、それとねんごろの仲になったのをわしが

   知った。

   これは許しておけない、土俵どひょうの上で佐野山さのやまを叩き殺すかもしれない

   と。


医者:えっ、それはつまり、横綱よこづな佐野山さのやまさんと対戦すると?


谷風:親方衆おやかたしゅうにはわしから組んでもらえるよう頼んでおこう。

   ちょうど明日は千秋楽せんしゅうらく、人も多く集まるだろうからうってつけじゃ

   。


医者:ははぁ…なるほど、そういうことですか。

   わかりました。あたしに任せてください。

   それと、この事は口がけても周りには言いませんから。


谷風:頼みます。


語り:何事なにごとか決意した谷風たにかぜ茶屋ちゃやを出るとさっそく親方衆おやかたしゅうの元へ向かいま

   す。おりしも親方衆おやかたしゅうひざを寄せ集めて千秋楽せんしゅうらくの話し合い、とは言って

   も取り組みは小野川おのがわ谷風たにかぜで決まりだろうという流れの中、不意ふい

   谷風たにかぜがやって参りました。


谷風:親方おやかた、ちょっとよろしいですか?


親方:おお谷風たにかぜ、どうしたんじゃ?

   いま、千秋楽せんしゅうらくの取り組みを話しあっとったんじゃが…。


谷風:そのことなんですが…親方おやかた、ひとつ、わしの我儘わがままを聞いてもらえま

   せんか?


親方:なんじゃ、急に改まって。


谷風:明日の千秋楽せんしゅうらくの取り組み、わしと…佐野山さのやまにしてもらいたいんじゃ

   。


親方:なに、佐野山さのやまァ!?

   あの「出ると負け」とか!?


谷風:なんです、その、「出ると負け」てのは。


親方:いま奴は全敗中ぜんぱいちゅうじゃろ。

   出ると負けてばっかりだから、わしらの間で今そう呼ばれとるんじ

   ゃ。


谷風:そらぁあんまりじゃ。

   実力がのうて負けとるわけじゃなかろうに。


親方:とにかく、明日の千秋楽せんしゅうらくむすびの一番は、谷風たにかぜ小野川おのがわ

   東西とうざい両横綱りょうよこづなと決まっとるんじゃ。

   それが「出ると負け」の佐野山さのやまと組ませたら、だいいち客が納得なっとく

   ん。


谷風:それは分かっとるんです。

   分かったうえでこうして無理を言っとるんです。

   これっきりにしますから、明日は何とか佐野山さのやまと取らしてください

   。


親方:ならん! 客が納得なっとくせんと言っとるのが分からんのか!


谷風:…そんなら結構けっこう

   わしは明日、土俵どひょうへは上がらん。


親方:なっ、なっ、なんじゃとォ!?


谷風:わしも思うところあってこうして頼んでるんです。

   佐野山関さのやまぜきと取らしてもらえんなら仕方ない。

   明日の千秋楽せんしゅうらく小野川おのがわ不戦勝ふせんしょうで決まりでしょうな。


親方:そ、そんなまらん千秋楽せんしゅうらくがあるか!

   むぅぅ~~…ッ。


   ……分かった。

   お前に何か考えがあるんじゃろ。

   そこまで言うなら、明日は佐野山さのやまと取らそう。


谷風:取らしてもらえますか?


親方:ああ、大丈夫じゃ。

   何か言われたら、わしがしりを引き受ける。

   明日の先触さきぶれを言う者らには、ちゃんと言っておくからな。


谷風:親方おやかた…ありがとうございます。


親方:…谷風たにかぜ


谷風:? なんです?


親方:横綱よこづなというのはな、しんたいすべてにおいて優れてなくてはなら

   ん。

   力士りきしたちの模範もはんでなくてはならん。

   お前のわざからだは申し分ない。心はどうだろうかと思っとったが…、

   今日はっきりとわかった。

   谷風たにかぜ、お前は正真正銘しょうしんしょうめいの立派な大横綱だいよこづなだ。

   わしから言えるのはそれだけじゃ。


谷風:親方おやかた…ありがとうございます…!!


親方:どれ、先触さきぶれに伝えてくるか…。


語り:かくして親方おやかたの説得に成功した谷風たにかぜ

   それから街には顔の長い者、べらんめぇ口調くちょうの者、せてるが声の

   よく通る者、さまざまな先触さきぶれ達が明日の千秋楽せんしゅうらくの取り組みを触れ

   て回ります。

   「明日の千秋楽せんしゅうらくむすびの一番、谷風たにかぜ佐野山さのやま~ッ!」

   これを聞いた江戸の町民たちは大騒ぎ。

   てっきり東西とうざい横綱よこづな大一番おおいちばんが見れると思っていただけに、

   驚きはひとしおであります。


町民1:おっ、おいッ、聞いたか!?

    明日の千秋楽せんしゅうらく谷風たにかぜと…佐野山さのやまらしいぞ!?


町民2:ええっ、谷風たにかぜ小野川おのがわじゃねえってのかい!?

    

町民3:こりゃ前代未聞ぜんだいみもん珍事ちんじだ。


医者:ははぁ…なるほどなァ…。

   そりゃあそうなるな…。


町民1:ん? 医者の先生、さっきから一人うんうん言ってるけど、

    何か知ってるのかい?


町民2:おい皆、この医者先生、何か知っとるみたいだぞ。


町民3:先生、なんで佐野山さのやま横綱よこづなとあたることになったんだ?


医者:ああ、いやね、これはおそらく遺恨相撲いこんずもうだよ。


町民1:えっ、遺恨相撲いこんずもう!?


町民2:まさか…谷風たにかぜほどの、それも横綱よこづなともあろう者が?


町民3:佐野山関さのやまぜきが、何か横綱よこづなの恨みでも買うようなことしたのかい?


医者:ああ、実は私も聞いた話なんだが、以前、横綱よこづな柳橋やなぎばしに女がおった

   。

   けど、他に若くていい女ができたって言うんで、足が遠のいたらし

   い。

   そんなおり佐野山関さのやまぜきが偶然その女と知り合い、すえにはねんごろな仲

   になった。

   ところがそれが横綱よこづなの耳に入ってしまい、これは許しておけないと

   激怒した。

   かといって、横綱よこづなともあろう者が道端みちばたとかで遺恨いこんを晴らすのも

   おかしな話だ。

   だから土俵どひょうの上で佐野山関さのやまぜきを叩き殺そうとしとるんだろう。


町民1:いくら何でもそりゃあ、佐野山さのやまがかわいそうじゃねえか!


町民2:そうだそうだ!

    お見限みかぎりとはいえ、てめえの女ァ取られたからって、

    腹いせに土俵どひょうの上でやっつけようなんてのは良くねえ!


町民3:よっしゃ、明日は佐野山さのやまを応援しようじゃねえか!


医者:そうだとも、ここは一番、佐野山さのやま贔屓ひいきになろう。

   お、噂をすれば佐野山関さのやまぜきだ! こっちへ来るぞ。

   明日に向けて、景気づけの言葉でも掛けようじゃないか!


町民1:おうッ、佐野山さのやまァ!

    明日は頑張れよ!

    いや、言葉だけじゃあいけねえな。

    よしッ、谷風たにかぜ前褌まえみつ取ったら、五両ごりょう祝儀しゅうぎを出すぜ!


町民2:そんなら俺は、もろしになったら十両じゅうりょう出すぞ!


町民3:それだけじゃねえ、土俵際どひょうぎわまで押して行ったら二十両にじゅうりょう

    そして万が一、谷風たにかぜに勝ったら…百両ひゃくりょう祝儀しゅうぎを出してやるぜ!


佐野山:み、皆さん…ごっつぁんです…!


町民1・2・3:さーのやま! さーのやま! さーのやま!


医者:【つぶやく】

   ふふふ…これでよし。


町民1・2・3:さーのやま! さーのやま! さーのやま!


佐野山:ごっつぁんです…!

    ごっつぁんです…!


    【二拍】


    しかし、いったいこれはどうした事だ…?

    わしが千秋楽せんしゅうらくの、しかも結びの一番で横綱よこづなと…。

    みんなああやって応援してくれてるが、

    今のわしじゃ横綱よこづなのまわしどころか、れる事さえできずに

    張り倒されるのが目に見えている…。


語り:人の口とは恐ろしいものでございます。

   町民ちょうみんの間に流れた根も葉もないうわさは、あっという間に江戸えどじゅうに

   広まり、佐野山さのやまのにわか贔屓びいきがどっと増えました。

   日本橋の魚河岸うおがし大旦那おおだんな連中は、勝ったら祝儀しゅうぎ百両ひゃくりょう二百両にひゃくりょう出そ

   うと約束するし、花柳界かりゅうかい綺麗所きれいどころまで佐野山さのやま祝儀しゅうぎを約束。

   事の成り行きに首をかしげて歩く佐野山さのやまの前に、また一人の贔屓ひいき

   立ちます。


伊丹屋:やあ、佐野山関さのやまぜき


佐野山:! こりゃあどうも、伊丹屋いたみやさん。


伊丹屋:聞いたよ。

    明日の千秋楽せんしゅうらく谷風関たにかぜぜきと対戦することになったそうじゃないか。


佐野山:そ、そうなんです。

    わしにもわけがわからないんで…。


伊丹屋:みんな佐野山関さのやまぜき祝儀しゅうぎを出すと言ってる。

    そうそう、さっき田町たちょう青物問屋あおものどんや鉄五郎てつごろうさんに会った。

    まわしをつかんだら二十両にじゅうりょう、四つになったら三十両さんじゅうりょう

    もろしになったら五十両ごじゅうりょう、万が一勝てたら百両ひゃくりょう出すと言って

    いたよ。


佐野山:て、鉄五郎てつごろうさんまで…。


伊丹屋:むろん、私も祝儀しゅうぎを出すよ。

    佐野山関さのやまぜき、あたしはあんたの贔屓ひいきとして、

    一遍いっぺんだけ言ってみたいことがあるんだ。

    聞いてくれるかい?

    そして聞いたらすぐ忘れておくれ。


佐野山:な、なんでしょう…?


伊丹屋:…もし横綱よこづなに勝ったら…千両せんりょう出そうじゃないか!


佐野山:!!!ええっっ!?


伊丹屋:ははは、聞いたらすぐ忘れてくれと言うたはずです。

    聞いたらすぐ忘れて…それじゃ明日は大一番おおいちばん頑張がんばっておくれ。


佐野山:は、はい…!


語り:さて一夜明いちやあけ、天は高く空はみ、やって参りました勧進相撲かんじんずもう

   千秋楽せんしゅうらく

   両国回向院りょうごくえこういんつどいし観衆の、熱狂的な空気の中、

   取り組みは次々と消化されていきます。

   ついに結びの一番、谷風たにかぜ佐野山さのやま土俵どひょう入りと相成あいなりました。


木村:番数ばんかずも取り進みましたるところ、

   かたや佐野山さのやま佐野山さのやまっ、

   こなた谷風たにかぜ谷風たにかぜっ。


町民1:佐野山さのやまぁぁあああ! やったれーー!


町民2:ぶちかませぇぇぇえ佐野山さのやまぁぁああッッ!!


町民3:勝てーーーッ谷風たにかぜーーッ!


木村:この相撲一番すもういちばんにて、千秋楽せんしゅうらくぅぅううう!!!


語り:くだんのうわさによる判官ほうがんびいきとはいえ、会場はすさまじいまでに

   佐野山さのやまほぼ一色の声援せいえんで、

   それにまじってぽつぽつと谷風たにかぜの名がちらつく中、

   双方そうほうとも土俵入どひょういりを済ませます。

   塩をまき、腰を落として互いに見合うとふと、谷風たにかぜが笑みをこぼし

   ました。


谷風:【つぶやくように】

   佐野山関さのやまぜき…良かったのぉ。

   今日はいちだんと声援が多い。

   お前さんの親孝行、手伝わせてもらうよ。


佐野山:【つぶやくように】

    !!!

    た、谷風関たにかぜぜき…その為にこの取り組みを…!?

    あ、ありがとうございます…!!


語り:谷風たにかぜの海より広いその度量どりょう佐野山さのやまは感激のあまりうれなみだ一滴いってき

   流します。

   それを目ざとく見つける観衆、うわさはやはり本当だったかと騒ぎ出し

   ました。


町民1:おい見ろ、谷風たにかぜのやつ、ニコニコ笑って何か言ってやがるぞ!


町民2:それに対して佐野山さのやまが涙ァ流して泣いてる…これァやっぱり

    遺恨相撲いこんずもうだ! 意趣返いしゅがえしだ!


町民3:谷風たにかぜ土俵どひょうの上で堂々と佐野山さのやまたたき殺せるから、

    ああやってほくそんでるんだ!

    佐野山さのやまはきっと、堪忍かんにんしてくれと泣いているにちげぇねえ!


町民1:佐野山さのやまぁッ! 気合い入れろォ!


町民2:谷風たにかぜなんてやっちめぇッ!


町民3:おっ、木村庄之助きむらしょうのすけ軍配ぐんばいが返ったぞッ!


木村:手を下ろして…、待ったなしッ!!


   はっけよぃッッッ!!! 


佐野山:う、うおぉぉぉッッッ!!


谷風:ぬううぅうッ!!


町民1:ああっ!? 見ろッ、佐野山さのやまがッ!!


町民2:谷風たにかぜのまわしを…!


町民3:つかんだァァァァああッ!?


木村:のこったのこった! のこったのこった!


町民1:や、やべえ、祝儀しゅうぎ五両ごりょう…。


佐野山:ふんンンンンッッ!


谷風:ぬぅうおおおッ!!


町民2:うわッわッ! もッもろしだああッッ!

    じゅ、十両じゅうりょう祝儀しゅうぎ…どうしよう…。


伊丹屋:【声を落としてつぶやく】

    もろし…いや違う!

    横綱よこづな佐野山関さのやまぜきを抱きかかえている!?

    なぜそんなことを…?


佐野山:う、うぐぐぐぐ……!


木村:のこったのこった! のこったのこった!


谷風:【声を落として】

   これッ佐野山さのやまッ、しっかりせえ!

   ここで腰砕こしくだけてはならん!


佐野山:【声を落として】

    で、でも、ち、力が…。

    腹が減って…。


谷風:【声を落として】

   このままではいかん…ならば…!


   ぬぅぅああああッ!!


町民3:あっあっ、佐野山さのやま谷風たにかぜを押して、ど、土俵際どひょうぎわまで…!!


町民1:お、俺ァ、夢でも見てんのか!?


木村:のこったのこった! のこったのこった!


伊丹屋:【声を落としてつぶやく】

    そうじゃない…横綱よこづな佐野山関さのやまぜきを抱きかかえたまま、引っ張ってい

    るんだ…!

    なぜ八百長やおちょうを…?


谷風:うぐぬぅぅぅうッ!!


佐野山:ぐ…ぐぐぐ…ハァハァ…!!


町民2:す、すごい…土俵際どひょうぎわっている!

    佐野山さのやまが腰を低くして寄り切ろうとしてるぞ!


町民3:こりゃあ分からんぞ…!


伊丹屋:【声を落としてつぶやく】

    いや、佐野山関さのやまぜきに押す力は残っていない。

    となると、やはりこれは情け相撲ずもう…!

    そうか…そういうことか…!


    いけェーーーッ、佐野山さのやまァーーーーッッ!!


木村:のこったのこった! のこったのこった!


佐野山:うぐっ…ぐっ…!

    あ、足に、力が…!


谷風:【声を落として】

   まずい、このままでは…!

   佐野山さのやまッ、男を見せろッ! 押せッ!


佐野山:! う、うぅぉおおおおッッ!!


谷風:【声を落として】

   こ、これは! まだこんな力が…!

   だが、予定通りうっちゃりで…!!


   ッぬぅぅぅぁぁあああああッッッ!!!


木村:ッ!!!


佐野山:ッッうッぐッ!!!


    …はは…これで…終わりか…。


町民1:かァーッ、さすがは谷風たにかぜつえぇなあ…。


町民2:けど、佐野山さのやまもよくやったよ…。


町民3:ん…?

    お、おい、行司ぎょうじ軍配ぐんばいを見ろ!


木村:いさあしッ! 佐野さのやまァッ!!


町民1:な、なにーーーッッ!?

    あっ、み、見ろ! 谷風たにかぜのかかとが土俵どひょうの外に!!

    こ、これでしばらくは素寒貧すかんぴんだ…。


町民2:ウソだろ…な、なんて大番狂おおばんくるわわせだ…って、ああ!!!

    祝儀しゅうぎ! やべえ…二十両にじゅうりょうなんて大金、どうやって…。


町民3:バカ野郎! 俺なんか百両ひゃくりょうだぞ!?

    ど、どうすりゃいいんだぁ!?!


語り:佐野山さのやまを応援しつつも、谷風たにかぜが負けると誰もが思っていませんでし

   た。

   ところが終わってみればまさかの大番狂おおばんくるわせ。

   観衆は総立そうだちになり、興奮で顔を真っ赤にしてはやし立て、

   祝儀しゅうぎの約束を公言した者達は逆に真っ青になる有様ありさま

   土俵どひょうは投げられた羽織はおり座布団ざぶとん、財布でたちまちいっぱいになって

   しまったのであります。

   二人はすでに退場していたが、奥で佐野山さのやまはひとり、合点がてんのいかな

   い表情で考え込んでいました。


佐野山:そ、そんなまさか…わしが…勝った…?


伊丹屋:佐野山関さのやまぜき、おめでとうさん。

    勝ちましたなぁ。


佐野山:あ…伊丹屋いたみやさん、ごっつぁんです。


伊丹屋:いやぁうれしかったねぇ…。

    皆が佐野山関さのやまぜきの名前を呼んでいた時、胸がすくような気持ちでし

    たよ。

    しかし…こらあ困った。

    千両せんりょう担保たんぽとして、家をお渡ししなければい

    けなくなってしまいました、ははは。


佐野山:い、いや、さすがにそれは…。


伊丹屋:いいんですよ。

    あなたの贔屓ひいきとしてこれほどうれしい事はない。

    約束の祝儀千両しゅうぎせんりょう、お出ししましょう!


佐野山:あ、ありがとうございます…!!


伊丹屋:あたしはこれから千両せんりょうかせいで、その家を買い戻しますから。


佐野山:い、伊丹屋いたみやさん……。


谷風:佐野山さのやま、おめでとうさん。


佐野山:た、谷風関たにかぜぜき

    先ほどは…本当にありがとうございました…!!


伊丹屋:横綱よこづな、あたしは佐野山関さのやまぜき贔屓ひいきをしとります、伊丹屋いたみやと申します。

    横綱よこづなの情け相撲ずもうだという事はよく分かっております。

    自分の顔をつぶしてまで佐野山関さのやまぜきに花を持たせていただいて、

    ありがとうございました。


谷風:手ぇ上げてくれ、伊丹屋いたみや旦那だんな

   わしは確かに情け相撲ずもうを取った。

   だが仮にも天下に鳴りひびいた横綱よこづな、負けてやる気はなかったんじゃ

   。

   じゃが土俵際どひょうぎわでうっちゃる直前、わしはうてしもうた。

   押せ! と。

   あんな力がまだ残っているとは思わなんだ。

   それで算段さんだんをしくじって、先に足が出てしもうたんじゃ。

   ははは…我ながら情けないわい。


伊丹屋:横綱よこづな、少しばかり足が出たくらいの事、何でもありませんよ。

    あたしは千両せんりょうも足が出ました。




終劇




参考にした落語口演の噺家演者様等(敬称略)


金原亭馬生(十代目)

桂文治(十一代目)

桂文我(四代目)



※用語解説


フンドシ担ぎ・:力士、相撲取すもうとりの別名。


貧乏神・:ここでの貧乏神は相撲界すもうかい十両筆頭じゅうりょうひっとうの別名を指す。

     本場所の取組は原則十両同士であるが、休場などにより幕内まくうち

     出場力士が奇数になった場合などには幕内力士と、関取全体の

     出場力士が奇数になった場合などには幕下力士と対戦すること

     がある。休場が多くなると複数の繰り上げ取組が行われ、特に

     終盤にはいわゆる「入れ替え戦」が多く行われる。これにちな

     んで、筆頭力士を「貧乏神」「瀬切せぎり」と称することがある。





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