第2話 高屋敷稲荷神社 その①
ここで話は二週間程前の日曜日に戻る。
午後二時頃。
その日隠津政成は福島県郡山市舞木町の比較的裏側、小高い丘の様になった所謂本宮農道と言われる場所を自転車で懸命に走っていた。
実際はそんなに慌てる必要も用事も無かったのだが、ただ三春方面から郡山方面に向かうその道の途中にある神社に、突然無性に行きたくなってしまったのだ。
政成はこの神社の前は何度か通った事があり、道路から境内へと向かう間の上り坂にある朱色の鳥居の数の多さには何度となくその方向を眺めた事はあったが、実際にその上へと上った事は無かった。
しかし今日は上る。絶対に上る。
そんな決意が突如目覚めたのは十五分程前、それは自分の部屋のベッドでダラダラゴロゴロと暇を持て余していた時の事だった。
きっと本当に困り果てた程に暇だったのだろう。
そうでもなければ今日の午前に一瞬触れた華奢な女子の指の感触を思い出す事も無かったであろうから。
それは突然だった。
暇潰しにコンビニに雑誌でも買いに行こうかと自転車を走らせて最寄り駅となる三春駅前を通過する時だった。丁度改札を抜け駅から出て来た中・高生くらいの少女の手から本の様な物が落ちるのを見かけたのだ。少女の恰好は白の半袖、紺色のスカート、夏物のセーラー服だろうか。スカーフは赤だった。この辺では見ない制服だとはその時の政成の感想。
彼女は定期か何かを、背負っていたリュックを片側にずらし仕舞おうとしていたみたいなので、その時にそれを落としたのだろう。
歩数にすれば数歩先の出来事だ。
政成は条件反射的に自転車を止めるとそれを拾って上げようとしたが、しかし拾う事は出来なかった。
何故ならば政成より先に、その落とした少女はリュックを手放すと直ぐに腰を曲げてそれを掴んだからだ。
だから政成はそれを拾う事は出来なかったが、偶然にもタッチの差の分、一瞬彼女の指に触れる事は出来たのだ。
「ありがとう」
立ち上がった彼女はそう言った。
それに対してサドルからお尻を前に落とし、片手でハンドルを持ち、もう片方の手で物を拾おうとした体制のまま、政成はその声で顔を上げそちらの方を向く。
「い、いや、拾ってないから」
慌ててそれだけを言い返しながら、その時政成は何処かで聞いた声だ、見た顔だと思った。
そしてその疑問は直ぐに答えが出る。
「あれ? 隠津くん? 久しぶりだね~」
彼女が政成の事を知っていたからだ。
その瞬間政成も彼女が中学の同級生の誰かだと気付く。
「あ、いや、人違いです!」
彼女がそう言った瞬間、中学時代の記憶が一瞬にして蘇った政成は、慌ててお尻をシートに戻し、両手でハンドルを握ると、相手に顔を見られない様に下を向いて猛スピードでそう言いながらペダルを漕いだ。
だから残された彼女がどんな表情で政成を見ていたかは謎だし、そんな事は今の政成にはどうでも良い事だった。ただ、今現在高校生活を順風満帆に過ごしている彼にとって、虐められていた事を知る中学時代の同級生は、現在会いたくない人達ランキングの上位である。
とにかく会いたくない、話したくない、関わりたくないのだ。
しかしそうは言っても会ってしまった以上自転車を飛ばして駅から急速に離れて行こうとしている政成の脳裏に、過去の出来事が思い返されない筈もない。
中学二年のクラス替えからほぼ同時に始まった数人のグループによる虐め。それは中学三年の受験勉強の期間に入り、一人また一人とグループから離れて行く事で自然消滅的に終わった。
そしてその間、政成は誰に助けを求める事も無くただひたすら一人耐え続けたのだった。
もし自殺したら親が悲しむだろう。
男子でも女子でも、クラスの誰かと親し気に話でもしたら、きっとその人達の事も巻き込む事になるだろう。
先生も駄目だ。先生達は間違いなく虐めているグループに馬鹿じゃあるまいかという様な質問をして、更に虐めを加速させる。
そんな事を考えると政成は、復讐心こそ滾らせながらも学校でも家でも静かにしているしかなかった。
しかし、田村東高校に進学してからは人生が一変。変わった。
流石に高校生ともなると、虐めが如何に恥ずかしい事なのかも理解し始めて来るのかもしれない。
普通に考えれば殺伐とした関係よりかは楽しい関係の方がこの先三年間良いに決まっている。
そういう事なのかどうなのかは政成の知る由では無いが、とにかく高校に進学してからは虐めは無かったのだ。政成にも政成の周りにも。
そんな事を考えながら政成は当初目的地のコンビニに着くと、嫌な気分への憂さ晴らしとばかりに表紙がグラビアアイドルの水着姿の漫画雑誌を購入した。
しかしこれが結果的に政成を神社へと誘う起爆剤となる。
政成は雑誌を買い家に戻ると、親と一緒に昼食を済ませ、直ぐに自室のある二階へと階段を駆け上がりベッドの上で本を持ったままうつ伏せになった。
嫌な事を忘れる為にこれから雑誌を読むからだ。
表紙の白いビキニの女の子は政成の方を向いて微笑んでいる。
縊れた細い腰の上に乗る血管が浮き出そうな程白くて豊満な胸は、しかしそのあどけなさの残った顔によって健康的なイメージを醸し出していた。
思わず政成の表情も緩む。
続いてページをめくると、最初には巻頭カラーでそのアイドルの写真が数ページ続いていた。
だから政成は先程まで思い出していた嫌な過去の事もすぐに忘れて、それらを顔をニヤ付かせながら眺めていた。
写真は水着姿ばかりではなかった。私服姿や今や懐かしい半袖体操服ブルマ姿など。
悦に入りページをめくる政成は、しかしその次のページでハッとした。
それは神社の拝殿をバックにアイドルの女の子が巫女の恰好をしている写真だった。
右上には大きく『夏詣』と書かれている。
しかし何よりも政成が目を惹いたのは、その彼女が手に持つ茶色い本の様な物だった。
それには表紙の右側縦に白い帯があり、『御朱印帳』と書かれている。
(これだっ!)
政成は内心叫んだ。
そうなのだ。先程政成が拾おうとした本の様な物に、まさにこの文字が書かれていたのだ。
だからだろう。その瞬間、政成の脳裏では先程駅前であった女の子の顔が鮮明に浮かび上がる。
黒縁の眼鏡に視力が悪い所為なのか大きな瞳。それから肩にかからない程度の黒髪はおかっぱの様できっと今風の何とかいう髪形なのだろうが、女性の髪形等政成に分る筈もない。
それから身長も低く、中学から成長していないのではないかと思うと、そこで政成は、
(だから中学の同級生だと直ぐに分かったのか)
と、一人納得した。
つまり彼女は中学の時と殆ど変わっていなかったのだ。
(たしか数人の女子のグループの中にいて、クラスの中では普通にモブだったと思う。そもそも当時誰とも関わっていない俺には、彼女との思い出等ある筈もないが、多分普通の女子生徒の一人だろう。うん、やっぱりモブキャラだな。しかし…)
そこまで考えながら政成は、眺めていたグラビアアイドルの顔や胸に、先程駅前で触れた小さくて柔らかい指の感触が、頭の中で融合して行くのを感じると共に、自分の股間の辺りが固く大きくなって行っている事に気付いた。
(嘘だろおい! 今はまだ日曜の昼間だぜ。何考えてんだよ俺!)
そう思いながらもベッドに擦り付けられている股間は、静まるどころかより一層大きさを増している。
(なんだよこれ? 水着のグラビアなんか見てたからか? それともさっき触れた女の子の指の感触なんか思い出したからか? どっちにしても不健全だろこんなの。昼間っから勃起して。俺らしくない! 俺らしくない!)
そう思うと政成は階段を激しく駆け下り、廊下から玄関まで早足で歩くと、ドアノブを引いて外へ出た。そして脇に停めてある自転車に飛び乗ると、そのまま猛スピードで道路へと出て行く。
とにかくモヤモヤした心と、大きくなった股間を鎮める為に、政成は体力を消耗し疲れ果て、精力を衰えさせようと考えたのだ。
そう言った変に健全性に拘るのも、本人は気付いてもいないかも知れないが
こうして政成は走り出した。
そしてそれは無意識のうちに自宅から一番近い神社の方へと向かっていた。
(高校に入って二年、今や普通に男友達もいるし、それなりに女子とだって話は出来る。なのに何故わざわざ良く知らない中学の同級生が頭に残るんだ? 中学時代のトラウマか? 恨みか? 復讐心か? 今の高校にだって同じ中学から来た奴は何人かいるじゃないか。女子だっている。しかしこんな変な感情になった事は無かったぞ。眺めていたグラビアアイドルが悪いのか? なんでそれとさっきの子が溶け合う様な感覚の中俺は性欲を滾らせたんだ。何故だ? 何故だ? 二人の顔は全く似てないじゃないか……だけど俺は、もう一度彼女に会いたいのか? 中学時代の話をされるかも知れないのに。思い出し笑いとかされるかも知れないのに)
そんな事を考えながらも結局の所自転車は、一つ目の坂の上を連なる鳥居達の前を通り過ぎ、砂利の敷かれた広い駐車場の中へと入って行った。
そこには正面左にアイスクリームの屋台の様な店があり、そして右には長い石段とその上を覆う様に連なる十数基の鳥居達が見えた。
「はぁはぁ」
自転車を降りた政成は既に相当疲れていて、もうとっくに股間の膨らみも収まっていた。
しかし何故、御朱印帳だけを頼りに試しに近くの神社まで自転車を飛ばして来たのか。
(彼女がいてもいなくても関係ない。俺はただ、今日は神社に来たかったんだ。あのグラビアを見た時から、きっとただそれだけの事なんだ)
だから政成は最後の力を振り絞る様に、石段真ん中の手摺りを頼りに、一歩一歩上を目指した。
考えてみると全く馬鹿馬鹿しい一日だった。
何かに振り回されたようで何に振り回されたのかも分からないまま、今はここに来ている。
そして遂に階段を上り終え、高屋敷稲荷神社の拝殿を目の前にした時、政成は一つの事に気が付いたのだった。
(ああ俺は、性欲の事は良く分からないけど、ただあの時嘘をついて逃げた自分を、やり直したかったんだな…)
そして拝殿の脇に立つ彼女。
「あれ、また会ったね」
つづく