032 勇者もおだてりゃ木に登る
今回の文章は一度削除したものを改稿して再投稿したものです
私がファンタジーを書くときの資料はいろいろあるが、そのひとつが、このエッセイでもよく名前が出てくるベニー松山氏による名著「ウィザードリィのすべて」である。
それによると、冒険者は明日をも知れぬ命のためか羽振りがよく、酒場の経営状態は良好らしい。きっとレアアイテムを見つけたら、ご祝儀として皆に酒を振る舞う者もいるのだろう。ゲーム中では1ゴールドも減らない(たしかファミコン版は、お金を山分けすると余りが消えた。飲食費と思われる)けど。
また、人気作品「ロードス島戦記」の前日談にあたる短編集でも、冒険者時代のカシュー王が「派手に稼いで派手に使うのが冒険者」と言っていた。
ゆえに私の書く冒険者は江戸っ子気質というか、被害を受けた村人とかに気前よく素材を与えたりする。だが、なぜ彼らは気前がいいのだろう? 明日をも知れぬ身ということは、いつ無収入になるか分からないということなのに。
散財による刹那的な快楽で恐怖を忘れようとしているのもあろうが、これはアレだ、喜捨だ。持つ者は持たざる者に惜しみなく与えるのが美徳というやつだ。
鷹揚なのはファンタジー世界の冒険者に限らない。ロビン・フッドは弓の対決をした相手に賞金を分け与えているし、借金で土地を奪われそうな人には、余分に金を用立てていた。
史実でも中世ヨーロッパ関連の本を読んでいると、王侯貴族が客人をもてなす際に椀飯振舞する散財ぶり、ぶっ飛んだ経済観念に呆れてしまう。だが君主たるもの、みみっちくてはダメなのである。
ウィリアム征服王が徴税のために行った検地の記録「ドゥームズデイ・ブック」が、政治的には画期的な業績でありながら、当の本人があまり誉められたこととしていない? のも同じ理由かららしい。「王様ともあろうものが、重箱の隅っこつつくようなマネすんなよ」という価値観があったのだ。
事情は洋の東西を問わない。私は「水滸伝」も参考にしているが、別作品に登場する女勇者がドラゴンの素材を寄贈しているのは、無頼の流儀というか、粋と男伊達が売り、強きをくじき弱きを助くのが美学、みたいな好漢に影響された感はある。
この辺は古今東西、地球も異世界も同じらしい。
だがそれだけではなかろう。嫌な言い方だが、ある種の強要だ。
勇者ともなれば、現代の芸能人やスポーツ選手が災害時に寄付しないとネットが炎上するように、施しを渋れば「強いけどケチだ」と噂が立つに決まっている。彼女は個人的な事情からドラゴンの死骸を嫌がっただけだが、それがなくても「どーせ寄贈しないとうるさいし」と考え、全部かは分からないが同じことをしただろう。
中世の農民は決して従順な羊ではなく、したたかに生きていたという。力ある者を持ちあげて作る「断れない雰囲気」が、彼らの武器だったのかもしれない。きっと勇者が自分から提供を申し出なかったら……
「勇者様がドラゴンやっつけたってよ!」
「さすが勇者! 俺たちにできもしないことを平然とやってのける! そこにシビレる! 憧れるゥ!」
「えっ!? ドラゴンの素材は町の復興に寄付!?」
「ひゃあ! 勇者ともなると太っ腹だ!」
(チラッ)
「まさか勇者様ともあろうものが……」
「独り占めなんてケチなまねはしませんよね?」
じーっ……。(←期待に満ちた眼差し)
みたいだったろう。
それにしても自分で書いといてなんだが、絶妙に人の神経を逆撫でする奴らだ。キラキラした目で物欲しそうに見つめてくるのが猫なら、なんでも要求を聞いてしまいたくなるのに。
かわいいは正義なのである。
勇者「誤解のないように言っておくけど、私のウエストは物理的には細いわよ」
村人A&B「こだわるポイント、そこ!?」




