第2話 魔の森
お茶会に参加した時のまま、水色のワンピースに白いソックス、ややヒールの高い水色のパンプスを履いていた。
継母に捨てられた、どう考えてもそれ以外の選択肢が思い浮かばない。
良き継母になろうとする姿勢を見せてくれた頃もあったのに。
ここは、おそらく魔の森と人々が呼ぶ大国ナバランドと隣国オーウェルズの国境に横たわる広大な森林であろう。
数十年前からこの森は、大型の魔獣が棲みつくようになり、森に入り込む人間は襲われ無事には出て来られないという噂を、メイドが話してくれた。
このような場所に捨てられたのは、アリステルが死ねばよいと思ってのことだ。
継母に死を望まれたことに傷つかなかったといえば嘘になる。
邪魔にされて、疎まれて、遠ざけられて、まだ足りぬほど嫌われていたのか。
悔しいのか、悲しいのか、腹立たしいのか。自分でもわからない負の感情がアリステルのすべてを覆ってしまいそうになる。
アリステルは暗い気持ちを振り払うように、プルプルと首を横に振ると、気合を入れて立ち上がった。
ここに留まれば、継母の思った通り、魔獣に食べられてしまうだろう。
そうでなくても食べるものにありつけず死んでしまう。
継母の望み通り死んであげるなんて絶対に嫌だと思った。
「よし!行ってみましょうか」
周囲を見回すと、アリステルの背後に草むらを踏みしだいた跡が残っている。
こちらの方向から連れてこられたのだろう。
この跡をたどれば、元いた方角へは戻れるかもしれない。
しかし、どこへたどり着くのか、なんの保証もない。
もし無事に戻れたとしても・・・もう伯爵家には戻れない。
今度こそ、確実な方法で殺されてしまうだろう。
大陸の北方には、遥か高い山々が峰となって連なっている。
その頂上付近には雪が積もり、一年中溶けることがないらしい。
南に行くほど標高が下がり、隣国オーウェルズへと続くことをアリステルは知っていた。
低い方へ、低い方へと歩いて行けば、オーウェルズ国にたどり着く。
そう信じて、南を目指して、元来たと思われる方向を背に歩き出した。
太い根が張り出している所は、半ばよじ登る形で乗り越える。
ぬめる地面に足を滑らせ、あっという間に靴のヒールは折れてしまった。
「…でも、この方が歩きやすいわ」
今日が満月でなかったら、少しも歩くことはかなわなかっただろう。
どのくらい歩いただろうか。
まだ夜が明ける気配はなかった。
果たして自分がどの辺りを、どこを目指して歩いているのか、そしていつまで歩けばよいのか。
不安に押しつぶされそうになると、木々の間から月を探し自分を励ました。
月を見上げていたせいで、急な斜面が目の前に広がっていることに気が付かなかったアリステルは、足を踏み外し、転がり落ちてしまった。
全身に痛みが走り、しばらく身動きが取れなかった。
「痛いわ…」
両腕の肘から手首にかけて、広く傷ができてしまい、じんじんと痛む。
靴は両足ともなくなってしまった。
斜面を登って靴を探すことなどできそうにない。
靴下も枝にひっかかり破けてしまった。
この時初めて、アリステルは泣きたくなった。
なんでこんなひどい目にあわなくてはいけないのかと、大きな声で泣きわめいてしまいたかった。
じわりと涙が目に浮かんだが、ぐっと唇をかみしめて、アリステルは耐えた。
「大丈夫よ。きっとお母さまが見守ってくれているわ…」
声が震えてしまったが、優しいお母さまの姿を思い浮かべることで、アリステルはまた立ち上がる気力が戻るのを感じた。
立ち上がろうと地面に手をついたが、疲れ切った体を支えきれず、アリステルはまた倒れた。
(もうダメかもしれない…)
弱気が気力を打ち消そうとしたその時、アリステルの荒い呼吸音以外の音が、ふいにアリステルの耳に飛び込んできた。
(水?…せせらぎ?川があるの?)
アリステルが滑り落ちた急斜面の底には沢があった。
半ば這うように先にある沢へ近づくと、浅く少ない水量であったが、たしかにそこは水が流れていた。
アリステルは震える手で水をすくい、恐る恐る口をつけた。
「美味しい!なんて冷たい水でしょう」
アリステルはのどの渇きが癒えるまで、何度も水をすくっては飲んだ。
(足を冷やしたいわ)
こんなに長く、険しい道を歩いたことなど、生まれて一度もなかった。
安全な街中の道ですら、歩いて移動したことなどないのが貴族の令嬢である。
アリステルは靴下を脱いで、靴ずれができて皮が剝けてしまった痛々しい足を沢にさらした。
冷たい水が心地よい。
小休止のあと、アリステルはその場に倒れこみたくなるほど疲れた体に鞭打って、立ち上がった。
沢の底はやや角の削れた丸っこい石がごろごろと転がっており、気を付けて歩けば、靴のないアリステルでもなんとか歩いて行けそうだった。
沢を伝って下って行けば、きっと海に出る。
(オーウェルズの港町につながっているのではないかしら?)
そう目途をつけ、アリステルは細い沢を歩いた。
あとどのくらい歩けば森を抜けるのか見当もつかなかったが、飲み水があることが、アリステルを勇気づけた。
アリステルが水を切って歩く音以外何も聞こえないほど静まり返った森に、その時かすかに獣が低くうなる声が聞こえ、アリステルは立ち止った。
そう遠くない場所に、獣がひそむ気配を感じる。
ちょうど近くの大木のやや高い位置に、大きめのうろを見つけ、そこに身をひそませようと沢から急いで上がった。
ハッ、ハッと獣の息遣いが、右からも左からも聞こえる気がして、アリステルは焦った。
必死に大木によじ登ろうとしたが、疲労困憊した体にはもう、それだけの力が残っていなかった。
あと少しでうろに手が届こうという所で、手が震え、体を支えきれずザザザッと落ちてしまった。
「ガルルルルッ」
獣がうなりながら飛びかかってこようとする中、
(もうダメ・・・)
アリステルは目を閉じた。