【理系】走るなメロス【考察】
太宰治の短編小説「走れメロス」の主人公メロス。
彼は「どれほど速く」走ったのか。
そして「どうやって」それほど速く走ったのか。
我々は「メロスの本気」を正しく知らねばならない。
◇
まずメロスが「どれほど速く」走ったのかについて考えてみよう。
物語の終盤、メロスはラストスパートをかけて王様のもとへ急ぐ。その速さは
「野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴けとばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った」
とある。
では「少しずつ沈んでゆく太陽」は、どれほどの速さか?
太陽が沈むというのは、地球が西から東へと自転するのに伴う現象である。従って地球の自転速度を求めればよい。地球はおおむね球体なので、北極や南極に近いほど自転速度は遅くなり、赤道に近いほど自転速度は速くなる。
物語の舞台は、冒頭に
「きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれたこのシラクスの市にやって来た」
とある。
シラクスというのは、地中海にあるイタリア共和国シチリア島の南東部に位置する都市(今の時代には「シラクサ」や「シラクーザ」と表記される)であり、おおむね北緯37度――この位置での地球の自転速度は、およそ時速1300キロメートルになる。
メロスは、その10倍も速く走った。時速1万3000キロメートル。およそマッハ11である。
人類最速の男ウサイン・ボルト氏は、100mを9秒58で走った。
2009年、ドイツのベルリンで開催された世界陸上競技選手権大会での事だ。
メロスは100mを、0秒02で走る。
◇
メロスの速さが明らかになったところで、次に「どうやって」それを実現していたのかを考えねばならない。
というのも、マッハ11で走れるほどの脚力というのは、垂直跳びで665キロメートルも跳び上がってしまい、国際宇宙ステーションをも跳び越える事になる。であれば、普通の走り方では体が跳び上がってしまい、1歩走ると6分間は着地できないので、「走る」という行為が不可能になる。
まず配慮しなければならないのは、地面を「下へ」蹴ってはならぬという事だ。従って足の運びは水平に、足を持ち上げることなく進まねばならない。剣道などで見られる「すり足」だ。古武道では、地面を蹴ることなく、膝を抜いて崩れ落ちるように進むべし、と言われる。そのような走り方であれば、跳び上がることなく走れるだろう。
ところが、これで解決とはいかない。
空気抵抗について考えねばならないのだ。
足は地面を蹴って前へ進もうとする。しかし上半身は「推進力」にならない。ただ正面から来る風を受けるばかりだ。すると何が起きるか。
音速というのは、物体の正面で空気が圧縮され、その抵抗力は航空機を破壊するほどだ。事実、超音速機を開発しようとしていた頃、そのようにして失敗する例があった。
マッハ11――音速の11倍ものスピードで前進せんとする下半身に対して、まるで推進力のない上半身は、ただただ鋼鉄の壁のごとき空気抵抗を受け、その場にとどまってしまう。結果、鉄棒で逆上がりするようにしてひっくり返ることになる。前へは進めない。
この問題を解決する素晴らしい方法がある。
頭の位置を腰より低く保つのだ。
クラウチングスタートの姿勢を、そのまま保って、上体を起こさずに走る。
こうすれば、空気抵抗を背中で受けることになり、その傾斜によってダウンフォースが発生する。空力によって足が地面に強く押し付けられることになり、跳び上がってしまう問題も緩和できる。まさに一石二鳥だ。
頭を低く、お尻を高く――力士が土俵上で向かい合い、「はっけよい」の直前、「見合って見合って」の姿勢。
そのまますり足で加速し、背中で空力を得ながら、マッハ11に加速する。
だいぶ変態な走り方だが、これなら跳び上がったりひっくり返ったりせずに、マッハ11で走ることができそうだ。
◇
メロスの「速さ」が明らかになり、その「走り方」も分かった。
従って、メロスの身体能力から考えられる「作中の矛盾」も、どうやら解決できそうだ。
物語の中盤、メロスは荒れ狂う川に差し掛かる。橋は見当たらず、渡し船も出ていない。しかしセリヌンティウスを助けるためには、何としてもこの川を越えていかねばならない。
「メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した」
メロスは川に飛び込んで、泳ぎ始めたのだ。
なぜ、わざわざ飛び込んで泳ぐのか?
垂直跳びで665キロメートルもジャンプできるのだから、川の1つや2つ簡単に跳び越えていけるだろうに。
ちなみに世界一「幅の広い川」は、南米大陸のアルゼンチンとウルグアイの国境を流れるラプラタ川で、その川幅は275キロメートルもある。メロスなら助走なしで軽く跳び越えられる距離だ。
この矛盾の答えは、おそらくジャンプしすぎてうっかり宇宙空間に飛び出してしまうのが心配だったからだろう。
国際航空連盟という組織が、高度100キロメートルから上を宇宙と定義している。
重力が弱まった影響で空気がほとんどなくなる高さであり、一応は「大気圏の中」であるものの、一般的に宇宙空間と定義される。
メロスは、確かにマッハ11で走れるのかもしれない。垂直跳びで665キロメートルも跳べるのかもしれない。だが宇宙空間に飛び出して、オゾン層に軽減されていない強烈な紫外線にさらされたり、空気のない場所に数分間もとどまったりすると、さすがに無事では済まないのだろう。
気温だってマイナス90度から1000度まで上がったり下がったりするので、どんな服装で行けばいいのか分からない。
あるいは、冷却のためにわざと飛び込んだという可能性もある。
マッハ3を超えようとすると、空気の断熱圧縮によって350度を超える高温になる。「熱の壁」といって、航空機の主たる素材であるアルミ合金はこんな高温になると溶けてしまう。
それがマッハ11ともなれば、空気抵抗を受けている頭や背中がかなり熱かったに違いない。そのような高温にさらされては、いくらメロスが超人でも、水に飛び込みたくなったって不思議ではない。
◇
余談だが、メロスはおそらく「水面を走る」とか「空中を走る」という事が可能だった。
人間が水面を走るには、時速106キロメートル以上で水面を蹴らなくてはならない。これは常人の脚力の15倍ものパワーが必要で、一流格闘家でもキックの速さは時速50キロメートルほどだというから、人間には無理ゲーである。しかし時速1万3000キロメートルで走れるメロスなら楽勝だ。
空中を走るのは、もっと無理ゲーになる。人間が空中を走る場合には、足が空気を蹴る速度がマッハ3ほど必要だ。それでも滑空するように少しずつ落下するが、メロスのようにマッハ11ともなればむしろ浮き上がれる。
ただし、空中を走る場合には少し工夫が必要だ。足を上げるときに「空気を上へ蹴り上げる」ことになってしまい、空気を踏む力と打ち消し合ってしまう。そのため「ゆっくり足を上げて」「素早く足を下げる」という動作が必要になる。
ならば、なぜメロスはわざわざ泳いだのか? 水面を走った方が速いだろうに。
すでに述べた通り、ジャンプしたほうが早いというのが結論だ。実際にはメロスは泳いだが、ジャンプして跳び越えられる以上、わざわざ水面を走る必要はない。
そしてメロスの脚力をもってすれば、うっかり宇宙へ飛び出してしまうという事故が起こりえる。水面を走ろうとして、うっかり川底の岩でも蹴ってしまったら……無事は保証できないのだ。
そして作中では
「満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻かきわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐愍を垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである」
と、やけに苦労して泳ぎ渡ったように書かれているが、メロスほどの脚力ならバタ足で気軽に遡上できる。
あえて腕を使ったところに、メロスの「事故を回避したい」という慎重さが見て取れる。
◇
さて最後になったが、我々はこうした「メロスの本気」を、いよいよ我が事として正しく理解せねばならない。
物体が空気中を音速で移動するという事は、衝撃波が発生する。
それは速度が高いほど強烈なものになり、マッハ11で走るメロスの周囲、半径2キロメートル以内のガラスがことごとく割れる。
「野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴けとばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った」
酒宴の席にあった料理は吹き飛び、酒は樽かビンかを問わず砕けて飛び散り、ひどい有様になったことだろう。酒宴の人たちも、仰天したのは「いきなりメロスが駆け込んできたから」ではなく、彼ら自身が衝撃波で吹き飛ばされ、ソニックブームの大爆音で鼓膜をやられたからだと推測できる。蹴飛ばされた犬は、原形もとどめず木っ端みじんの肉片と化しただろう。
なんとも迷惑な話である。
「陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く刑場に突入した」
疾風のごとく――マッハ11で走れるメロスも、いよいよ体力を使い果たしたらしく、せいぜい疾風ていどの速さしかなかった。音速を大きく下回る。メロスにとっては歩くも同然の速度だろう。
せめて最初からこの程度の速さであったなら、酒宴の人たちも吹き飛ばされず、犬も木っ端みじんにならずに済んだだろう。
被害を受けた人たちは、そろってこう思ったに違いない。
走るなメロス




