78話「狼の目」
生まれた家と職業のおかげで、高貴な身分の者と関わる機会は多かった。そのため、人から見られることにはある程度慣れているつもりである。
そうは言っても、聖女ともなれば一介の貴族よりよほど人の目に囲まれることになるものなのだと、レオ・ウサミの姿を纏った今になって思う。第三者の視点から客観的に観察することと、本人の視点から主観的に目の当たりにするのとでは、やはり雲泥の差があるのだ。
聖女を取り囲む好奇、憐憫、そして悪意を含んだ眼差し。これを貴族でも何でもないという庶民出身の少女が一身に受けているという事実を理解すると、聖騎士の役割は必ずしも聖女の護衛に留まらないと言っていた友人の言葉が思い起こされるようだ。
あの事件以来、聖女の周りは聖騎士数人が囲み、来賓が下手に近付くことも許されない空気にある。だからこそ周囲の者たちはこちらに視線を向けこそすれ、声をかけてくることはない。それをいいことに、ボクは聖女としての仮面が剥がれない程度に、周囲の観察に徹することができていた。
新聖女のお披露目パーティーとあって、来賓の多くはネロトリアの貴族界に名を馳せる大家の人間ばかりだ。
「紹介します。こちらは娘のヴィヴェカ。さぁ、ご挨拶を……おや? ヴィヴェカ、そのお菓子はどうしたんだい?」
「聖騎士のおじさまからいただいたのよ、お父様」
「ははっ、さすがはヘットナー家のご令嬢、幼いながらも聡明でいらっしゃいますな。パーティーの直前に怪我をして来られなくなった愚息に見せてやりたいものです」
「おほめにあずかり光栄でございます、ヘーディケ卿。ごしそくは活発なお方と聞いております。ぜひお話をお聞かせいただけますか?」
小さな袋に入ったクッキーを手にご機嫌な様子のヴィヴェカ・へットナーは、侯爵家であるヘットナーの一人娘だ。ヘットナー家の娘として、淑女としての教育を叩き込まれているであろう彼女は、教えられた通りの上品な挨拶でへーディケ氏への礼を述べる。
話に出たへーディケ氏の息子は、確かヴィヴェカ嬢より三つ年上だったはず。両家の関係も決して悪くないことを考えるに、将来の婚約者候補といったところなのだろう。相変わらず人を人として扱うことを許さない貴族の在り方にうんざりしながら視線を移せば、賓客の目につかない場所で話し合う使用人たちの姿が目についた。
「おい、こっちを手伝ってくれ。メイドが一人体調を崩して仕事を抜けたんだ」
「何だって? はぁ……もうめちゃくちゃだな」
「仕方ないさ。ヘルミーナはもともと丈夫なたちじゃないってのに、連日パーティーの準備で休めてなかっただろ。おまけに当日になってあんなことまで起きちまったしな」
そんな会話だけを残して慌ただしく去っていく使用人を見送り、仕方なくまた貴族の群れへと視線を戻した。
右を見ても左を見ても、貴族、貴族、貴族。先ほどまで近くにいた使用人も、別の仕事でどこかへ行ってしまった。ボク個人としては辟易するような光景だが、友人のためともなれば、ただ座ってぼんやりしているわけにもいかない。行動範囲は限られているものの、できるだけ情報を集めなければと会場へ目を走らせていると、人混みの隙間から何かを探すように辺りを見回す人影を捉えた。そばに連れの姿はなく、どうやら人を探しているようだが、すぐに人混みに紛れて見えなくなってしまう。
これだけ人がいればはぐれてしまうのも無理はないが、そもそもこうした場を連れもなしに歩くというのはそれなりに目立つものだ。これは聖騎士としてではなく、貴族としての性分なのだろう。相手を失脚させる機会を逃さない、人というより獣のような習性にため息をこぼしたそのとき、ふとボクの目の前に影が落ちる。ボクの──正確には、聖女様の姿をしたボクの前に、誰かが立っているのだ。
「おい、貴様……」
「あっ、この人は大丈夫です!」
彼の容姿から身分を特定して、咄嗟に護衛の聖騎士を制する。目の前に佇むその人物は、脇に控える護衛には目もくれず、ただボクを訝しむように見つめたのち、確かめるように呟いた。
「……アンタ、ウサギさんッスよね」
明らかにこちらを観察していると分かる無遠慮な眼差しに、改めて人狼族の勘の鋭さを思い知る。
明るい茶髪に橙色の瞳、少し砕けた言葉遣い、それから微妙に間違えて覚えているらしい呼び名まで揃えば、手がかりは十分だ。彼が聖女様の言っていたルイス・バトラー氏と見て間違いないだろう。
人間とそう変わらない見た目でありながら、人間よりずっと鋭い鼻を持つ彼に正体を見破られることがないよう、匂いまで消したはずだというのに、一体どこで疑念を持たれたのだろうか。
仮にも聖女関係者である彼にまで正体を隠す必要はないが、ここでボクの正体が明らかになってしまう事態は避けたい。
そこでボクは、見知らぬ人間ばかりがひしめく中、ようやく知り合いを見つけたような安堵の表情を添えつつ、困ったように眉尻を下げる。
「ルイスさん、わたしの名前はウサギじゃなくてウサミですよ。そろそろ覚えてください」
「大して変わんないじゃないスか」
恐らく聖女様にとっては何度目かになるであろう指摘を口にすれば、バトラー氏は気だるげに肩をすくめた。
そばにアレクサンドラ様の姿はない。となると、やはり何かを確かめるため単独でボクの元へやってきたようだ。
「アリーは一緒じゃないんですか?」
「パイセン見つかったんで、今はパイセンがついてるッス。そういうわけなんでお嬢に代わって様子見に来たんスよ」
その言葉の真意は分からないものの、アレクサンドラ様に代わってという部分は、聖女様から事前に聞いていた彼女の人物像とも一致する。
貴族界でのアレクサンドラ様は、コルトリカの貴族令嬢と、聖女という二つの顔を合わせ持ち、それ故に自身にも他人にも厳しい方だと聞いていたが、どうやら素の彼女は心優しい少女のようだ。同じ聖女同士、本音で語り合える部分もあるのかもしれない。
「アリー、心配してくれてたんですね」
「絶対認めないッスけど、相当ソワソワしてたんで間違いないッスよ。さっきよりはマシな顔色で何よりッス。聖女ってのはお嬢みたく図太くなきゃやっていけないッスからね」
主人に対してもあまりに容赦のない物言いに思わず苦笑いを浮かべるが、当のバトラー氏はどこ吹く風だ。
コルトリカのボールドウィン家といえば、ネロトリアでいうエーレンベルク家やティーレマン家に匹敵する大貴族だ。アレクサンドラ様個人の執事とはいえ、執事とするにはあまりに自由すぎる彼を上手く従えられるのも、アレクサンドラ様の度量ゆえなのだろうか。
「にしても、案外平気そうッスね。普段のアンタを見る限り、じっとしてらんないっつってこっそり抜け出しそうなもんスけど」
「わたしを何だと思ってるんですか……わたしが抜けたらたくさんの人が困るって分かってるのに、そんなことしません」
まるでこちらの状況を見透かしたような発言に内心冷や汗を浮かべつつ言うと、バトラー氏はどうにも疑わしいと言いたげな顔でこちらを見つめてくる。
実際問題、仮に今ここにいるのが聖女様だったとして、この状況に対して何の不満も抱かず座っていることなどできなかっただろう。きっと聖女としての取り繕った顔からも不安が滲み出ていたに違いないのだから。
それらの推測を踏まえて、聖女として気丈に振る舞う姿を少し緩め、年相応の少女が見せる不安を忍ばせた。
「本当はフィリップさんのそばにいたいんですけど、いつまでも聖女不在のままってわけにはいきませんから。捜査の方はフィリップさんの同僚の人たちが上手くやってくれると思いますし……報告を待つしかないですね」
「そうした方がいいッスよ。あのときみたいに自分で捜査なんてしようもんなら、フィリッポさんが黙ってないッスからね」
しかし、それでも彼の疑念を晴らすことはできなかったのか、バトラー氏はさりげなく外部の人間には知りようのない魔法学校への潜入について言及してくる。
聖女を潜入捜査に向かわせるなどという前代未聞の出来事は、当然ネロトリア王国における国家機密に相当するものだというのに、バトラー氏が何故それを知っているのかと周囲の聖騎士たちがこちらに目をやる。しかしここで聖女様とフィルが潜入先でバトラー氏に正体を暴かれたと話すわけにもいかず、気付かなかったふりをしてやり過ごした。
彼が魔法学校でフィルと聖女様の変装を見破った理由、そしてボクが演じる聖女様の姿に何らかの違和感を感じて接触してきた理由は、恐らく同じ人物に行き着く。そう考えると、こちらに探りを入れてきたこと自体は、そこまで不自然というわけでもなかった。
「分かってますよ。今回は前みたいにフィリップさんと一緒に調べるわけにもいきませんし。わたしとしては、元気に飛んできてくれた方が嬉しいんですけど」
「そういうこと言ってると、本当に飛んでくるんじゃないスか?」
「そうなるためにも、捜査の方が順調なことを願います」
穏やかな笑みの下で繰り広げられる腹の探り合い。こうして直接接触を図ってきたということは、最も有力な手がかりである匂いを封じられたことで、目の前にいる聖女様の正体に確信が持てていないということだ。
それならば決定的な証拠を掴まれない限り、少なくとも負けることはないはず。そう踏んで尻尾を掴まれないようのらりくらりと彼の追求をかわしていくと、ようやく諦めがついたのか、あるいは聖女関係者しか知り得ない情報を握っているという点から、主人に害をなす存在ではないと理解したのか、バトラー氏は今一度ボクをじっくり観察してから鼻を鳴らした。
「まぁ何にせよ、元気そうで何よりッス。あんまり長々話してると脇の兄さんたちがおっかないんで、オレはこの辺りで」
「ありがとうございます。アリーにもよろしく伝えておいてください」
「アンタが直接言った方がいい気もするッスけど、まぁこういう状況なんで、言っておくッス」
仮にも聖女様──それも自国ではなく他国の──を「アンタ」呼ばわりする彼に新鮮な驚きすら覚えつつ彼の背中を見送ると、不意にその背中が立ち止まり、バトラー氏がこちらを振り返る。
「そういえば、お嬢が渡したあれは役に立ったッスか?」
「『あれ』ですか? ……ああ! もちろんです。おかげで助かったってアリーに伝えておいてもらえますか?」
バトラー氏の言う「あれ」が具体的に何を指すものかは分からなかったが、それが何であっても対応できるよう、当たり障りない言葉を返す。
役に立ったかどうかを尋ねるあたり、それを渡されたときの聖女様は、それの用途やアレクサンドラ様がそれを渡した真意を理解できていなかったはずだ。となればきちんとした礼もまだ済ませていないに違いないと思い、伝言として託してみたのだが。
「それは本人が言うべきことッスよ」
面白いものを見る顔でそう言い残し、さっさと背中を向けて去っていったバトラー氏の様子を見るに、どうやら的外れな回答だったらしい。
恐らくこの問答の前から、バトラー氏は目の前の聖女様が偽物であることに確信を持っていたのだろう。その上でこうして鎌をかけてきたということは、彼が正体に気づいていることをボクに知らせるためと考えた方がいい。
人狼の彼に変装を暴かれないよう、匂いまで徹底して誤魔化したはずだというのに、どうやらそれでは不十分だったらしい。聖騎士になって数年、変装はお手のものだと思っていたが、ボクもまだまだのようだ。与えた情報から、ボクが少なくともアレクサンドラ様を害する立場の者でないことが伝わっていることを願うばかりである。
バトラー氏の背中を目で追うと、遠くから彼を探していたと思しき小柄な少年に声をかけられているのが確認できた。
「ルイス君、召集がかかりました。聖騎士の方々がお呼びですよ」
「お嬢はどうしたんスか?」
「他国聖女の皆様とご一緒です。我々も早く向かいましょう」
聖騎士からの呼び出しと聞き、あからさまに面倒そうな顔をしたバトラー氏だが、主人が既に向かっていると聞けば動かないわけにもいかないようで、渋々といった様子で少年の後を追う。
彼らが向かう先にいるのは、果たして本物の聖騎士か、それとも聖騎士になりすました聖女か。考えるまでもなく後者であることを悟ったボクは、聖女様のお転婆が友人の胃を突き破らないことを祈ったのだった。




