73話「急転」
乾杯というより、挨拶を目的としたプログラムだと思う。
始めにパーティーの参加者一人一人と一言ずつ挨拶を交わし、全員が揃ってから改めて全体に向けた挨拶をして、乾杯と称した挨拶をもう一度。
交流の時間もほとんどが参加者との挨拶に消えていくのだから、都度小難しく覚えにくい言葉を並び立てなくとも、「こんにちは」「楽しんでいってくださいね」くらいで構わない気がする。
とはいえ、このパーティーに関わる何百人のことを思えば、主役の俺が適当な真似をするわけにもいかないというのも分かる。それならばせめて挨拶の回数を減らせないものだろうかと、配られた飲み物を見ながら考えていた。
いわゆるウェルカムドリンクというやつなのだろう。透明なジュースに浮かぶ白い花は、確かネロトリアの国花だ。公務で何度か目にした覚えがある。
他の参加者の飲み物を見たところ、どの飲み物に浮かぶ花も参加者が纏う服の色と同じ色をしていた。ネロトリアなら白、コルトリカなら赤、ユーデルヤードは黄緑で、シノノメは薄紫といった具合に、それぞれの国花の色がドレスコードになっているらしい。参加者の多くは白い服に身を包んだネロトリア人であるため、白の中に時折別の色が混ざることになる。どこかひやむぎを思わせる色合いだ。
思えば俺のドレスのあちこちにも、大陸各国を象徴する色が差し込まれている。和服のように大きく広がった袖の内側は淡い緑、フリルはピンク、腰に巻かれた大きなリボンは薄紫という具合に、それぞれの国の色をそれとなく織り込んでいるのだ。いずれも白に近い色合いのため、ネロトリアの色である白を損なうこともなく、上品な仕上がりになっている。服飾系の仕事に就いている姉が見たら、きっと感動しただろう。
ドレスには素人から見てもかなりのこだわりが感じられるが、飲み物一つとってもかなり手が込んでいる。飲み物にそれぞれの国の花を浮かべる工夫はもちろん、花の周りには宝石のような小さい木の実がちりばめられ、添えられたミントが水面に揺れて涼しげだ。
グラスの淵に飾られた果物は、鳥の羽のような形を模している。柑橘系の果物をくし切りにして、両端の皮と実の間に包丁を入れることで、目と舌で楽しめる飾りとしたのだろう。
さらに何やら果物の皮をバネ状に巻いた飾りも入っているが、皮だけでは流石に何の果物かを推測することはできない。とにかく手がかかっていることだけは理解できる気がした。
「聖女様、準備はよろしいですか?」
イーザックさんに声をかけられ、乾杯の時間が迫ってきていることに気付く。これまで何度も練習してきたとはいえ、いよいよ本番となるとさすがに少し緊張してしまい、思わず自信なさげな言葉がこぼれた。
「たぶん……挨拶してから乾杯の合図ですよね。噛まないといいんですけど」
「大丈夫ですよ〜。パーティーの流れを把握しているのは運営側だけですから、多少の失敗は気付かれません」
「そんな感じでいいんですか?」
「心配しすぎない方が上手くいくってことですよ」
その運営側がこうも適当でいいものだろうかと思ってしまったが、気負いすぎても良くないというのは本当のことである。イーザックさんの言う通り、何か失敗したときはアドリブで乗り切ろうと自分に言い聞かせ、マイクと同じような役割を持つ拡声の魔具の前に立とうとしたそのとき、アンネさんに呼び止められた。
「礼央様、お待ちください」
振り返ると、アンネさんは自分のグラスを掲げ、俺のグラスに少し近付ける。そして何かを比べるように観察したのち、何かに納得したように頷いた。
「やはり、グラスが少し汚れております。私のものと交換いたしましょう。まだ口をつけてはおりませんので」
「いいですよ、そんなに目立つわけでもないでしょうし。っていうか、汚れてますか? 全然綺麗に見えますけど……」
綺麗に磨かれたグラスは汚れどころか曇りひとつなく、グラス越しに会場の様子を眺めることすら容易い。アンネさんの言う汚れなどどこにも見当たらずに首を傾げていると、汚れを見つける前にグラスを取り上げられてしまった。代わりとでもいうように、先ほどまでアンネさんが持っていたグラスが俺の手に降り立つ。
「グラスの汚れや曇りは、礼央様だけでなく我々の評価にも繋がりますので、どれだけ些細な懸念も見逃せないのです。ご理解ください」
半ば強引によく分からない理由でグラスを交換したアンネさんは、自分のものだと印をつけるように、グラスに入った飲み物を一口。
乾杯前に飲み物を口にするのはマナー違反には当たらないのだろうかという考えが視線に滲んでいたのだろう。アンネさんは困ったような笑みを浮かべて、こう付け加えた。
「パーティー中は出されたものを召し上がらないようにと申し上げましたが、乾杯だけは例外です。礼央様だけがお飲みにならないのは不自然ですので、ほんの一口、口元を湿らす程度にお飲みください」
「じゃあ、今のは予行演習ってわけですか?」
「ええ。喉が渇いたからといって、飲み干してしまわないようお気をつけくださいね」
「分かってますよ、子どもじゃないんですから。ダンスの前にお腹いっぱいになったりしません」
「それは何よりです」
相変わらずの扱いに不満を覚えながら言い返せば、返ってくるのはやはり小さな子どもを相手にするような笑み。自分が子どもかどうかで張り合う時点で子どもだと言われているようで悔しかったが、ここでそれを指摘するのはいよいよ子どものすることであるため、今日のところは飲み込んでおくことにした。
アンネさんから受け取った飲み物を手に、拡声の魔具の前に立つ。グラスを胸の前に持ち、柔らかな笑みを浮かべてから、会場へと目をやった。
「皆様、本日は足をお運びいただき、ありがとうございます。聖女就任から数ヶ月と期間が空いてしまいましたが、こうしてお披露目という場で皆様のお目にかかれることを、誠に嬉しく思います」
思えばこの数ヶ月、俺は体調を崩したり、誘拐されたり、聖女集会や魔法学校で問題を起こしたりと、聖女らしからぬ出来事をいくつも引き起こしてきた。
それでもこうしてお披露目の場に立つことができているのは、俺をここまで死なせず導いてくれた人たちの存在があってこそだろう。
そう考えれば俺がこうして無事にお披露目パーティーに出席できているのは、ある種の奇跡ともいえることなのかもしれない。
「本日は新聖女お披露目の場ということで、各国聖女の皆様や代表者の方もいらしています。このように皆様が一堂に会する機会というのはそうございませんので、ぜひ親睦を深める機会としていただければ幸いです」
公務でスピーチをするとき特有の、飾り立てた言葉が口の中で浮き上がるような感覚を覚えながらスピーチを締めくくる。これさえ乗り切ってしまえば、残るは乾杯の合図だけだ。
「それでは乾杯に移ります。皆様、グラスをお持ちください」
教わった通り、グラスを胸から顔の高さまで掲げると、会場のあちこちから氷とグラスのぶつかる音が聞こえてくる。グラスの合奏のようだと思いながら、乾杯の合図を口にした。
「各国の平和と繁栄を祈念いたしまして、乾杯!」
無事に挨拶を終えてほっと息をつく間もなく、渡された飲み物に口をつける。上品な甘さが香るジュースは冷たくて美味しそうだが、口に含む程度にするよう言われているため、実際に口に入るのはほんの少しだ。
何となく名残惜しいような気持ちでグラスから口を離すと、会場は再び賑わいを取り戻し始める。いよいよ次は来賓との交流の時間。今度こそ聖女関係者以外とも話をしようと意気込んだそのとき、後ろから発せられた違和感。
呻き声だ。
「……フィル?」
イーザックさんの緊張を帯びた声に振り返れば、アンネさんが口元を押さえて苦しみ始め、そのまま床に倒れ込んでしまった。床に落ちたグラスが、派手に音を立てて散る。
イーザックさんは俺を後ろ手に庇って周囲を警戒、フランさんはアンネさんに駆け寄り、嘔吐の症状が現れた彼の体を横向きに寝かせた。アンネさんは苦しそうに唸っていて、他の聖騎士たちは騒つく会場を宥めたり、人を呼びに行ったり、逼迫した状況下でも各々冷静に対処している。それを、ただ見ていた。
名前を呼ぼうにも、彼の秘密の名前ばかりが喉に引っかかって声が出ない。駆け寄ろうにも、足が床に縫い止められたように動かない。
動揺は次第に会場内にも波及し、喧騒は抑えがたくなっている。俺を呼ぶ声がいくつも聞こえる。危険だとか、下がれだとか。今ここで最も危険に晒されているのは俺ではないというのに。冷静な自分が心底呆れたようにそんな言葉を吐いた。
数多の人の悲願で構成された完璧なパーティーが崩れ去る音を聞いていたこのとき。俺は俺を現場から引き剥がそうとするイーザックさんの声を聞きながら、いつまでも聞こえないアンネさんの息遣いを追いかけていた。




