番外編5「前略 異世界の君へ」
高校最初の夏休みは、驚くほど何もないままに過ぎ去っていった。去年のオレは一念発起して受験勉強に明け暮れ、一昨年のオレは人並みにバカなことをして過ごしていたように思う。
今年の夏休みは、何もなかった。いいことも、悪いことも。
「お昼、まだだよ」
屋上で寝転がり、憎たらしいほどに青い空を眺めていると、視界の隅から人の顔が割り込んできた。見知った顔だったせいで、新鮮な驚きも襲ってこない。
返事の代わりに体を起こし、度の入っていない眼鏡を押し上げれば、そいつはどこか誇らしげに鼻を鳴らす。何故そうしたのかはまるで分からないが、理解しようとするだけ無駄だということは理解していたため、それについて言及することはしない。
「サボりだ。不良の良ちゃんだ」
「もっちゃんもだろ。何て言って抜けてきたんだよ」
「トイレ」
「どんだけでかいの出す気だ」
適当すぎる言い訳に呆れながら言うと、もっちゃんこと茂木猛はオレの隣に腰を下ろし、似合わないあぐらをかく。それから、何でもないことのように呟いた。
「うさくんの机、なくなってたね」
「…………」
うさくん。宇佐神礼央。派手な地毛に派手な目の色、大人しそうな見た目の割に喧嘩っ早く、すぐに面倒事に首を突っ込みたがる性分で、数ヶ月前から行方が知れない、俺たちの友達の名前だ。
捜索願は早々に出されたが、数ヶ月経っても手掛かりの一つも見つからず、とうとう学校側は宇佐神が戻ってくる可能性を諦めたらしい。行方どころか、生死も明らかになっていないにもかかわらずだ。
行方不明の生徒をまるで死人のように扱う学校側の対応に、思うところがないわけではない。しかしここでオレが派手に暴れて宇佐神の机を教室に戻したところで、あいつが戻ってくるわけではないことも分かりきっていたため、形ばかりのストライキとして入学後初のサボりを決め込んだわけである。
「……ケーサツの野郎、オレのことしょっぴくのはやたら早かったくせに」
「それは良が派手にやりすぎたからじゃないの。あの辺り仕切ってたんでしょ?」
「中学ん時の話だよ」
中学の頃はそれなりの頻度で警察の世話になっていたが、将来なりたいものを見つけてからは真面目に勉学に励み、髪を黒く染め、制服を真面目に着こなし、伊達眼鏡をかけた。少しでも賢く見えるようにという意識からだ。
お陰で最近は夜道を歩いていて補導される回数は随分と減った。少し見た目を変えただけで、俺が以前散々警察に補導されていた佐伯良であることを見抜けなくなるような警察なら、今に至るまで宇佐神を見つけられないのも納得がいくかもしれない。
「もっちゃん、寺の息子なんだろ。ちょっと見えるとか言ってたし、そういう霊感レーダーみたいなので見つけられたりしねぇの」
「無理かなぁ。見えるっていうより、何となく『いる』なって思うときがあるくらいだし。うさくんにくっ付いてた人も、いたりいなかったりで不思議な感じだったから、辿るのは難しそうだよ」
さらりと心当たりのない背後霊の存在を暴露され、少し背筋が冷えるのを感じながら、肩の辺りを適当に払ってみる。霊感があるというもっちゃんが側にいると、見えないならいないのと同じと言えないのが辛いところだ。
「幽霊って元々そういうもんなんじゃねぇの? 出たり消えたり」
「消えるんじゃなくて、別のところに行ってるみたいな……上手く言えないけど、すごく遠いところにいる人の生き霊か何かなのかもね。うさくんが怖がるから、本人には心当たりについて聞けなかったな」
もっちゃんの言葉通り、宇佐神はホラー系の話が大の苦手だった。その癖それを隠そうと強がるせいで、さらに悲惨なことになっていたのを覚えている。そんな宇佐神に背後霊の存在を尋ねるのは、さすがのもっちゃんでも躊躇ったようだ。
「良こそ、不良ネットワークで探したりしないの?」
「他に言い方ねぇのかよ。昔の知り合いで今も付き合いあるやつには聞いてるが、収穫なしだ。高校上がるときにまともになるってんで、ほとんどのやつとは縁切っちまったしな」
そう口にすると、高校からは真っ当に生きるという俺の宣言を嘲笑った奴らの顔が思い起こされて、苛立ちを隠すこともせず黒くなった頭を掻いた。
宇佐神の髪色はどこにいようと目立つため、他人から絡まれたことも一度や二度ではなかったらしい。だがいくら目立つ見た目といえど素行がまともな宇佐神は、髪や目の色以外で連中の印象に残ることはなかったようで、それらしい目撃情報を辿ることはできなかったのだ。そう考えてみると、もっちゃんの言う「不良ネットワーク」で宇佐神を捉えるというのは、そもそも無謀な作戦だったということなのだろう。
「第一、宇佐神に限って家出して不良にってのはないだろ。それよりあいつの家って一般家庭って割にはでかいし、誘拐とかの方があるんじゃね」
「ご両親は大学の先生とかいろいろやってる人なんだっけ? 誘拐されるにしても、うさくんって見た目の割に度胸あるから、騒ぐか暴れるかして人に見られてそうじゃない? そもそもが目立つ見た目なんだから、目撃証言がないのはそれこそ不自然なんじゃないかな」
至極真っ当かつ理屈っぽい言葉を返され、とうとう俺は言葉に詰まってしまった。家出はない、誘拐もありえない。となると残る可能性は、あまりにも非現実的なものばかりだ。
「……トラック轢かれて、異世界転生とか」
「今流行ってるよねぇ。転生したり呼ばれたり。神隠し令和版って感じ」
到底現実とは思えない話にもかかわらず、もっちゃんは意外にもこの可能性に乗ってくれるようだ。もっとも、こいつとてこの可能性が真実だと思っているわけではなく、ただ馬鹿馬鹿しい話題にあれこれ考えを巡らせることで、気を紛らわしたいだけなのだろうが。
「そうなるとうさくんはどこか別の世界でのんびりスローライフでも送ってるのかな」
「あいつがスローライフとか想像できねぇな。一年カツアゲしてる三年に啖呵切って喧嘩になったやつだぞ。入学してから一週間でそんなことするやついるかっての」
「その喧嘩に喜んで加勢していった良も大概だけどね」
「いつの間にか現場に紛れ込んで優雅に茶飲んで観戦してたもっちゃんが一番謎だけどな」
「ぼく喧嘩とか向いてないから」
それなら何故わざわざ現場にいたのかと言いたくなったが、聞いたところでろくな答えが返ってくるものとも思えなかったため、早々に諦めた。茂木猛とはそういう男である。ふわふわ掴みどころがなく、いつの間にか懐に入り込んでいるこいつは、俺にとってこれまで付き合ったことのないタイプで、苦手とまではいかないまでも、どこか距離感を測りかねているようなところがあった。
宇佐神もこいつとの関わり方には多少なり苦戦しているようだったが──「うさくん」というあだ名も、何度か訂正するも直らず断念していた──俺ともっちゃんを足して二で割ったような性格のあいつは、俺よりいくらか上手くこいつと付き合えていたような気がする。
思えば、「もっちゃん」というあだ名を考えたのも宇佐神だった。あいつらしい微妙かつ捻りのないネーミングセンスの産物だが、あいつがいなくなった今でも、呼び名を変えることができずにいる。たぶん、この先もずっと変えられないのだろう。
再び沈みかけた思考を無理やり上に向かせるべく、大きく伸びをして後ろへ倒れ込んだ。
「あ〜、異世界か。行ってみてぇな。異世界行ったら冒険者になって、魔物ぶっ倒して無双して、美少女と異世界ライフエンジョイすんだ。パーペキ異世界生活ってな」
「いいねぇ、美少女。ぼくはネクロマンサーにでもなろうかな」
「もっちゃんなら本当になれそうでこえーな」
「ふふ。あとは偉い人の背後霊についてあることないこと吹き込んでお金取るとかね」
「……それは発想の時点でこえーよ。どっから出てきたんだそんな真っ黒な考え」
屋上にくっつけた背中が冷えるのを感じながら言うと、もっちゃんは相変わらずふにゃふにゃとした笑みを浮かべて「冗談だよ」と笑ってみせる。寺の息子とは思えない発言にドン引きする俺をよそに、もっちゃんは屋上にいてもなお遠い空を見上げ、独り言のように呟いた。
「うさくんが異世界に行ったら、何するんだろうねぇ」
「……あいつはとりあえず適当な魔法ぶっ放すだろ。そんで問題起こして追放される」
「ああ、うさくんって器用貧乏なのに何故かトラブルメーカーだったもんね。ハーレムっていうのも想像つかないかも」
「ハーレムはねぇな。下手するとその辺の女より宇佐神の方が美少女できる」
「女の子とうさくんの両方を敵に回す発言だね。夜道に気をつけた方がいいよ」
「だから寺の息子が言うセリフかって……これ見たら誰でも黙るだろ」
寝転がったままポケットのスマホを取り出し、少し前に宇佐神の姉貴から送られてきた写真を見せると、もっちゃんは感心したように声を上げる。宇佐神の女装のクオリティは異様に高く、それこそ写真だけならどこかのモデルと見紛うほどなのだ。
「え〜、これうさくん? すごい可愛い。女の子みたい」
「あいつの姉ちゃんたち、髪だの顔だの服だのいじるの好きらしいぜ。そんで実験台にされてこの有様ってな」
「見せてよかったの? うさくんに殴られない?」
「殴るくらいならさっさと出てこいってんだよ。異世界で美少女してないで」
吐き捨てるようにそうこぼし、スマホをポケットにしまいこむ。ここまで荒唐無稽な妄想話に付き合ってくれていたもっちゃんも、さすがに異世界で美少女として生きている宇佐神は想像できなかったのか、どこか困ったような顔でこちらを見つめていた。
「さすがのうさくんだって、異世界で美少女にはならないでしょ」
「まぁ確かに、それはねぇか。あいつの姉ちゃんが酔っ払って俺にこの画像送ったときとかめちゃくちゃキレてたし、女装して生活とかぜってぇムリだな」
「黙って大人しくしてたら美少女なのにねぇ。本当の性別がバレて追放されてたりして」
「あいつ追放エンドしかねぇのな」
言いつつ、異世界で美少女として過ごすよりそちらの方があり得そうだと苦笑いをこぼす。するともっちゃんは、少し真面目な声色でこう呟いた。
「戻ってくるでしょ。追放されたら」
その顔は青空に向けられていて、窺い知ることはできなかったが、きっと俺と似たような顔をしているのだろう。何となく、そんな気がした。
「……そうだな」
つられて俺も、少し真面目な声で答える。追放されたら、追放されなくても、ここにはまだお前の居場所があるのだと、ここにはいないあいつに向けて語りかけるように。
「そうだといいなぁ」
行方不明になった人間は、七年経つと死んだことにできるらしい。今までずっと血眼になって息子を探しているであろうあいつの家族がそれをするとは思えなかったが、七年も経てば、きっと行方不明になった同級生のことなど、ほとんどのやつは忘れてしまうのだ。
襲い来る懸念を振り払うように、勢いをつけて体を起こすと、見計らったようなタイミングで間の抜けたチャイムがなる。
「トイレ行ってたらチャイム鳴っちゃった。学食行こうか」
「連れションついでに飯誘うな」
あくまでもトイレに行っていたというスタンスを崩そうとしないもっちゃんに呆れつつ、二人揃って立ち上がり、食堂へと足を進める。
長い夏休みが終わり、二学期と共に九月がやってきた。以前より少しだけ悪い方向に変わった現実を前に立ち尽くす日々の中で、俺たちがいつまでもあいつを待ち続けることができるとは限らない。三年になれば受験や就活があり、そこから先の俺たちは、それぞれが進む未来に向けて必死に努力を続けていることだろう。少なくとも俺は、そんなときにまでいなくなった友達のことを待ち続けられるほど辛抱強い方ではないのだ。
だから、早く戻ってこいと心の中で呼びかけた。俺たちが二人でお前を待っていられる間に、戻ってこい。そうしたら俺が机、もっちゃんが椅子を持って、お前の席を元に戻してやれるから。
まだ残暑には届かない九月の始めは、夏の蒸し暑さを纏ってそこにある。
屋上まで届くセミの声が、少しでも夏を引き延ばそうとするかのように響いていた。




