67話「答え合わせのカフェ・プティフール」前編
「いや〜……」
潜入捜査の継続が困難になったことで、ひっそりと学園を抜け出すことになった俺たちは、いくらかほとぼりが冷めた頃にフランさんと合流し、彼女の案内でひと気のない校舎裏口までやってきていた。
本来の用途が不明なこの出入り口近辺は、本当に人っ子一人通る気配がない。今はまだ潜入中のため、俺たちの見た目は相変わらずリオンとアンナのまま。しかしこの人通りのなさならば今までのように気を張り詰める必要はないと踏んだ俺は、これまで押さえ込んできた胸の内を明かしておくことにした。
「ごめん、見当違いなのは分かってるんだけど、一回だけ言わせて」
念のため断りを入れ、周囲に人影がないことを確かめた俺は、浅く息を吐く。それから準備室からここに至るまでずっと秘めていた思いを吐き出した。
「……騙されたっ……!」
「ふっふ〜ん、可愛かった? 可愛かったでしょ〜」
「騙された!」
「それもう二回目だよ」
勢い余って二回目の叫びを漏らせば、隣のハルフリーダ──変装姿のフランさんは、どこか呆れたように苦笑いを浮かべた。
名前から所作に至るまで、普段とは全く違う彼女が俺たちのいる準備室までやってきたときは大いに焦り、何と弁明したものかと不必要に頭を働かせたものだが、蓋を開けてみれば何と彼女の正体は俺たちと共にこの学園に潜入していた聖騎士なのだという。そんな衝撃の告白を受けて驚く間もなくここまで連れてこられてしまえば、溜まりに溜まった感情を吐き出したくなるのも無理はないだろう。
「……ああ〜、清々しいくらい綺麗に騙された……分かってから思い返すといろいろと心当たりあるのに全然気付かなかったし!」
「本職を甘く見ないでよね〜。ハルちゃんってば可愛いだけじゃなくて仕事もできる女の子なんだから」
敵を欺くにはまず味方からという言葉通り、フランさんは見事に俺たちごとこの学園の人間を欺いてみせたのだ。彼女が聖騎士団の中でも潜入を得意としているのは、単に魔法の適性があるというだけでなく、味方ごと敵を欺く演技力、予想外の状況下でも目的を達成する対応力など、潜入に必要な全てのスキルを備えているからなのだろう。
「アンナは知ってたの?」
「変装して近付くなら一番やりやすい立場だと思っていた程度です。決闘に参加しようとしてきたあたりで確信に近付きましたが、決定打となる証拠がなかったのです。彼女が関わっている以上、当然といえばそうなのですが」
言われてみれば、確かにアンナのストーカーという立場は俺たちが問題を起こさないかどうかを監視するにはうってつけのポジションであり、アンナの役に立つためという名目さえあれば、大抵の行動には説明がつけられるのだ。
となると、どうやらハルフリーダの奇行は最初から何もかも計算ずくでの行動だったらしい。さすがはプロというべきか、俺と比べて嘘の精度に天と地ほどの差があるようだ。
そしてどうやらフランさんは人を驚かせることに喜びを見出すタイプらしく、アンネさんがハルフリーダの正体を見抜けなかったことを知るなり、満足げな笑みを浮かべ始めた。
「ふ〜ん、結構長い付き合いなのに気付かなかったんだ〜」
「まさかこの手の本職が学生相手に後れを取るとは思えなかったものですから」
「そっちだってリオンくんに助けてもらってた癖に! それにあれは手加減してたの!」
淡々と反論するアンネさんに対し、フランさんは不満げに頬を膨らませる。こうして見ると見た目仕草共に十六歳の学生にしか見えないが、彼女の正体は歴としたネロトリア王国聖騎士団所属の聖騎士なのだ。日頃から公務をこなす彼女が決闘で本気を出してしまえば、ハルフリーダと当たったノイマンも凍傷だけでは済まなかったことだろう。
「手加減っていうのは、学生相手に怪我させないように? それとも正体を隠すため?」
「どっちもあるけど、本当の理由はちょっと違うかな。わたしはただ、大人としてやるべきことをやっただけ。可能性のある若者に対して人生の先輩がやるべきことは、上から叩き潰すことじゃなくて、少し上から引っ張り上げることなんだから」
フランさんが口にした理屈は俺にはよく分からないものだったが、同じく大人であるアンネさんなら分かるのかもしれないと思い彼に目をやると、彼は一ミリも興味がなさそうな顔で周囲に目を走らせていた。気の配り方は人それぞれである。
教え導かれる立場であった俺にとって、教え導く者の視点はまだ遠い。同じ場所に潜入していたにもかかわらず、これだけ見方に違いがあるのは、この学校の生徒を同世代と見るか、若者と見るかの違いなのだろう。
「先生みたいなこと言うんだね。ここじゃ生徒なのに」
「ふふん、こんな可愛い見た目でも、この学園の生徒たちよりずっと歳上だからね。こういうの柄じゃないんだけど、見覚えのある悩みを持つ若者に、つい口を出したくなっちゃったの」
どこか微笑ましげに言うフランさんだが、彼女の言う「見覚えのある悩み」とやらにはまったく心当たりがない。若者というのが決闘でフランさんと当たったノイマンのことだとして、彼は何事も要領よくこなせそうなタイプに見えた。そんな彼が何か悩みを抱えているようには思えなかったものの、決闘中に彼と二人きりで話をする機会があったフランさんには、何か違うものが見えたのだろうか。
「ハルフリーダ、決闘のときに氷で作った空間の中で何が……」
「あ、馬車が来たみたいだよ」
思い切ってあの決闘での出来事について尋ねようとするも、見計らったようなタイミングでの馬車の到着により阻まれてしまった。間の悪い馬車を恨めしく思いつつフランさんの視線の先にある馬車に目をやるが、そこにあるのはどう見ても貨物用の馬車であり、俺たちが乗れるような設計にはなっていない。シャトルバスと言われていたのに実際は軽トラだったというレベルの差である。
「……あれ、どう見ても人が乗る馬車じゃないよね」
「さっきの今で人を乗せた馬車が学園を出入りしたら怪しすぎるでしょ! 魔法で見た目を変えてるけど、中身はちゃんと人が乗れる馬車だから安心して」
もしや俺からの質問をやり過ごすための嘘かとも思ったが、荷台部分から突然出現した扉と、その先に広がる見慣れた馬車の内部を見て考えを改めた。取っ手含め扉の部分は荷台に乗せられた備品の山にしか見えないようにされているため、これならば近くで触れない限りバレることはないだろう。
「いろいろありがとう。それから、こんなことになっちゃってごめん。後始末は頼めるかな」
「任せて〜。元々それがわたしの仕事だから」
最後までハルフリーダとしての顔を崩さなかったフランさんに見送られ、外側だけがいつもとまるで違う馬車に乗り込み、続いてアンネさんが俺の向かいに腰を下ろす。閉められた扉にアンネさんが消音の魔具を設置したのを確認し、馬車が不規則な揺れを伴って動き出してから、深いため息をついた。
「ああ〜……短かったですね、学園生活……」
「お手数をおかけいたしました。まさか手違いで潜入捜査に駆り出されるとは」
「本当ですよね。アンネさんもフランさんも戦い損じゃないですか。アンネさんに至っては怪我までしてますし」
言いつつ目をやったアンネさんの傷跡は未だ生々しく、フランさんの水属性魔法で血は止まっているとはいえ、完治からは程遠い状態だった。
アンネさんの傷を治そうと回復魔法を放ったのはいいが、それによってベルガーは新しい腕を増やす羽目になり、決闘場はパニックに陥ってしまった。その混乱に乗じて脱出することができたとはいえ、結果的にはプラマイゼロどころかむしろマイナスである。そのマイナス部分についてはフランさんに丸投げ状態になってしまったが、このまま周りに迷惑をかけるだけかけて終わりというのは俺としても納得がいかない。せめて当初の目的は達成しなければと思い、馬車の座席に置かれている救急用具が入った箱を手に取った。
「じゃあそういうわけなので、上脱いでください。手当てしますよ」
止血したとはいえ、傷口をそのままにしておくのはよくない。素人でも包帯くらいは巻けるはずだと思い、服を脱ぐよう促すと、アンネさんは三秒ほど沈黙したのち、俺の申し出を手で制した。
「……いえ、礼央様のお手を煩わせるわけには。フランツェスカの魔法で血は止まっていますし」
「ダメですよ! まだ完全には治ってないんですから! ほら、脱いだ脱いだ!」
いつも通り自分のことを脇に置こうとする姿勢に耐えかね、彼の制服に手をかける。しかしそこはさすがの本職ということなのか、あっという間に両手を掴まれ、身動きが取れなくなってしまった。脱がされるのが嫌なら自分で脱いで欲しいものだと不満げな表情を隠さないままに頭を上げると、そこにあるのは思いのほか戸惑ったアンネさんの顔で。
「……ふ、たりきりの馬車で片方が半裸では、深刻な誤解を招くかと思うのですが」
見た目だけは完璧な美少女の口から飛び出した半裸という単語に、少々脳みそがフリーズした。処理落ちしかけた頭を奮い立たせ、俺は必死に自分に言い聞かせる。
相手は男性、相手は男性。しかし今の彼はどこからどう見ても美少女、つまりは女の子である。それならば日頃女の子として認識されている俺が服を脱がせたところで何も問題はない気もするが、今の俺は男装中、事情を知らない人から見ればどこからどう見ても男子なのだ。
レオとアンネは異性、リオンとアンナも異性。どちらにせよ服を脱がせるのは一発アウトである。今この状況で馬車の扉を開けて中に押し入ってくる者などいないと言えばそれまでだが、密室で──少なくとも見た目は──異性と二人きり、そこで相手の服を脱がせるなどという状況は、少し、いやかなり、よろしくない。青少年健全育成的なあれそれの観点的に、たぶん、よくない。
思考を手放そうとする頭を無理に回転させて考えた結果、俺はそっと彼の制服から手を放し、そのまま少しだけ浮いた腰を座席に落ち着けた。それから気まずい沈黙を五秒ほど挟んで、平静を装いながら口を開く。
「……着いたらすぐ手当てするなり、魔法で治してもらうなりしてくださいね。俺は治せないんですから。予備の腕はまだ必要ないでしょうし」
「ええ……まさか、あのような形で効果が現れるとは思いませんでしたね」
どこかぎこちない会話の話題は、自然と俺がうっかり三本目の腕を生やしてしまったベルガーに関するものへ。これまで俺の回復魔法の効果は若返りのみだとばかり思っていたが、あれ以降の対人使用が禁止されていたこともあり、思えば回復魔法を人に向けて使ったのはアンネさんを幼児化させたきりだ。ベルガーのケースが普通なのか、それとも稀なのかを判断するには、あまりにも実験回数が少なすぎる。そう考えると、予想外の効果が現れても不思議はないのかもしれない。
「相手の人には申し訳ないことしちゃいましたね。積極的に戦いに参加する人じゃなかったはずなのに、あんなことになっちゃって」
「フランツェスカは後始末のため、しばらくトリス学園に留まるようです。その間、デニス・ベルガーに関する諸々の問題にも対応するはずですよ。フランツェスカが継続的な支援を行うことは難しくとも、本職の弟君がおりますので、問題ないでしょう」
「へぇ、フランさんの弟さんって学校の先生なんですか?」
「ええ、魔法学担当のヴァール先生ですよ」
少しずついつもの調子を取り戻し始めた会話の中で飛び出した衝撃の事実に、口からは思わず情けない声に包まれた本音が漏れる。
「初耳……」
「ウィリアム・デレックス・ヴァール。私の同僚であるフランツェスカ・ミリー・ヴァールの弟君です」
「この期に及んで名前が初耳……」
フランさんと会ったのは聖女集会直後。日頃関わる聖騎士の中でもかなり付き合いが短い方とはいえ、少なくとも今回の潜入捜査で初めて会ったヴァール先生よりは長い付き合いである。にもかかわらずフランさんのフルネームを知ったのは今が初めてであり、潜入先に弟がいたことも知らなかったのだ。
魔法学校への潜入捜査の連絡といい、潜入先に関係者の家族がいた件といい、仮にも社会人として報連相くらいは徹底してくれないものだろうかとため息をつくと、アンネさんは少し困ったような笑みを浮かべ、隠したがりの同僚について教えてくれた。
「フランツェスカは昔からそうなのです。自分の正体を明かすことなく、相手に関する情報を掠め取っていくといいますか。彼女が潜入向きの聖騎士だというのは、使える魔法に限った話ではないようですね」
「正体を隠してって、まさか味方にもですか?」
「ええ、私やイーザックと初めて会ったときにも同様でしたよ」
「何で味方に名前を隠す必要があるんですか? ミドルネームは名乗らないこともあるのかもしれませんけど、名字を隠すっていうのは……あっ」
口にしかけた疑問がやや遅れて解決したことに気付き、思わず声を上げる。
アンネさんのように自分の名前にコンプレックスを抱いているならまだしも、味方に名字を隠す理由となると普通は思い浮かばない。しかしつい先ほどまで家柄至上主義の貴族ばかりが通うトリス学園にいたともなれば、話は別なのだ。
俺の推測はそう大きく外れていなかったのか、アンネさんは静かに頷いて、俺の推測を裏付けてくれた。
「潜入中、ヴァール家の名は学園内でもたびたび耳にする機会がありました。どうやらあの家は二世代ほど前まではネロトリア屈指の大貴族に数えられていたようですが、先代で家は傾き、今や残るのは醜聞のみだそうです。先代は家の建て直しのため、見苦しいまでに他家との繋がり作りに奔走していたようですので、かつての栄華の分、周囲の評判を必要以上に落とすことになったのではないかと」
こちらの世界の名字とは、場所によっては家名とされることもある。その家名の厄介さは、俺自身も今回の潜入捜査で痛感していた。この国で「ウサミ」といえばもはや十年ぶりの聖女を指すものとして機能しているように、貴族社会でのヴァールの名はマイナスなイメージと共にあるのだろう。かつての大貴族の息子が、貴族とは縁もゆかりもない職業に就いているとなればなおさらだ。
自分にはどうしようもない事柄によって不利益を被るという理不尽さに、思わずため息をこぼす。
「フランさんが家名を明かさないのは、不必要に第一印象を歪めないためにってことなんですかね」
「礼央様に明かさなかったのは、単に弟君に正体を見抜かれる可能性を考慮してのことかとは思うのですが」
「俺だってそんな簡単に正体見抜かれたりは……」
淡々と俺の潜入技術に対する信頼のなさを暴露され、反論しようと口を開くが、現にその弟君から本音をいとも容易く引き出されたことを思い出し、結局それらしい言葉も紡げないままで口を閉じた。アンネさんはそんな俺の様子に苦笑いをこぼし、言葉を続ける。
「近頃は初対面の相手に対しても家名を含めた自分の名前を明かすようになってきたようです。潜入捜査の件がなければ、礼央様にももう少し早い段階で家名を明かしていたでしょう」
「名前を隠さなくなったのは、聖騎士団に入ったことで、フランさんも考え方が変わったってことなんですかね」
「そうかもしれませんね。聖騎士団は実力が全てですので、そうしたしがらみを断ち切りたい者も多くいるのです。そういった意味でも、フランツェスカにとって聖騎士団は居心地のいい場所なのでしょう。趣味と実益を兼ねた天職といったところでしょうか」
これまで俺が見ている限り、聖騎士団の仕事はかなりの激務のように思えるのだが、フランさんのようにやりたい仕事と向いている仕事が一致していれば、日々の仕事を楽しみながらこなすことができるのかもしれない。そのお陰であれだけの騒ぎの後でも無事に学園を出ることができたのだから、ありがたい話だ。
「潜入期間はあっという間でしたけど、その間にもいろいろありましたね。決闘には駆り出されるし、アリーとルイスさんには会うし」
「ええ、これだけ短い間にも、私は何度か肝を冷やす羽目になりました」
「まぁでも今回俺を連れて行ったのは害のない相手だったわけですし、今後のことを考えるなら文字の読み書きを覚えたり、無属性魔法を使えるようになったり、それから影属性の精霊から加護を得られたのは大きかったじゃないですか。光属性の精霊からは散々悪気のない嫌がらせを受けましたけど……」
「嫌がらせ?」
つい愚痴のようにこぼした言葉を目敏く拾い上げ、すかさず聞き返してくるアンネさん。精霊が相手とはいえ、ここまで実の親も真っ青な過保護ぶりを見せてきた彼の前でこの話をするのはさすがに迂闊だっただろうかと思いながら、余計な気を遣わせまいと笑顔で答えた。
「遊びの延長で、ちょっと見たくないものを見せられたっていうんですかね。ほら、精霊って実体がないから、暴力とか……死とか、そういうものに疎いじゃないですか。だから、精霊にとっては単に知らない誰かの記憶を見せただけだと思うんですけど」
誰かの幸せな記憶に始まり、日常の風景を経て、家庭内での暴力の場面へ。そうして最後に行きついたのは、俺が決して知るはずのない瞬間の記憶だった。光はあくまで記憶の主を当てるというゲームの一環であれを見せたに違いないのだが、それによって未だ整理を付けられていない思い出を蒸し返されてしまったことは事実であり、明るく装った声色もいつの間にか沈んでしまう。
さすがにこれで誤魔化せるはずもなく、アンネさんはどこか遠慮がちながらも率直な物言いで切り込んできた。
「その口ぶりでは、礼央様にとってよく知る誰かの記憶を見せられたように聞こえますね」
「もし見せられたのが赤の他人の記憶だったら、同じような場面だったとしてもこんなに引っかかってませんよ。でもかなり昔のことですし、気持ちの整理をつけるにはちょうどいいきっかけだったのかも」
努めて明るく言うが、今の今でその言い分は通用しないということなのか、労しげな眼差しが返ってくるのみである。その労わりの何割かでも傷だらけの自分自身に向けてくれないものだろうかと思ってしまったが、そんな願いが届くはずもなく、彼の口から飛び出したのはやはり俺に関する気遣いの言葉だった。
「宿に着くまではまだしばらく時間があります。人に話すことで、持て余した感情を整理するのも一つの手かと思いますよ」
そこまでお膳立てされてしまえばもはや話さずいることはできず、促されるまま話し始めたのは、いつまでもかさぶたとして残り続ける八年前の記憶。
これまで誰にも話したことのなかった、ある友達の話だった。