8話「実践」
アンネさんと同じ聖騎士団所属だというイーザックさんから、衝撃の事実を知らされたあの日から一夜が明けた。お互いに諸々の謝罪や礼を済ませ、あのときのことは水に流そうと決めたのはいいが、どうやら天は俺たちに数日前の出来事をよほど忘れさせたくないようである。
その証拠に、俺たちの目の前には今、最も顔を合わせたくない人物がにこやかに佇んでいた。
「おはようございます聖女様、昨日ぶりですね」
「……おはようございます」
イーザックさんである。
どうやらアンネさんが言っていた「魔法を専門とする聖騎士」とはイーザックさんのことだったらしい。
軽そうな言動の割には不必要に人の醜態を吹聴するタイプではなさそうだが、面白そうなことには自ら進んで首を突っ込むタイプと見た。
先日の件に関しては知っている人間が多すぎるため、口止めしたところで意味はないとは分かっているものの、これからもたびたび蒸し返されることくらいは覚悟しなければならないだろう。
「嫌そうなお顔ですね〜。ですがこれもこの世界で生きる上で必要な知識を身につけるためです。わからないことがあれば何でもおっしゃってくださいね」
「じゃあ早速なんですけど……」
魔法関連ではないが、実はこの部屋に足を踏み入れたときから気になっていたことがあるのだ。
「……その顔、どうしたんですか?」
イーザックさんの左頬、向かい合って右側の頬が、まるで虫歯にでもなったかのように赤く腫れ上がっているのだ。魔法で何か失敗でもしたのだろうかと思いつつ尋ねると、イーザックさんは何故かわざとらしく肩を竦めてみせる。
「一体どうしたんでしょうねぇ、そこにいる聖女様の忠実なる僕に聞いてみては?」
忠実なる僕と言われても思い浮かばないが、ここにいるのは俺とイーザックさんの他にアンネさんくらいのものだ。しかし彼が何か関与しているのかと思い振り返ると、俺が口を開くより先に有無を言わさぬ笑みで封じられてしまった。
「そんなことより聖女様、他に何か気になる点などはございますか?」
「あ、ええと……フィリップさんとイーザックさんの制服って、色とか上着の丈の長さとかが少し違いますけど、それって何か理由があるんですか?」
「私とイーザックは所属が違っておりまして、イーザックは魔法を武器として戦う魔導部隊、私は物理攻撃を用いて戦う実働部隊に所属しております。戦闘形式が異なるので、それに合わせて制服の色や丈の長さが違っているのですよ」
「実働部隊は筋肉で魔法攻撃もねじ伏せる脳筋部隊なんて呼ばれてますけどね」
イーザックさんが皮肉っぽくそう付け加えるが、これまで俺が見てきたアンネさんは脳筋とは最も遠いところにいる気がする。
実働部隊という名称は確かに武闘派のイメージが付き纏うものの、そのイメージと目の前に佇む細身の男性が結びつくかといえば、それはまた別問題なのだ。
「フィリップさんが脳筋っていうのはちょっと想像できないんですが……」
「私は魔法が使えないという理由で実働部隊に配属されておりますので、力の強さだけで判断されるわけではありませんよ」
「その割には昨日君に殴られた箇所、未だに腫れが引かないんだけど」
「あの程度で腫れが引かないはずがないだろう。もう少し鍛えた方がいいんじゃないのか?」
「当たり前のように僕が悪いみたいな言い方するけど、鍛えたところで人の治癒力は大して変わらないからね!」
「…………」
恐らく、アンネさんが手を上げた理由というのは俺に対して秘めていた事実を暴露されたことに対するものであるため、それに関しては完全にイーザックさんの自業自得なのだが、今の会話からも少しアンネさんの脳筋要素が垣間見えた気がした。
静かな雰囲気のせいでそう見えないというだけで、案外口より先に手が出るタイプなのかもしれない。
「まったく……それじゃあ話を聞くだけというのも退屈でしょうし、そろそろ実践に入りましょうか」
いよいよ実践と聞くと先日の謁見の記憶が蘇るようだが、前回と違って今回はアンネさんからこの世界における魔力の何たるかを叩きこまれている。謁見の二の舞には絶対にしないという決意を固める俺をよそに、イーザックさんは魔法発動の方法について簡単な説明を始めた。
「聖属性魔法は他の属性魔法と少し異なる効果をもたらすという特徴がありますが、発動方法自体は他の魔法と同じです。コツは魔法の効果をできるだけ具体的に思い浮かべること。魔法を何に、どのように、どこからどこまで発動するのか。少なくともこの三点を押さえておけば限界まで魔力を消費することはないかと思いますが……まぁ、頼れる騎士がついてますから、万が一のときも心配はいりませんね」
簡潔で分かりやすい説明をしてくれていたかと思えば、次の瞬間には俺たちの痛い部分を蒸し返すようなことを言ってくる。教え方が丁寧で集中力を引き出すのも上手いだけに、油断も隙もない人だ。
「ではまずフィリップの制服に物理攻撃遮断の魔法をかけてみましょう。布の硬度はそのままに、拳や刃物などあらゆる物理攻撃を跳ね返す鎧にしてください。効果は一度きり、攻撃を一度跳ね返したら元に戻る魔法です」
「そういえば、魔法を使うときって呪文とかは必要ないんですか?」
フィクションの世界では何かとそれらしい呪文を唱えてから魔法を発動するというものが多くあったが、この世界に来てから魔法らしいものを見た覚えがないために、呪文の詠唱が必要なのかどうかすら分からないのだ。暗記科目は毎度ひどい点数だったが、覚えられるだろうか。
「魔力を供給する精霊への応答として唱える者もいますが、必ず必要というわけでもありませんので、特定の呪文が決まっているというわけではありませんよ。何か思いつけばそれを唱えていただいても構いませんが、それらしいものは浮かびそうですか?」
固定の呪文がないというのは少し意外な気もしたが、確かに謁見の際も口には出していなかったものの、神様仏様精霊様という珍妙な文言でも魔法は無事に発動していた。となると本当に何でもいいようだが、服を鎧にする呪文となると、どんなものがいいだろうか。
「……カタクナール?」
「よし、呪文はなしでいきましょう!」
ダメらしい。
俺の場合は呪文を唱えるより魔法の範囲を的確に定めることに集中した方がいいということなのだろう。
範囲は机に広げられたアンネさんの上着──召喚の際に着ていた丈の短い軍服風の上着だ──だけ、効果は一度きり、あらゆる物理攻撃を跳ね返す魔法を、俺の手が触れた地点から発動させる。
魔力を手のひらに集中させるイメージを頭の中で思い描き、恐る恐る両手をアンネさんの上着に着地させると、手のひらと上着の間がほんの少し、蛍が見せるような光を放った気がした。
以前魔法を発動したときには確かに自分の中から何かが抜けていく感覚があったのだが、今回は手元が少し光っただけで、それ以外に魔法を使った実感はない。魔力欠乏に陥る気配はないが、もしやうまく発動しなかったのだろうか。
「一応ぽやっとは光りましたけど……失敗しましたかね」
「では鑑定してみましょうか」
「鑑定?」
骨董品に対して用いるような単語に首をかしげると、イーザックさんは答える代わりに眼鏡を外し、アンネさんの上着を手に取った。かと思うと次の瞬間、彼の瞳孔の色がそれまでの菖蒲色から限りなく白に近い色に一変する。
今さら魔法の仕組みについて深く考えることはしないが、こういったものを見るたび、ここが元の世界とは違う世界なのだと実感させられるようだ。
「鑑定魔法って、発動すると目の色が変わるんですか?」
「ええ。魔法の中には発動時に何らかの変化をもたらすものがありますが、鑑定魔法もその一つです。それとは別に、目や髪の色を変えることを目的とした魔法や魔具もありますよ」
「変装とか、お洒落に使うんですかね?」
「それもありますが、出自を隠すためという理由が大半です。目や髪の色によっては差別の対象として見られる場合もありますので、それを隠すために魔法や魔具を使う者もいるのですよ」
どこの世界もある程度の数の人間がいれば差別や争いはどうしても起きてしまうが、黒髪にこげ茶の瞳が多数派である日本であるならいざ知らず、多様な見た目の人がいる異世界において見た目の差別があるというのは正直あまりピンとこなかった。
「でも、こっちの世界はいろんな髪とか目の色の人がいますよね。余所者を差別してるってわけじゃなさそうですけど……」
「目の色や髪の色が直接的な原因ではありませんが、目や髪の色はある程度その人物がどこの民族に属しているかを知る手掛かりとなりますので、同時に被差別民族の目印にもなってしまうのです。ネロトリア王国は周囲の国からの移民によって成立した国と言われておりますので、移民の娼婦として連れてこられた民族の子孫の特徴として知られる桃色の瞳を持つ方は、何かと苦労を強いられることも多くあるとか」
元の世界でも存在していた黒人や黄色人種、或いは被差別部落出身者への差別と似たようなものなのだろうか。
俺の世話をしてくれるというハナさんも、思えば少し桜に近い色の目をしていた気がする。明るく素直な言動からはまったく暗い過去の気配を感じることはできないが、彼女もまたそうした差別と闘い続けている人なのかもしれない。
思っていたよりずっと身近に存在していた差別の気配に胃が重くなるような感覚を覚えていると、それまで黙り込んでいたイーザックさんがアンネさんの上着を机に戻し、眼鏡をかけた。どうやら鑑定が終わったらしい。
「どうでした?」
「魔法の方は問題なく発動しているようですよ。ただ念のため効果を確かめてみましょうか」
「確かめるって……それを着たフィリップさんに殴りかかるとかですか?」
「手段自体は有効ですが、こいつにそれをしたところで上着にすら触れずに終わるのでダメです」
「でも、物理攻撃を仕掛けないことには確かめられませんよね?」
「物理攻撃とは物体あるいは身体の部位に速度を載せて対象へとぶつけるものですから、確かめる程度ならこれを投げるくらいで事足りますよ」
そう言って手渡されたのは一枚のコイン。いまいち価値は分からないものの、色から判断するに日本でいう十円玉くらいのものなのだろうか。投げる対象が平面とあって、これではまるでお賽銭のようだと思いつつコインを放ると、次の瞬間、頭上で何かが突き破られるような音が響いた。
何事かと顔を上げれば、見上げた先の天井にはコイン一枚分ほどのサイズの穴が開いており、その穴を通して上階の人々の当惑の声が降り注ぐ。
下に向かって放物線を描くように投げたコインが、物理法則に逆らって急上昇するわけはない。それなら何故このような不可解な現象が起きたのかと言われれば、心当たりというのは一つしかないわけで。
先ほど俺があらゆる物理攻撃を「跳ね返す」魔法をかけた、アンネさんの上着。跳ね返すというとせいぜい静電気かガム型のドッキリグッズ程度の衝撃を予想していたのだが、これでは跳ね返すというより弾き返すと言った方が正しいだろう。否、これは「弾き返した」で済まされる威力なのだろうか。
「べ、弁償……いやそれより、人的被害……」
「いや~……さすがに死者は出ないでしょうし、天井もどうとでもできますけど……まさかここまでとは」
珍しく本気で驚いた様子のイーザックさんと、珍しく本気で頭を抱えるアンネさん。各々が俺の引き起こした惨状に対する反応を示す中、一足先に平常心を取り戻したらしいアンネさんは、どこか疲労を感じさせる笑みを浮かべながら言った。
「……聖女様、今後もしばらく魔法は我々の目の届く場所でお使いくださいね」
先日の謁見といい、今回の殺人コイン事件といい、もしかすると魔法というものは、元の世界でのフィクションを通して見ていたような夢のあるものではないのかもしれないと、穴の空いた天井を見て思う。
ここ数日で魔法の恐ろしさを体感し尽した俺は、額に汗を浮かべながらその言葉に何度も頷いてみせたのだった。