3話「聖女と騎士と」
異世界召喚二日目。いつもの安物のベッドではない雲の上のような寝心地の上で目を覚ました俺は、昨日聞かされた最悪の可能性が消えていない現実を前に、深いため息をついた。
結局あの後、フィリップさんと決めたことは二つ。
四日後に予定されている国王陛下との謁見の場において聖女の素質の有無を確かめるまで、本当の性別が露呈しないよう、他者との接触は避け、彼以外の人間の前で声を発しないこと。
そして男と気付かれるような仕草は慎み、淑女としての振る舞いを心がけること。
彼が何を危惧してこの取り決めをしたのかは理解できるが、どう考えても無理難題であり、しかも聖女の素質ありと判断された場合には誰とも会話すらできない状況が何年、下手をすれば何十年も続くことになる。
異世界に特段の期待を抱いていたわけではないとはいえ、こうも世知辛いスタートを切ることになるとは思わなかった。
淑女としての振る舞いについてはいい。伊達に弟を着せ替え人形のように扱う恐ろしい姉を三人も持っていないのだ。ヘアアレンジや化粧を施されるのは慣れたものであり、ドレスも公衆の面前で着たことがないという点以外は問題ない。こんな格好で足を開いて座ろうものなら拳骨が飛んでくる家庭に生まれたこともあって、仕草はもちろん、猫背の矯正も完璧だ。
仮にも日本男児がこれでいいのかとも思っていたが、異世界で聖女としてやっていくためのノウハウのほとんどを知らないうちに擦り込まれていたのだから、人生何が役立つか分からないものである。
慣れた手つきでドレスに着替え、ウィッグをつける。メイクについては素人だが、姉たちにスキンケアを強制されたこともあり、特に隠さなければならない吹き出物があるというわけでもなく、メイクの必要はなさそうだ。
むしろ派手な聖女の方が問題だろうと思い、申し訳程度のお洒落としてウィッグの一房を三つ編みにしていると、不意に扉がノックされた。
「レオ様、アインホルンです。お時間よろしいでしょうか」
アインホルンと言われて一瞬ピンと来なかったが、声からしてフィリップさんだ。彼相手ならば声で応じても構わないのだが、もし同行者がいたならまずいと思い、扉の前へ移動してドアを一回叩く。
昨日取り決めた合図の一つであり、一回ならばイエス、二回ならばノーというありきたりなものだ。昨日あまりにも物騒な話を聞かされた直後となると、どうしてもこの単純すぎる暗号に不安を覚えてしまうため、そのうち別の提案をしてみようと思いつつ、彼を迎え入れた。
「おはようございます。昨晩はお休みになられましたか?」
同行者がいないらしいことを確かめながら頷くと、フィリップさんは扉の内側にドアプレートのようなものを掛けてから口を開く。
「声を発していただいて構いませんよ。扉に防音の魔具を掛けておけば、外に音は漏れませんので」
日本には壁に耳あり障子に目ありということわざがあるが、この壁掛けのような魔具とやらを使えばその耳や目を一網打尽にできるということらしい。便利なものである。
「魔具って、魔法道具のことで合ってます?」
「ええ。私のように魔法を使えない者でも、魔法と同じ効果を得られる道具になります。ご覧になるのは初めてですか?」
「実物を見たのは初めてです。悪戯するときとかに役立ちそうですね」
ファンタジーなお役立ち道具に対するものにしてはあまりにも残念な感想だったが、彼は「それは困りますね」と笑ってくれた。
俺よりも少し背は高いが、笑顔が幼いせいか威圧感を感じることはない。かなり若いようであるし、もしかすると案外歳が近かったりするのだろうか。
「魔具は魔法を使えない者だけでなく、使える者の魔力消費を抑える意味合いでも使われますので、たとえば変声の魔具があれば、魔法を使わずともレオ様のお声を女性のものにすることができます。近いうちに手に入れてまいりますね」
「助かります! この先ずっとフィリップさんとしか話せないものと思ってたので……」
男にしては高い声といえども、さすがに女声と言い張るには無理がある。常時裏声で乗り切るか、それとも無言で通すかを密かに悩んでいただけに、フィリップさんのこの提案はありがたかった。
「アンネで構いませんよ」
「はい?」
愛称のことかとも思ったが、フィリップさんの名前の中でアンネと呼べそうなものはアインホルンという名字くらいのものであり、それを愛称と呼んでいいものかどうかは微妙なところだ。
彼の言葉の意味を理解できずに首を傾げていると、フィリップさんは嫌な顔をすることなく説明を加えてくれた。
「普段はフィリップ・アインホルンと名乗っておりますが、本当はアンネ・フィリップ・アインホルンと申します。女性のような名前ですので、普段は隠しているのですが、私だけがレオ様の秘密を知っているというのは不公平ですから」
俺の方から打ち明けたのだから不公平も何もないというのに、周囲に嘘をつき続ける人生を送ることになるかもしれない俺への気遣いなのか、それとも突然異世界から召喚したことへの負い目なのか。どちらにしても律儀な人だ。
「分かりました。じゃあ二人きりのときはそう呼びますね」
「ぜひ」
騎士というとどうしても暴力的な武闘派タイプか性格の悪い頭脳派タイプを思い浮かべてしまうが、アンネさんはそのどちらにも当てはまらない新しいタイプの騎士のようである。
今のところ俺の中の騎士のイメージは創作とアンネさんで成り立っているが、近々他の騎士たちと顔を合わせれば、少しずつ認識も変わっていくのだろうか。
「ところで、王様への謁見って確か四日後でしたよね。俺が別の世界から来たことは伏せた方がいいですか?」
「いえ、陛下は貴方様が異世界からいらしたことはご存知ですので、取り繕う必要はありません。とはいえこの世界における聖女の位置づけについては簡単に知っておいて損はないかと思いますし、今日はまずそちらからお話ししましょう」
アンネさんはそう前置きをしてから、この世界における聖女の位置づけや聖女を始めとする魔法を使える人々について掻い摘んで話してくれた。
その説明を俺の言葉で大まかにまとめると、だいたいこんなところだ。
「……要するに、この世界には魔力の器を持ってる人と持ってない人がいて、持ってる人は魔法が使える。でもその器をどう満たすかは人によって違いがあって、ポーションか精霊との対話によって魔力をもらうかして魔力を回復する必要があるけど、聖女は精霊ではなく神との対話を通して魔力をもらうから、器の大きさも魔法の強さも桁違い……ってことで合ってますかね」
「その通りです。レオ様は飲み込みが早くていらっしゃいますね」
「説明が分かりやすかったからですよ。この世界の聖女が魔物討伐には参加しないっていうのはちょっと意外でしたけど」
ファンタジー世界とはいえどやはり異世界なのか、俺の知る聖女とこの国の聖女とはかなりのギャップがあった。
この世界での聖女は強力な回復要員という位置付けではなく、国家に必要不可欠な存在、言ってしまえば国王レベルの超重要人物であり、そのような危険な場所へ連れ出すわけにはいかないのだそう。
では何をするのかというと、その膨大かつ強力な魔力で国に結界を張り巡らせ、敵国の侵攻を防いだり、国中の作物の成長を早めたり、とにかくそういったことをするらしい。
結界は弱いものであれば他の魔導師でも張ることができるらしいが、作物の成長を早める魔法は聖属性魔法にのみ存在するものであるらしく、いわばお手軽促成栽培といった具合のものである。これは確かに一家に一台ならぬ一国に一人は欲しいですねと言ったら笑われた。
しかし一国に一人という表現は案外的を射ていたようで、聖女を持たない国家は国防だけでなく外交面でも不利になるのだとか。
聖女は国家にとって必要不可欠。だが一つの国に必ず聖女が一人生まれるという保証はなく、一人も生まれない国のほか、何人も生まれる国も出てくるということだ。複数の聖女がいる国に援助を求めようものなら、とてつもなく大きな借りとなり、後々の不平等条約等に繋がりかねない。
そこで聖女の護衛などを主に請け負う聖騎士団は、藁にも縋る思いで胡散臭い文献に書かれていた異世界からの聖女召喚術を実行し、その結果として俺が呼び出されたのだそうだ。どういうわけか男だったわけだが。
「男の聖女っていえば、聖女の男版で聖人っていうのがありますよね。俺はそっちってことでダメなんですか?」
「聖人は洗礼を受け、神に生涯を捧げる誓いを立てた者なら目指すことができますが、聖女はなろうと思ってなれるものではありませんので」
「……なりたくてもなれない役職になりたくないやつがなるのってどうなんです?」
「ご本人の意思にかかわらず、素質があれば半強制的に選ばれてしまうということからいえば、性質自体は王族と似通っているかもしれませんね。常人にはない苦労をおかけすることにはなってしまいますが、生活の方はこちらで保障いたしますし、身の安全に関してもご心配なさらず」
アンネさんはそこで一度言葉を切り、柔らかな笑みに確かな決意を滲ませた顔で、言った。
「私が、命に代えてもお守りいたします」
よく言えば王道、悪く言えばありきたりな誓いの言葉。けれどアンネさんの表情は真剣そのもので、その言葉が混じり気のない本当の決意で紡がれたものだということを理解させられた。
右も左も分からない異世界で、聖騎士を名乗るイケメンが自分のために命を懸けて守ってくれる。心を打たれるかどうかは別として、少なからず安心できる言葉のはずだった。
だというのに、俺の中に湧き上がった感情というのは、安堵や信頼とは少し違っていて。
「……ありがとうございます」
この世界に来たときのような、愛想笑いを浮かべながら答えてみせた。
この人は、俺に聖女の素質がなかったとしても、何かとここでの生活について気にかけてくれるつもりでいるのだろう。聖騎士として守る対象でなくなったとしても、彼には俺をこの世界へと呼び出したことへの負い目が少なからずあるようだから。
仕事をする上で不可欠な存在だからだとか、勝手に呼び出して帰すこともできないことへの負い目があるからだとか、とにかく何かしらの理由をつけて、この人は俺を守ろうとしてくれる。それを象徴しているのが先ほどの彼の言葉であり、彼の決意に満ちた表情だった。
だからこそ、少し恐ろしくもなってしまったのだ。彼の言葉を聞いた瞬間、先の見えない異世界で身の安全が確保されたことへの安堵よりも先に、自分のために人が死ぬかもしれないことへの恐怖の方が優ってしまった。
彼らにとっての俺が代えのきかない聖女候補だとしても、本当の俺は一般家庭に暮らす普通の高校生なのだ。そんな俺に、自分のために失われた命を背負う覚悟など、できるはずもない。
謁見まであと四日。四日後には、この世界における俺の価値が定められてしまう。そして、アンネさんを始めとした、俺を守る役割を担う人たちの価値も。
どうか違っていてくれと願いながら、俺の命の重さに反比例していく彼らの命を思う。
守れるだろうか。
人一人分の重さしかない、俺自身の命を。
守れるだろうか。
俺を、守ろうとしてくれる人たちの命を。
「……アンネさん」
「何でしょう」
目的もなく名前を呼べば、アンネさんはあの柔らかい笑みを浮かべて俺を見る。
どれだけ必死に頼んだとしても、この人は困ったような顔で「それは出来かねます」と答えるばかりなのだろう。
だから、俺がやるしかないのだ。
そんな決意を彼に返す意味合いで、彼の問いかけに答える。
「俺、頑張りますね」
脈絡のない言葉に彼は意味を図りかねたようだったけれど、伝わらなくても構わなかった。この言葉の意味が伝わるときというのは、きっと彼が俺のために死ぬときだから。
俺が普通の人間でなくなるまで、あと四日。
異世界の空は、今のところ元いた世界と大して変わりがあるということもなく、青々と澄み渡っているように見えていた。