21話「五色の塔」
現代日本ではまず乗る機会のない乗り物だと思う。
形としては人力車が最も近いが、動力源が違うとあって揺れ方は車よりも少し不規則だ。加えてよく耳を澄ませると規則的に蹄の音が聞こえてくるのも特徴の一つだろうか。人間よりずっと大きく力の強い生き物が動かしているとはいえ、小さな小屋とその中に詰め込まれた人間を引っ張っている状態でよくここまで速度を出せるものだと感心してしまう。
思えばこうして馬車で移動するのも久しぶりだ。グラストニアから帰還する際には思わぬ形でアウスグスという新しい移動手段を試すことになったが、紐づけされた記憶が悪いせいで、できればこの先しばらくは利用したくないというのが正直なところである。
逆に馬車は日頃の公務で利用することも多く、安全安心な場所という印象が強いように思う。根拠となる事実は何一つ存在しないが、この乗り物に乗っている限りは誘拐されることもなく、魔法が暴走するということもない気がするのだ。
もはや俺にとっての馬車は自室の次に落ち着ける場所と言っても過言ではないかもしれない。だからそんな安らげる馬車に乗っている間は何も気負わず、リラックスしているべきなのだと自分に言い聞かせてみるが、凝り固まった緊張を上手くほぐすことはできなかった。
「緊張されますか?」
向かいに座っているアンネさんから声をかけられ、思わず苦笑いを返す。彼にも分かるほど分かりやすく緊張していたということなのだろうか。
グラストニアから帰還し、俺が熱を出して寝込んでいる間、アンネさんは今回の騒動の責任を取るという俺からするとかなり納得のいかない理由で謹慎を食らっていたらしいが、イーザックさん曰く、今回の謹慎は処罰の他にアンネさんの怪我を治すための休暇も兼ねていたのだという。
彼がその根拠として挙げた事件解決から処分の決定が早すぎるという事実と、そうでもしないとアンネさんは通常通りに仕事をこなそうとするだろうという妙に説得力のある言葉で聖騎士団に直談判する気は失せたものの、果たして足の骨にヒビを入れた人間がものの数日で復活できるものなのだろうか。
アンネさんならできそうな気もするし、同じ人間なのだからできないような気もする。ここ数日の歩き方はいつもと変わらないように見えたが、本当に大丈夫なのだろうか。
しかしそれを言ったところで返ってくる言葉は容易に想像がつく上、今回の公務に彼無しで臨むというのはあまりにもハードルが高いため、特に彼の足について言及することはしない。今回の公務はそれほど足に負担がかかるということもないだろう。
「多少この手の行事には慣れてきたとは思ったんですけど……やっぱり少しは緊張しますね」
国王陛下への謁見に始まり、日々の公務を通して聖女として国民の前に出ることは多くあった。向こうの世界にいた頃よりもずっと人前に出たり、立場が上の人間と言葉を交わしたりする場面をこなしてきたつもりだが、さすがに今回の公務は規模が違いすぎるのだろう。
「公務として街に出るのも緊張するのに、聖女集会なんて……正直、不安しかないです」
半年に一度、大陸中央部の聖域内にある「五色の塔」にて開かれるという聖女集会について知らされたのが一週間前。今回の集会は主に俺と他国聖女との顔合わせを目的としたものとなるらしく、通常の聖女集会よりも長い五日間の日程で行われるのだそうだ。
「他国の聖女様との交流は、礼央様にとってもいい刺激になるかと思いますよ」
「聖女集会なら聖女あるあるとか話せるかもしれないですね。周りが女の子だらけになるので、いつも以上にボロが出ないよう気を付けないとですけど」
ネロトリアの聖騎士は今のところほぼ男性としか顔を合わせたことはなく、日常生活の中で接する女性といえばハナさんくらいだ。泊りがけとなるとさらに気を付けるべきことは多くなってくる。またしばらくウィッグを着けたまま寝る生活を送ることになるのだろうか。夏場でなくともそれなりに蒸れるため、できれば外して寝たいところだが、性別がバレてしまうことを考えればそうも言っていられないだろう。
「そういえば、アンネさんは今回の参加者に会ったことあるんですか?」
「コルトリカ連邦共和国のアレクサンドラ様には以前一度だけお会いしたことがありますが、ユーネルヤード共和国のアラベラ様とシノノメ国のシオン様のお二人には未だお目にかかったことはありません。ネロトリアは十年近く聖女不在の状態でしたので、聖女集会への参加も認められていなかったのです」
怒涛の国名と人名に思考を手放しかけたそのとき、やけに耳馴染みのある単語の気配を察知した。
シノノメ、シオン。
これまで耳にしてきた国名や人名はほとんどがカタカナ以外の表記が難しそうなものばかりだったが、たった今登場したこれらの単語は違っている。国名がそれらしいのを見るに、俺以外の異世界人がいるわけではないようだが、それでも俺の興味を惹くには十分すぎた。
「その、シノノメ国って……」
どんなところなんですか、と続けようとしたところで馬車が一度大きく揺れ、それからぴたりと動かなくなった。窓の外の景色は数日前にネロトリアを出た頃と比べるとかなり雰囲気が異なっていて、遠くまで来たことをここでようやく実感した。
「到着したようですね。シノノメ国については五色の塔に向かうまでの道のりでお答えします」
「いえ、やっぱり大丈夫です」
彼の分かりやすい説明なら、きっと俺の疑問を解消するには十分だろう。だがもしこの世界にも日本と似た文化の国があるのなら、できるだけ現地の人間から話を聞きたいところである。
「聖女集会、ちょっと楽しみになってきました」
我ながら単純だと思いながら馬車を降り、聖女集会の会場となる五色の塔に目を向けるが、目的地までにはまだかなり距離があるようだった。一キロか、もしかするとそれよりもあるかもしれない。歩くのが難しくない距離とはいえ、塔から少し離れたところで馬車が止まったのは、数メートル先に立ちはだかる薄透明な結界のせいなのだろう。
馬車を降りて少し待っていると、後続の馬車から降りてきたイーザックさんが改めてここからの流れを説明してくれた。
「さて、じゃあここから先の聖域はフィリップと聖女様のみで行ってもらいますよ〜」
「イーザックさんたちは行けないんですか?」
ここからは徒歩になるとはいえ、てっきりイーザックさんたちも着いてきてくれるものとばかり思っていただけに、彼のその言葉には少なからず驚かされた。アンネさんを信用していないわけではないが、さすがに怪我を治したばかりの人を護衛に当たらせるのは気が引けるのである。
「あの通り、聖域は強力な結界に囲われてます。外部から聖域の中に入る場合、一定量以上の魔力をぶつけて穴を開ける必要があるんですけど、その穴もすぐに塞がるので、入れるのは聖女様級の魔力の持ち主と付き添い一人がせいぜいなんですよ」
「ああ、だから『代表者』だったんですね」
他国聖女の名前と共に伝えられた「代表者」なる人たちは、どうやらその結界を通り抜けて聖女集会に参加する人ということだったらしい。大勢いる護衛の全員の名前を知らせるわけにもいかないために代表の一人の名前のみを伝えているものと思っていたのだが、どうやら本当に今回の付き添いは一人だけということらしい。
「僕たちは聖域近くにある街にいますから、何かあったら魔具で連絡してくださいね。それじゃあフィル、後は頼んだよ」
それだけ言い残すと、イーザックさんたちは早々に馬車へ乗り込み、聖域近くにある街へと戻っていった。王都以外の街がどのようなものなのかも気になるところではあるが、今は聖女集会に集中しなければ。
聖域中央部の五色の塔は、遠くから見るとただの真っ白な柱のように見えており、色や形にこれといった特徴があるわけではなさそうだった。五色というからにはもう少しカラフルなものを思い浮かべていたのだが、実物は想像していたよりもずっとシンプルである。
「聖域の真ん中にある塔、五色の塔って名前の割には真っ白ですけど、何か特別な由来があるんですか?」
「あの塔は大陸のどこかに降りかかる災いを予知し、塔の色を変えることで人々にそれを伝えると言われております。たとえば赤なら火、青なら水、黄色なら土、緑なら風に関連する災害といったように、色によって災害の発生を事前に知ることができるのです」
火は山火事、水は大雨、土は地震、風は竜巻などを表すということなのだろうか。厄介なことに災害は一度に一種類のみ降りかかるとは限らず、一つの災害から派生していくつもの災害が引き起こされることも多々ある。この塔が名前の通り五色に染まることがあれば、それはもはや災害というより世界の終わりと捉えた方がいいのかもしれない。できることなら見たくない光景だ。
「災害を予知できるなんて便利ですね」
「百発百中ならそうかもしれませんが、五色の塔の的中率は五分五分と言われておりまして、塔の予知なしに災害が起こった事例の他に、塔の予知が大きく外れて何も起こらなかった事例も確認されております」
あちらの世界でも似たような仕組みはあったが、向こうにはこちらの世界でいう魔法などというものは存在しなかった。それでもそれに代わる科学技術と過去のデータを駆使し、災害をある程度予測して注意を促す仕組みができていたというのだから、それはもしかするととてつもなくすごいことだったのではないだろうか。
離れてから分かる元の世界の凄さを噛みしめながらカタクナールを拳に発動し、そのままいつか窓を割ったときと同じ要領で結界に叩きつける。すると俺がどうにか体をかがめることなく通ることができる程度の穴が開き、その穴を潜って聖域内に入ることができた。アンネさんが続いたことを確かめる頃には、俺が開けた穴は既に塞がっており、確かにこれではあの人数はおろか、イーザックさんを聖域内に招き入れることもできなかっただろう。
魔力制御があまりにも下手なせいで毎度大変なことになってはいるものの、俺自身の魔力量は聖女としては普通か、少し多いという程度なのだという。異世界とはいえ現実は現実、フィクションのようにうまくはいかないらしい。
そこから先は馬車を使うわけにもいかず、アンネさんと二人で五色の塔までの道をひたすら歩き続けた。周囲には他国聖女の姿どころか蟻の子一匹おらず、聖域という名の割には随分と殺風景な景色が広がっている。
結界と塔、地面と空、それから隣を歩くアンネさん。視界に映るものの説明がそれで完結してしまうような景色を見続けながらひたすらに歩みを進めること約十五分、辿り着いた塔は遠くから見た通りシンプルな作りで、ところどころに窓代わりと思しき穴が開いている以外に特徴と呼べそうなものもない。
この様子だと入り口も扉ではなく、最低限人が通れる大きさの穴が開く程度なのではないかと思いながら入り口を探して塔の周りを回ってみるが、どれだけ探してもただのっぺりとした壁が続くばかりである。
「……これ、まさか窓があるところまで登るんですか?」
「そのうち入り口ができるはずですので、探しながら待ちましょう」
入り口は「ある」ものであって「できる」ものではなかったはずだが、アンネさんは至って真剣であり、彼がこの状況で冗談を言う人でないことは俺もよく知っている。結局よく分からないままアンネさんに続いて塔の周囲を巡っていると、どういうわけかアンネさんの言う通り、先ほどまで壁しかなかったはずの場所にぽっかりと穴が開いていた。
結界とは違い、すぐに閉じることもなく、穴の向こう側にはやはりシンプルな内装の廊下が続いている。まるで塔そのものに歓迎されているかのようだ。
「災害を予知したり入り口を作ったりするのって、塔の管理人さんが魔法でやってるってことなんですか?」
「いえ、五色の塔に管理人はおりません。災害予知などについても、魔法に近い性質を持つ何かしらの力が働いているとしか分かっていない状態です」
「分かっていない?」
いくら魔法が日常的に使われているこの世界でも、ある日突然どこからともなく塔が歩いてくるということはないだろう。記録が残らないほどの大昔に建てられた建物ということなのかもしれないが、それにしては壁が新しすぎるような気もする。
第一に、それほどの大昔に壁をここまで自由自在に変形させられる技術が存在していたと考えるのはさすがに少し無理があるだろう。
「記録によれば、五色の塔と聖域はこの大陸に国家が築かれる以前から大陸中央部に存在していたらしく、聖域の中に立ち入ることのできる聖女が現れるまで、塔の内部については全く詳細が不明という状態でした。どれだけ調べても何かが住んでいる気配はなく、さらに魔法では説明がつかない現象まで多く起こっていることから、これまで何度も各国研究者間で議論が重ねられてきましたが、未だに全貌は明らかにされておりません」
アンネさんがいつもの簡潔かつ丁寧な説明をしてくれているが、話の内容があまりにも非現実的すぎるせいでまったく理解が追い付かない。アンネさんもそんな俺の様子を察したらしく、最後に話の重要な部分のみを簡単に伝えてくれた。
「そのため現時点では、この塔がどうやら自我を持っているらしいということ以外は何一つ明らかになっていないというわけです」
塔が、自我を持っている。
異世界に召喚されてから一か月以上が経過し、大抵の異世界文化には驚かなくなってきたと思っていたのだが、さすがにこの言葉を聞いて驚かない人間はいないだろう。単なるほら話で済ませることができればいいが、彼の言葉を裏付けるようにいつの間にやら開いていた入り口の穴を見てしまっている以上、その言葉が全くのでたらめとは考えにくい。
塔が自我を持つことなど普通はあり得ないだろうという認識に変わりはないが、少なくともこの塔は何者か──隠れた管理人か、或いはこの塔そのもの──の意思で変化していることは明らかなようだった。
「では、参りましょう」
アンネさんに促されるまま、一抹の不安と一種の不気味さのようなものを感じながら塔に足を踏み入れる。
どこまでも得体の知れない建物を訪れたこの瞬間から、俺の短いようで長い五日間は幕を開けたのだった。




