133話「安眠と安堵」
落ちそうになる瞼をどうにか持ち上げると、ソーサーにぶつかったカップが音を立てる。向かいからは控えめな非難の眼差しを向けられ、誤魔化すように紅茶を口にした。
昨夜の一悶着の後、怪我をさせない程度に全力で暴れてみたものの、アリーの腕はしっかりと俺の首を固めて離れなかったのだ。
アリーが眠るまで待ち、意識がなくなったタイミングを見計らって腕を解こうと考えたまではよかったが、どかそうにも触るもの全てが柔らかく、女子特有のいい匂いがする始末。
どうにか脱出の契機を見出せば、目を覚ましたアリーに拘束され直すを繰り返した。
おかげでほとんど一睡もできず、見事に寝不足である。
朝食の場はブライアさんがいたために、どうにか意識を保っていたが、今はアリーの部屋で食後のお茶会に勤しんでいる。友達相手となると途端に気が抜けて、押さえ込んでいた睡魔が強大さを増しているのだ。
「先が思いやられますわ。この後にはユーデルヤードとシノノメが控えているのでしょう」
「馬車の中で少し寝るから平気……」
「次の訪問までに、不規則に揺れるベッドを買い付けておきますわね」
「……ベッドが増えるなら何でもいいよ」
「貴方はどうしてそう妙なところで遠慮しますの」
ため息をつくように言ったアリーは、極限まで抑えた音と共にカップをソーサーに置き、真剣な眼差しをこちらへ向けた。
「その遠慮が見当違いなものだということは、今朝の食事の席で分かったでしょう」
「それはそうなんだけど……それとはまた別っていうか」
ベッドを別にしたい理由というのは、アリーが解決してくれた罪悪感とはまた別のもの。
昨夜の一件に対するあまりの申し訳なさに、この場で全て白状してしまいたい衝動に駆られたが、すんでのところで押さえ込み、思考を無理やり朝食の席での出来事へと向けた。
出来事と言っても、昨日と何も変わらず厚遇を受けたという他にはないのだが、アリーの言葉を受けて、昨日よりもずっと素直にブライアさんからの厚意を受け取ることができたのだ。
俺が妙に勘繰りすぎていたというだけで、彼女はずっと、娘の友達をもてなそうとしてくれていたのだろう。そのことを実感してからは、向けられる気遣いの温かさを感じることも容易かった。
「でも……うん、アリーの言ってた通りでほっとした。少し身構えすぎてたみたい」
「何度も言っていますけれど……もし分からなくなったならいつでも言いなさい。十回も百回も、そう変わりはありませんもの」
さりげなく俺を分からずや扱いしたアリーに苦笑いを浮かべたそのとき、扉の向こうから軽快なノックが聞こえてきた。
アリーが入室を促せば、そこにいたのはルイスさんと──ハナさん。珍しい組み合わせだ。
「お嬢〜、ウサギさんたちの荷物、運び終わったッスよ」
「お話し中のところ恐れ入ります。いつでも出発できますので、ご支度をお願いいたします」
「分かりました。ありがとうございます」
支度とはいうものの、俺の荷物は全て馬車に積んでもらっている。あとは身一つで外に出るだけだ。
そう思っていたのだが、残りの紅茶を飲み干したタイミングで、ふとあることを思い出した。人の家で借りるのは気が引けるものの、ここからの長旅を思うと済ませておかないわけにはいかないのである。
「ごめんアリー、出発の前にお手洗いだけ借りていい?」
「構いませんわ。ルイス、案内なさい」
「聖女集会のときも案内係やったじゃないッスか〜。オレって一応は執事なんスけど」
「執事なら案内程度はこなせるはずですわよ。早く行きなさい」
ぴしゃりと言いつけられ、不満げな顔をしながらも、ルイスさんの案内でトイレへ。
仮にも一般家庭ならば男子トイレと女子トイレの区別はないものと思っていたのだが、使用人がいることもあってかしっかり分けられていたため、女子トイレにて居た堪れなくなりながら用を足す羽目になった。
そそくさと外へ出て、また長い廊下を進む。行き先は屋敷の外、いよいよユーデルヤードへの長旅が始まるのだ。
数日に渡る馬車の旅に思いを馳せていると、不意にルイスさんがこう問いかけてきた。
「さっきのメイド、ウサギさんのッスか?」
「いえ、城で働いてるメイドさんですよ。わたしの身の回りのお世話をしてくれてる人です。歳が近くて優秀だから抜擢されたんだそうですよ、本人曰く」
「自分で言うあたり、信用ならないんスよねぇ」
「本気で思ってるっていうより、たぶん持ちネタなんですよ」
ルイスさんには軽く笑われてしまったが、歳が近くて自称優秀なメイドさんというのは、俺にとって付き合いやすい相手でもある。
歳が近くても、全てが完璧な人では取っ付きにくいし、歳の差がある自称優秀な人とは、上手く付き合える気がしない。自薦か他薦かを聞いたことはないものの、俺の身の回りの世話をしてくれる人が、ハナさんでよかったと思う。
「こっちに来てから、何かとお世話になってる人なんです。戦争で家族のところに戻ったりした人もいますけど、ハナさんはずっと残ってくれてて。お母さんのことも心配なはずなのに」
先の戦争で、多くのことが変わってしまったが、その中でもハナさんは以前と何も変わらず、あの朗らかな笑顔と共に働いてくれている。
他に優先したいこともたくさんある中、こうして他国にまでついてきてくれるのだから、ありがたい話だ。
改めてハナさんのありがたさを噛み締めていると、ルイスさんは大した興味もなさそうな声で、問いを返してきた。
「へ〜。ハナさんって、生まれはネロトリアなんスか?」
「え? たぶんそうだと思いますけど……あの目の色は何かと勘繰られやすいみたいですから、普段はあんまり気にしないように……」
と、そこまで言い終えたとき、俺はある衝撃の事実に気が付く。
ルイスさんが、人の名前を間違えてない。てっきり「カナさん」だとか「ヒナさん」くらいには間違えると思っていたにもかかわらず、だ。
使用人とはいえ仮にも客人。礼節を保つべきと考えを改めたのだろうか。天地がひっくり返ってもあり得ないと思っていた事態を目の当たりにして、俺の口からは包み隠さない言葉がこぼれ落ちていく。
「ルイスさん、人の名前覚えられたんですか?」
「ひっでぇ言いようッスねぇ」
「すみません……いや、すみませんですかね? そろそろわたしの名前も覚えていい頃じゃないですか」
「ウサギさんの名前は長いんで」
「アリーほどは長くないですよ」
「ボスの名前間違える犬がどこにいるんスか?」
アリーの名前を持ち出せば、ルイスさんは何を当たり前のことを言っているのかと言いたげな顔でこちらを見た。興味がない相手の名前となると、記憶するにも字数制限があるらしい。呼ぶ相手は間違えていたが、ベルさんとベラさんの名前を覚えられているのもその関係だろう。
そこまで考えて、ふとある可能性に思い至る。「ウサミ」は長くて覚えられないというルイスさんも、「レオ」ならば覚えているのではないだろうか。
これは早速確かめなければと、抑えきれない好奇心と共に尋ねてみる。
「ルイスさん、わたしの名前って覚えてますか? ウサミじゃない方です」
「そりゃあ覚えてるッスよ〜。『リオ』ッスよね」
「『レオ』ですよ」
自身ありげなルイスさんに、冷たい声で訂正を返す。彼に名前を覚えてもらうことについては半ば諦めているものの、やはりこうも名前を覚えられていないというのは、あまり気分のいいものではない。
二文字なら覚えられるのではなかったのか。そんな非難の目を向けると、ルイスさんは悪びれもせずに開き直ってみせる。
「アンタ何でその見た目で男らしい名前してるんスか。紛らわしいんスよ」
「人の名前にケチ付けないでくださいよ。字数は同じじゃないですか。ハナさんの名前はすぐ覚えたのに」
「必要があればちゃんと覚えるんスけどね」
他国聖女の名前を覚えることも必要なのではないか。そんな指摘を挟むより先に、俺たちがいる場所よりも少し先にある一室から、ルーカスさんが姿を現した。
彼が出てきたのは、他の部屋と比べて立派な造りの扉がついている。恐らくカルロスさんの部屋なのだろう。
思えば、カルロスさんにはまともに挨拶ができていない。せめて帰りの挨拶程度はしたいところだと思い、緩やかに足を止めた。
「ウサミ様、いかがなさいましたか」
「出発の前に挨拶しておきたくて。カルロスさんの調子はどうですか?」
「申し訳ございません。今は難しいかと……主人に代わり、非礼をお詫びいたします」
そう予想外でもない答えだったが、ルーカスさんとしてはやはり申し訳なさを感じてしまうのだろう。
昨日今日と、カルロスさんが俺と言葉を交わすことは一度もなく、それどころか食事以外の場面で顔を合わせることすら避けられている節があった。仕方のないこととはいえ、やはりよく思われてはいないらしい。
「いえ、こちらこそすみません。カルロスさんからすれば、家に上げるのも抵抗があったはずなのに、こうして泊めてもらっちゃって」
「そのようなことは……決して、ウサミ様に非があるわけではございません。ただ、未だに整理がつかないご様子なのです」
「大丈夫ですよ。理解することと受け入れることは違いますし、今見てるものがカルロスさんの全部だとも思ってませんから」
そこで一度言葉を切り、俺がまだ見たことのない、戦場に心を取られてしまう前のカルロスさんの話をした。
「ブライアさんから聞きました。アリーの友達がどんな相手か、アリーじゃなくてルーカスさんに聞いてたって」
「あ〜、お嬢に聞けばいいんじゃないスかっつったのに、結局パイセンに聞いたんスね。お嬢にウザがられたら嫌みたいなこと言ってたッスから」
「どこの世界も、お父さんって意外と変わらないものなんですね。うちの父も、姉の彼氏について、姉本人じゃなくてわたしに聞いてきましたから。知るわけないのに」
話しているうちに、つい笑みがこぼれる。どこの世界も父親というのは案外変わらないもので、家族のことが大切なあまり、臆病になる面もあるのだろう。
俺の父は、今頃どうしているだろう。きっと俺のことを必死に探しているはずの彼は、街で親子連れや俺と近い歳の人間を見かけるたび、何を思っているのだろう。そこにあるのは、俺がいなくなる前に抱いた者と、全く同じ感情ばかりなのだろうか。
どれだけ理性的でも、社会的な地位が高くとも、高い学歴を持っていても、感情を切り離せないのが人間だ。ここでカルロスさんを酷い人だと決めつけて、もし自分の父が周囲の親子に酷い言葉を投げつけていたとしたら、目も当てられない。
俺が行方不明になったことで、家族に苦しんでほしくはない。だが、あまりにもあっさり忘れられてしまうのも、それはそれで寂しいのだ。
アリーのお父さんの苦しみは、アリーのお兄さんが愛されていたことの証で、だからこそいつまでも苦しいのだろう。
俺に子どもはいないが、自分なりに考えて、想像して出した結論というのは、こんなところだった。
「まだ時間がかかるかもしれませんけど、いつかカルロスさんが本当にこの家に帰ってくることができたら、また会いにきますね。諸々の挨拶は、よければそのときに」
そう伝えると、ルーカスさんはいくらか安堵したような表情で頷いてみせた。
カルロスさんのように、心が戦場に囚われてしまった人というのは、きっとそう珍しくない。彼のような人が、時間をかけて少しずつ回復していくことを、それだけの時間が彼らに与えられることを、願おう。
「……お気遣い、感謝いたします。主人に代わり、旅の平穏をお祈り申し上げます」
「お世話になりました。カルロスさんにも、よろしくお伝えください」
ルーカスさんへの挨拶を済ませ、そのまま長い廊下の続きを進んでいく。途中で会った使用人の人たちにも挨拶をしてから屋敷の外へ出ると、朝日が容赦なく寝不足の目を照らしてきた。
朝日の眩しさに目が眩む中、外で待っていてくれたブライアさんとアリーに改めてのお礼を伝え、挨拶もそこそこにアンネさんと共に馬車へと乗り込む。
どうやら俺がのんびり挨拶をしていたせいで時間が押しているらしく、馬車は勢いよくボールドウィン邸を飛び出し、ユーデルヤードへ続く道を駆け始めた。
蹄の音に、車輪が地面の石とぶつかる音、それに伴う揺れも手伝って、決していいとは言えない乗り心地。だが、とりわけ気を許した人だけがいる空間において、睡魔は最強である。安堵ついでにこぼれたあくびを見て、アンネさんからは心配げな声が上がった。
「あまり眠れなかったのですか?」
「んん……眠れなかったっていうか……眠れなかったんですけど」
思わず、誰のせいだと思っているのかと言いかけたが、同じ部屋での寝泊まりという点を除けば、彼に非はない。さすがにこの言葉は飲み込んで、しょぼつく瞼を擦ると、向かいからは鋭い問いが飛んでくる。
「アレクサンドラ様と何か?」
何故分かるのか、とも思ったが、一緒に寝た次の日の様子がこれでは、さすがに気付くだろう。たとえ相手がアンネさんだとしてもだ。
「えっと……いろいろ話しただけですよ」
「具体的にはどのような?」
適当に誤魔化すと、容赦ない追求が返ってくる。面接官のようだ。
「……いろいろは、いろいろです。いろいろありましたし」
「アレクサンドラ様は何と?」
「何でそこまで聞きたがるんですか。個人的なことですよ」
あまりにも根掘り葉掘り聞き出そうとする態度を不自然に思い、とうとう尋ねると、アンネさんは一転してバツが悪そうな顔で言葉を詰まらせる。
そうして数秒ほど沈黙を挟んだのち、とうとう彼は白状してみせた。
「実を言うと、昨日の件は私からアレクサンドラ様に依頼をした形だったのです」
軽く、眠気が飛ぶ事実である。
昨日の件と言われて思い浮かぶのは、何故か頑なに俺の頭を胸の前に固定したまま寝ようとしたアリーの姿。
俺が何やら居心地が悪そうにしていることは、アンネさんも気付いていたのだろう。それがどうしてあれを依頼する羽目になるのかは全く見当もつかない──いや、考え得る限り最も下世話で最悪な理由ならば思い当たる。思い当たるが、まさか彼がそのようなことをする人だとは思わなかった。見損なったというのが正直なところだ。
ありのままの感想を、そのまま投げつける。
「……え、最低ですね」
「申し訳ございません。私では効果が薄いかと思いましたので」
「いや、それはそうですけど」
何か思い悩んでいる様子の俺を元気付けようと、したのだろうか。いつも最短ルートで物事を解決しようとする彼のことだ。「少年を元気にするにはどうしたらいいか」などと聞いて回り、それを素直に実践したのかもしれない。
その時点で既に最悪だが、そのためにアリーを使ったというのも、最悪の底を抜いて最悪である。
申し訳なさと、今すぐこの人を馬車から放り出したい衝動に駆られ、思わず頭を抱えてため息をこぼした。
「最低ですよ……」
「批判は甘んじて受け入れる覚悟です。本来であれば私たちのみで解決すべきところを、アレクサンドラ様にご協力いただいたのですから」
「手段が最悪なのはそうですけど、そもそもアリーにあんなことされたら、全然眠れませんよ」
俺を元気付けようとしてのことなのだろうが、あまりにも手段が悪い。挙句に俺は寝不足で、元気づけるという目的も達成できていないのだから、最初から作戦そのものが破綻していると言わざるを得ないのだ。
だが、アンネさんの方は全くピンと来ていないようで、興味深そうに尋ねてきた。
「あんなこととは」
「やらせたの、アンネさんじゃないですか」
「ええ。しかし具体的な依頼はせず、アレクサンドラ様に一任しております」
「あんた本当に何やらせてんですか」
「依頼をしたのは私です。不満はどうか、私に向けていただきますよう」
一体どのようにして依頼をしたのか、それを徹底的に問い詰めたい衝動に駆られたが、それと同時に、自分が昨晩たっぷりと味わった罪悪感を、ここで懺悔したい気持ちもある。
仕向けた人を告解の相手とするのは業腹だが、俺の性別を知っている人となれば選択肢はない。
「不満っていうか、不満ではあるんですけど……」
「何なりと」
「嫌というより、困る、みたいな話で」
「構いません」
辿々しく前置きを挟む。言っているうちに、自分の顔が赤くなっていることを自覚していた。耳まで熱いのだ。気を抜くと昨日の感触を思い出してしまいそうで、必死に蘇る記憶を押し留めながら、言葉を続ける。
「や……やわらか、くて……」
「柔らか……」
「……いい匂い、で」
「匂い?」
何故、復唱するのか。アンネさんへの妙な怒りで冷静さを取り戻し、残る部分は思いのほか動揺せず言い切ることができた。
「緊張して……アリーにも、申し訳ないしで、あんまり、眠れなかった、です」
「礼央様……」
そこまで言い終えると、アンネさんは神妙な面持ちで俺の名前を呼び──。
「先ほどから何の話をされているのでしょう」
「はぁ?」
──全く意味が分からないという顔で尋ねてきた。
梯子を外されたというのはまさにこのことである。突然の出来事に戸惑いながら、改めての確認を挟んだ。
「だって、アンネさんが、頼んだんですよね」
「私からアレクサンドラ様に依頼したのは、『礼央様と同室で休むこと』、『礼央様が何かを打ち明けてきた場合には、包み隠さずありのままの意見を伝えること』の二点です」
アンネさんが淡々と告げる。脳が処理を拒んでいる。
構わず、数分前の慌ただしい思考回路が蘇ってきた。
「礼央様は先の戦争の発端について、アレクサンドラ様に少なからず負い目を感じていたかと思われます。礼央様に責がないことは私たちも理解しておりますが、どれだけ言葉を尽くしても、実際に戦争で家族を失った方の言葉には及ばないでしょう」
アンネさんは、本当に、俺を案じてくれていたのだろう。それは決して俺が思うような下世話な方向にではなく、真っ当に寄り添おうとしてくれていたのだ。
「ですので、必ずしも慰めである必要はなく、それこそ罵倒であれ非難であれ、思うままを伝えていただきたいと依頼をしたのですが……」
「…………」
「話はできましたか?」
発信する側が真っ当でも、受信する側が真っ当とは限らない。寝不足、動揺、その他の言い訳をいくつも捏ねて、その全てを放り投げてから、俺は馬車の中で下げられる最低の低さまで頭を下げた。
「…………すみません、本当すみません、俺……すっごい、あちこちに失礼な勘違いを……」
「勘違いとは」
「馬車から放り出してください……ユーデルヤードまで歩きます……」
「無茶はおやめください」
アンネさんに嗜められても頭を上げる気になれず、結局、再び彼の顔を見られるようになるまでには、おおよそ十分ほどの時間を要した。方々への申し訳なさで、今すぐ消えたい気分である。
ようやく俺が頭を上げた頃、アンネさんは話題を変えるでもなく、何事もなかったかのように話を再開した。
「昨晩は何があったのですか?」
「…………一晩中、アリーに抱きしめられながら寝ました」
勘違いしたことへの申し訳なさから、蚊の鳴くような声で答えたついでに、先ほど言い損ねた勘違いの内容についても白状しておくことにした。
「……てっきり、アンネさんがそれを依頼したのかと思って。すみません、ものすごい失礼な勘違いでした」
「誤解が解けたなら何よりですが、そのようなことをする理由が分かりかねます」
健全すぎて不健全だが正しい答えだ。今の俺にはあまりにも眩しい。穴があったら入りたい。誰か埋めてはくれないものだろうか。深く埋めすぎて芽が出ないアサガオの種のようになれたら本望である。
だが、今の受け答えからして、アンネさんが俺とアリーを同室で寝泊まりさせた背景が少し見えてきた。
恐らく彼は、十代の少年少女のことを、男女の区別などろくに意識していない子どもとして捉えているのだろう。要するに、五、六歳と似た精神年齢と見積もっている。
だが実際のところ、俺は女性の体にそうした関心を向けてしまう年頃なのだ。それを表に出すことはしていないものの、人並みの関心は当然のようにある。
男子の精神が子どもから大人へ移り変わるように、女子の精神もまたそうした関心の存在を認識し、それを恐れるようにもなるはず。あまりにも何も起きない前提で不用意にこうした場面を設けられてしまうのは、さすがに困るのだ。
「あと、俺が言うのも何ですし、気を遣ってくれたのは分かってるんですけど……この手段はもう取らないでください。知らないうちに男をベッドに招いてたなんて知ったら、普通は怖いですよ。そうでなくても、俺が変に意識して気まずくなるので」
「承知しました。以後そのように」
あまりにもあっさりと受け入れられて、逆に心配になってしまった。毎度最短ルートを突っ走ってしまうこの人のことだ。都度こうして釘を刺さなければ、一体何をしでかすか分からないのである。
だが、彼がこの問題をきちんと認識しているかを確かめるには、俺の気力が足りない。大きなあくびを一つこぼし、馬車の壁にもたれかかった。
「到着まで寝てていいですか?」
「ええ。到着前にお声がけいたします」
「お願いします……」
そう答えて目を閉じたのはいいものの、壁から伝わる振動は思いのほか睡眠の妨げとなり、心地いいポジションを探して二、三度ほど身じろぎ。
やがて快眠は諦め、眠れないにしても目を閉じていようと決意した辺りで、俺が完全に眠れていないと感じたらしいアンネさんが尋ねてきた。
「その態勢で眠れるのですか?」
「……目を閉じてるだけで違うかもしれませんし」
「ほとんど眠れなかったというのなら、ここできちんと睡眠を取られた方がいいかと」
「誰のせいだと思ってるんですか、誰の」
思わず言い返すと、返事の代わりに何故かアンネさんが隣に腰を下ろした。馬車の揺れもあるというのに、器用なものである。
「上着に包まれば、いくらか寝心地はよくなるかと思うのですが」
上着を脱ぎ、何故かそれを俺に被せるアンネさん。わざわざ隣に来る必要があっただろうかと疑問に思っていると、ようやく行動の真意を明かしてくれた。
「座席に横たわられては体を痛めます。せめて頭だけでも腿に乗せておくと楽ではないでしょうか」
どうやら、膝枕を促しているらしい。名称は膝枕だが、実際のところは腿枕である。
違う、今考えるべきことはそれではない。
「いや、昨日の今日で人を枕にするのは抵抗があるかなって……聞いてました?」
言い終えるより先に、凄まじい腕力で無理やり肩を引き寄せられ、膝に寝かされていた。どうして俺の周りの人たちは物事をパワープレイで解決しようとするのだろう。
ここで抵抗したところで、結局は筋肉でねじ伏せられるだけなのだ。昨日の経験と、耳の下で存在を主張する逞しい筋肉でそれを理解した。
「長旅になりますので、少しでも休まれるべきです。睡眠は体調に直結しますので」
「隙あらば睡眠省こうとする人に言われたくありませんって」
「適切な優先順位を定めた結果です」
「定められてないから倒れたんじゃないんですか」
不当な物言いに抗議すると、話は終わりだとばかりに上着を顔まで被せられてしまった。
アンネさんの認識では、俺は柔らかいものが顔に当たっていないと眠れないらしい。決してそのような子どもじみた癖はない。ないのだが、昨夜の寝不足が手伝って、視界が暗くなった途端により強い眠気が襲ってきた。
昨夜とは違う、寝心地の悪い筋肉質な硬い膝に安心しながら、馬車の揺れに身を任せる。
この硬さなら座席に横たわるのと変わらないのでは、という失礼な考えが首をもたげたが、それも結局は微睡の中へ溶けていったのだった。
次回更新予定日《10/5 20:00?》
進捗が怪しい場合には1週休みとするかもしれません!




