126話「言えなかったこと」
今日で、何日になるだろう。一週間ほど経ったかもしれない。
ここにきたときに聞いた話。教会も余裕がないこと、俺を置いておけるのは三週間がせいぜいだということ。
期限まで、二週間。あと二週間で治して、王都に戻る。それまではまともになっていなければならない。聖女に戻らなければならないのだ。そうでないと、またあの声が来てしまう。
──「守るべき国民を飢えさせてまで、飯を食ってきたんだろう」──
部屋で一人、種を育てて作った野菜を一口齧る。そうするたび、頭に焦げついた声が蘇ってくるのだ。
以前から何度も聞こえてくるこの声が頻度を増したのは、五色の塔から城へ戻った後。それを掻き消すように、停戦後の後始末に、タビサさんの今後に向けた根回しにと、自分に聖女としての役目を与えることで誤魔化してきた。
だが、タビサさんに諸々の礼を済ませ、彼女が救世主としての地位を確かなものにしていると分かった瞬間、「平和の象徴」を譲り渡したあの瞬間から、明確に何かが狂ったような気がしている。
聖女という役割のうち、魔法を使う機械的な役割と、平和の象徴という精神的支柱の役割、その片方を失ったせいだろうか。
働かざるもの食うべからず。それまで、自身を「働くもの」として定義していたものの半分を見失ったことで、俺の体は途端に食べ物を拒み始めたのだ。
飯を食うな。誰からも奪うな。頭の中を巡る声に蓋をして、生野菜の青臭さではない理由から吐き戻しかけたものを、飲み込む。考えず、ただ飲み込む、それだけ。
考えてはいけない。とうとう料理を見るのも怖くなり、どうにかアンネさんを説き伏せて、野菜の種を数種もらったのだ。俺が手早く育てた苗一本で、どれだけの人が助かるのか。俺が吐き戻した料理で、どれだけの人が飢えるのか。今だけは、考えてはいけない。
他の人が食べる分ではなく、自分の生命維持のために使うという前提の元、ようやく野菜を育てて食料とする案に頷いてくれた。これでも食べられなければ、せめてスープや粥でもと、また人の手が加わったものを出そうとするだろう。
人の手が加わっているか否かは、それによって誰かが飢える原因にはならないとしても、食べなければというプレッシャーを強めてしまうのだ。
役目を果たさないのなら何も食べるなと繰り返す声と、せっかく作ってもらった料理を戻してしまうことへの申し訳なさ。相反する正しさが思考の両端を引っ張りあって、逃げるように自分の電源を切る。そういう日々が続いていた。
こうしていられるのも、あと二週間だ。二週間後には、俺はまた聖女に戻らなければならない。助けを待つ人々のためというより、俺自身のために。俺が聖女でいる限り、あの人はそばにいてくれる。今のところ確かなことは、それだけなのだから。
大丈夫、魔法が使えなくなったわけではない。ただ少し、体調が悪いだけだ。息をするたび、罰のようにあちこちが痛むだけで、死ぬような病でもない。
いっそのこと、そうなれたら楽なのかと、そんな考えが一瞬だけ頭をよぎった。
床に座り込んだ状態から、重たい腕を持ち上げ、辺りに転がる野菜を手に取る。
普段ならば屋根を突き破るほどに大きく成長するそれらは、俺自身の体調不良のせいか、普通サイズよりやや控えめな程度に落ち着いていた。
土を介さずに育てた野菜たちは、根まで綺麗な苗として床に横たわっている。何だか標本じみて不気味なそれは、食欲と共に罪悪感も薄れさせてくれた。
今にも閉じそうな瞼を無理やりに開いた先に見えるのは、くすんだオレンジ色。ニンジンだ。齧ると生っぽい甘さが広がった。先の方を食べるにも一苦労で、数口食べると噛みきれずに止まってしまう。飲み込む気力すらなく、咀嚼を諦められた残骸が口の中に留まった。
いくつか種類がある野菜を前に、それ以上は食指が動かなくなってしまったが、今のところベッド脇に置かれたエチケット袋──使い捨てではないため、アンネさんが定期的に洗ってくれているらしい──の世話になることはなさそうだ。
これは、案外いいやり方かもしれない。希少な魔法の使い手という意味合いだけの聖女なら、会食のときに代役を立てることも可能なはず。
お飾りだとしても、明らかに死にかけだとしても、生きていればそれだけで抑止力になる。俺はそういう存在になったのだ。
ニンジンを放棄して、芋を手に取ってみる。こちらの世界の芋は、いわゆるジャガイモに似ているようで少し違っており、サツマイモの形にジャガイモの色をつけたような具合だった。
野菜には、生で食べていいものとそうでないものがある。芋は後者だった気がしたものの、ニンジンの残る口に無理やりねじ込み、咀嚼した。考えるのも億劫で、死にはしないかという惰性に理性が負けたのだ。
食事というものはこうなってみると面倒なもので、噛んだ後に飲み込まなければならない。口の中にいつまでも溜め込んでおくわけにもいかないのだ。
いい加減に溜まってきたそれを、少しずつ喉奥に流し込もうとした瞬間、唐突に部屋の扉が叩かれた。
思わぬタイミングでの来訪に、つい返事をしようとした喉が、飲み込んだ野菜の一部を追い返す。その拍子に咀嚼された細かい破片がおかしなところに入ったものだから、口に入れたものをぶちまけまいとする妙な咳き込みが返事となった。
それに驚いたらしい来訪者が、慌てて駆け込んでくる。恐らくアンネさんだ。どうにか飲み込まなければと、手のひらを口元に押し付けて押さえ込む。
すると、咳き込みついでに吐き戻したものがおかしなところから飛び出す上、咳き込むたびに肋骨の当たった皮膚が痛みを訴え、喉も詰まって迂闊に死にかけた。
結局、半ば強制的に袋を用意され、ハイムリッヒ法よろしく背中を叩かれたものだから、飲み込もうとした以上のもの──要するにほとんど胃液だ──も吐く羽目になった。
口の中のものも胃の中のものも全て吐き出し終える頃、背中の手はそっと俺から離れていく。
アンネさんかと思ったものの、背中に当てられた手は大きく、そして硬い。降り注ぐ声もまた、彼より低いものだった。
「ごめんなさい、びっくりさせちゃったわね」
俺が息を整えるのを待ってから、ウィルバートさんは申し訳なさそうに声をかけてくる。床に座ったままベッドに寄りかかり、ベッド脇に置かれた水を受け取って口に含むと、それでようやく落ち着いた。
ウィルバートさんは、部屋に散らばる数種の野菜と、俺のそばに落ちた齧りかけの野菜を見て、おおよその状況を察したらしい。これだけ見ればネズミが入り込んだような有様だというのに、その声は相変わらず優しかった。
「そのままだと食べにくいでしょ。せめて少し細かくしてみない?」
「食べられればいいので……聖女に死なれたら困るでしょうし」
言ってから、当てつけのようになってしまったことに気付く。
教会は確かに聖女、というより神と縁のある場所で、神から力を受け取る聖女を邪険にできない面はあるだろう。彼らは決して、聖女に死なれたら困るからと、積極的に俺を呼び寄せたわけではない。立場上、断れなかっただけなのだから。
「えっと……すみません、もう既に迷惑ですよね。あと二週間で、どうにかしますから」
「……そう、聞こえてたの」
ウィルバートさんの悲しそうな声を聞いて、また間違えたと自覚する。俺が口を滑らせたのは、ここに来たときに聞いた、アンネさんとウィルバートさんの会話の一部分だ。教会にも余裕がないことから、三週間が限度だと聞いている。
食糧難の中で戦災孤児が溢れ、余裕がない状況下で俺を預かってくれているのだ。期限があったとしても、破格の対応である。
例えそれがウィルバートさんにとって不本意なものであったとしても、彼はわざと俺に聞こえるように話すなどということはしないだろう。城ではたびたびそうした控えめな嫌がらせめいたこともあったため、感覚が麻痺していたようだ。
とはいえ、それをここで口にしては、心配させてしまうばかりだろう。何を言ったものかと決めかねているうちに、ウィルバートさんは諭すような口調でこう続けた。
「ごめんなさいね。余裕がないのは本当。それはどうしようもないことだけど、レオちゃんが気にすることじゃないのよ。問題があるとすれば、聖騎士団の方なんだから」
アンネさんから、俺が置かれた状況については聞いているのだろう。
騎士や徴兵された国民、中には聖騎士まで、俺に対していい感情を抱いていない人は多い。
仮にも俺は停戦の立役者という立場のはずなのだが、彼らからすれば、突然役目を放棄したという部分がより強く印象に残っているようだ。
それはきっと、前線に出た人にとっては当然の理屈で、何より俺自身、彼らのためだけに停戦を実現したと言えば嘘になる。大多数のためではなく、自分の大切な人のために動いた以上、恩着せがましく誇る気にもなれなかった。
「わたし……ご飯出してもらえる立場なのに、全部戻しちゃうので。使い物にならなくても代わりはいないし……面倒見る側も、大変だと思います」
口にした言葉に嘘はない。聖騎士団も俺も、お互いに逃げ場がないのだ。その気もないのに一蓮托生、嫌にもなるだろう。そんな投げやりなことを考えながらも、取り繕うような笑みが出た。聖女とはそういうものだという考えが、俺自身に染み付いている。
すると、ウィルバートさんは不意に真剣な顔になって、静かに前置きのような言葉を告げてきた。
「ねぇ、レオちゃん。答えたくなかったら答えなくていいの。よかったら、教えてくれないかしら」
そう言って、準備をするように一拍置いた彼は、どこか覚悟を決めたように、口を開く。
「レオちゃん、本当は聖女なんてやりたくないんじゃない?」
放たれたそれは、これまで一度も、誰からも聞かれたことのない問い。どこか禁忌じみたそれは、俺をよく思っていない人々さえも、口にすることはなかった。
分かってくれた、という安堵と、バレてしまった、という恐怖が入り混じって、必死に首を横に振る。
「……そんなこと、ないです」
「そう。あのね、レオちゃん」
「そんなことないです、だって……いないと、困るじゃないですか。いて困ることも、多いかもしれませんけど」
「レオちゃん」
「今は、必要です。復興とか、国防とか、そういうの。だから……聖女でいないと」
ウィルバートさんの声を跳ね返すように、慌てて言葉を紡ぎながら、同時に思った。
違う。
そんなこと、本当はどうだっていい。
それすら見透かしたように、ウィルバートさんはゆっくりと、しかしはっきりとした口調で続ける。
「それはレオちゃんが聖女をやりたい理由にはならないんじゃないかしら。アタシたちが、レオちゃんに聖女でいてほしい理由でしかないわ」
「や、やりたくないとかじゃなくて、違くて……だって、食べるものもあるのに。そんなこと言ったら」
「いい環境にいる人が弱音を吐くのは悪いこと? そこにいたくないって言うのは悪いことかしら。アタシは違うと思うわ」
いい環境にいるから、弱音を吐くのが悪いと思っているわけではない。不純な動機で、今を選んでいるからだ。
到底口にはできない考えの数々を飲み込み、代わりの答えを探しているうちに、ウィルバートさんがトドメとなる一撃を放ってしまっていた。
「レオちゃん、このままずっと、聖女でいたい?」
放られたそれを、無防備に受け取る。
ここで頷いたら、このままずっと、聖女でいることになるのだろうか。こんなことを、一ヶ月、一年、五年、十年──死ぬまで?
性別を偽り、自分にも他人にも嘘をつき、自由も逃げ場もない生活を、皺だらけの老人になっても、まだ。
そう思ったら、覚えず視界が滲んだ。怖くて、たまらなくなった。
アンネさんがそばにいてくれる。だがそれは、俺が聖女でいる間だけなのだ。だから俺は聖女でいなければならない。ありのままの俺を必要としてくれると言った彼は、俺と一緒に逃げてはくれないから。
結局は自分のためだ。自分のために聖女でいるというのに、どうしてこんなにも、涙が出るほど恐ろしいのだろう。
ウィルバートさんが、呼びかけてくる。
レオちゃん、聞いて。
祈るように、俺を呼ぶ。俺と同じ緑の瞳が、俺を捉える。
「レオちゃんが聖女じゃなくても、何だっていいの。アタシが、レオちゃんを隠してあげる」
そう言ったウィルバートさんは、どこか安堵しているように見えた。何故か、そう思った。彼の言葉一つで、ずっと望んでいたものを与えられたのは、俺の方だというのに。
ただ涙をこぼし続ける俺を見て、ウィルバートさんは静かに笑みを浮かべる。目尻に、俺と似たものが光っていた。
「そのくらいどうってことないわ。聖騎士団がレオちゃんを寄越したんだもの。アタシが帰したくないって言い出したところで、そう簡単に手出しはできないはずよ。元実働部隊隊長を託児所扱いした罰ね」
無責任な気休めではない、ウィルバートさんだから言えることだった。この人ならきっと、今言ったことを現実にしてくれるという確信もある。
「だから、いいのよ。聖女じゃなくても、いいの」
体半分、安堵する。ああ、これでようやく。そう思う自分を、冷静な自分が見下ろしていた。
油断するな、いずれ梯子を外される、と。
理由のない善意を、素直に信じられない自分が嫌になりながらも、善意の理由を探していた。見つかるとも分からないそれが、この先もずっと揺らがないものであることを願って。
「なんで……」
「……本当はずっと、そう言いたかったのよ」
俺の問いに、ウィルバートさんは明確な答えをくれなかったが、それでも、おおよその見当はついた。
「……誰に?」
そんな問いが、口をついて出た。ウィルバートさんにとっては思わぬ問いだったのだろう。驚いたように目を丸くして、それから子どもの悪戯を咎めるような顔をしてみせた。
そうして、「悪い子ね」とだけ呟いたウィルバートさんは、よく目を凝らさないと分からないほど、静かに泣いていて。
少しずれた、需要と供給。噛み合わないそれに目を瞑る俺たちは、お互いの涙が止まるまで、沈黙を守り続けたのだった。
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