16話「仲良くなりたい」前編
背中と首が痛い。
覚醒するなりまず思ったのはそんなこと。首は寝違えただけだろうが、背中の痛みはいつか友達の家で雑魚寝したときの痛みに似ている気がする。布団を挟まず畳の上で寝たあのときと違って、今の俺は毎日ふかふかの高そうなベッドで寝かせてもらっているはずであり、起床時の背中の痛みとは無縁なはずなのだが、果たしてこれはどういうわけなのだろうと思いつつ目を開けた。
知らない天井だ。付け加えるとお世辞にも綺麗とは言い難い。
一体ここはどこなのだろうかという疑問を解消するべく起き上がろうとした俺の視界に飛び込んできたのは、持ち上げられた俺の腕と、その腕にかぶりつこうとしている男の姿。
何故俺の腕に噛みつこうとしているのか。
そもそもここはどこなのか。
どうして俺はここにいるのか。
手首に付けられている枷のようなものは何なのか。
疑問はいくらでも沸き上がってくるが、現時点で明確になっている情報から今の状況を判断するならば。
知らない男が、俺の腕を食べようとしている。
数秒目の前の男と見つめ合ったのち、最低限の情報を認識した俺は、寝起きとは思えない声量で絶叫し、腹立たしいほどに整っている男の顔に足の裏をめり込ませた。
人様の顔を足蹴にしたことなど初めてだが、目が覚めるなり文字通りの意味で食べられそうになっていたことも初めてである。恐怖を通り越して理解不能な状況を前に、座った状態のまま後ずされば、背中が堅く冷たい壁にぶつかった。
一体ここはどこなのかと壁際から部屋を見渡せば、あるのは四方を囲む灰色の壁と、刑務所と見まがうような格子のついた扉。面積が元の世界での俺の部屋とほぼ同じくらいなのが少し複雑である。家具はこの部屋と違ってベッドと椅子の他にいくつかの棚と机もあったが、まさか広さが牢獄レベルとは。
他に何か場所を割り出す手掛かりになりそうなものはないかと目を走らせて、俺が足蹴にした人間の存在を思い出した。家具より何より、今はこの男をどうにかすることの方が先決である。
「ねっ、寝てる人間に何しようとしてんだあんたは!」
高い位置で束ねられた長い青髪に黒い瞳、口元のほくろ。赤黒い軍服の上に乗ったやたらと整った顔立ちも相まって、一度見たら忘れられそうにない顔だが、どういうわけかこれまで彼と顔を合わせた覚えはない。それならばこの男は一体誰なのかと考えかけて、意識を失う直前に起きた出来事を思い出した。
偽アンネさんの不自然な会話、魔具からの声を聞いて駆けつけたアンネさん、黒い炎、咄嗟に張った結界。覚えているのはそこまでということは、恐らくその辺りで気絶させられたのだろう。首の痛みはそのときのものらしい。
青髪の男は蹴られた顔をさすりつつ、忌々しげに俺を見て口を開いた。
「男のいる部屋でいつまでも寝こけている貴様が悪い。襲ってくれと言っているのと同じではないか。聖女ならば多少は立場を弁える女かと思っていたが、やはり所詮は蛮族か……下等生物め」
開口一番どこをとっても炎上しそうな差別発言を繰り出す青髪の男。この短時間で女性蔑視、種族差別、おまけに聖女への偏見のフルコースとは恐れ入った。もう満腹だからこれ以上喋らないでほしい。
しかしこの男がそんな俺の願いを感じ取ってくれるはずもなく、彼はやはりどこまでも横柄な態度で話し始めた。
「貴様がネロトリア王国第十三代目聖女、レオ・ウサミか」
「……人にもの聞くときはまず自分から名乗るべきでは?」
「人間風情に教える筋合いはない」
「あんただってどう見ても人間じゃ……」
ついそんな言葉を漏らせば、言い終えるより先に鼻で笑うような声が返ってきた。いちいちこちらの神経を逆なでしてくる男である。
「貴様らと同族だと? 貴様のその節穴ではそう見えるのか。めでたいな、人間」
確かに血も涙もない上に人間味皆無で同族と思うにはあまりに理解不能だが、まさか本当に人間でないとは。却って少し安心したかもしれない。
しかしそうなると先ほどの発言は自分を棚に上げた発言ではなく、本当に心の底から人間という種族を見下す意図で発せられたものだったらしい。思えば先ほども俺の腕に噛みつこうとしていたし、そこから導き出されるこの男の種族には何があるだろうか。
この世界に存在しているかどうかはともかく、創作の世界において人を食べる種族というと、考えられるのはゾンビやアンデッドの類だが、先ほど足の裏で触れた感触はどう考えてもそういったものたちとは違っていた。ゾンビどころか人間と思しきものを蹴り飛ばしたのもあれが初めてではあるが、少なくとも皮膚が腐っているというようなことはなかったのである。
だとするならば食人鬼というやつなのだろうかと考えかけて、先ほど一瞬だけ見えた鋭い八重歯を思い出した。加えてこの男が噛みつこうとしていたのは俺の肘の内側、採血で注射針を刺す辺りである。
となると、この男は──。
「──吸血鬼?」
「ようやく理解したか。我がグラストニア帝国の軍隊は、他の種族の血を吸うことで魔力を供給できる崇高な種族で構成されている。貴様らと違ってな」
グラストニア帝国。聞いたことはないが、少なくともここはネロトリア王国ではないらしい。
吸血鬼で構成された軍隊というのは聞くからに厄介そうではあるものの、こちらが聞く前から勝手に話し始めるあたり、上手くやればもう少し情報を聞き出すこともできるかもしれない。
「下賤の者って言いますけど、他から魔力を吸い取れるってだけの種族がそんなに偉いんですか?」
「異世界人の貴様は知らんだろうが、少佐ほどのお人ともなれば邪属性魔法を操り、血を媒介として他者に呪いを付与することもできるのだ。貴様ら人間にそのようなことはできまい」
軍隊というと秘密が徹底されているイメージがあるが、この男に関してはそういうわけでもないらしい。少佐というのはこの男の上司だとして、邪属性魔法というのは名前から察するに聖属性魔法の対極に位置する魔法なのだろうか。
「呪いだとか邪属性魔法だとか、どれもこれも胡散臭い単語ばっかりですけど、その少佐って人が邪属性魔法を使ってるところ、見たことあるんですか?」
「無論だ。少佐が常日頃から連れている悪魔が動かぬ証拠。邪属性魔法の発動には、悪魔との契約が必要不可欠だからな」
さすがに情報を引き出そうとしていることに気付かれる頃だろうかという懸念を吹き飛ばすかのように、青髪の男はひとつひとつ丁寧に説明してくれる。あまりの手厚さにもしや罠なのでははいかという不安が頭をよぎり、どう出たものかと決めあぐねていると、疑われているとでも思ったらしい男はさらに詳細な説明を加え始めた。
「それだけではない。私は少佐が呪いを付与する瞬間をこの目で見届けたこともある。吸血鬼の中でも悪魔との契約を交わせるものは稀であり、その悪魔を使役できるものはさらに稀だ。分かったか人間。これで貴様の無能な脳みそにも少佐の偉大さが刻み込まれたことだろう!」
聞けば聞くほどこの男の残念具合が刻み込まれていくばかりなのだが、そうとも知らない男は誇らしげにこちらを見つめている。
分かったのはこの男がかなり残念であるということと、この男が少佐に心酔していること、そして邪属性魔法というものがかなり厄介だということくらいだろうか。この男の言う「少佐」とやらには、なるべく会わない方がよさそうである。
となるとその少佐がこの部屋に来てしまう前に、脱出の方法を探らなければならない。いくらこの男といえども誘拐した聖女をみすみす逃がすわけはないだろうが、この流れでいけばこの男を部屋の外に出すことくらいはできるかもしれない。
「それだけ力説されても実物を見ないことにはどうにも言えませんよ。どうせならその少佐って人を──」
「なら、見せてあげようか」
連れてこい、と続けようとした俺の言葉を拾い上げるように、耳元から聞こえた他人の声。隣を振り返れば、そこには先ほどまでいなかったはずの人間がにこやかに微笑んでいた。
気配がしないどころではない。このベッドは部屋の端に設置されており、部屋全体を見渡せる位置にある。当然、扉から入ってきたなら気付くはずだ。
だというのに俺は、彼が隣に来るその瞬間まで彼の存在に気付かなかった。
物の例えではなく、この男は一体どこかから湧いたのだろう。
「初めまして、聖女さま。ぼくはグラストニア帝国陸軍のノア・ガーランド少佐」
三つ編みにされた長い紫の髪に、ひと房だけ交じった白髪、右目の眼帯。しかし開かれた左目は油断なくこちらを観察しており、限りなく白に近いその色から、鑑定魔法を使っているときのイーザックさんを彷彿とさせる。
見るからに得体の知れない男に対して言葉を発することすらできずにいる俺に対し、ノアと名乗ったその男は、穏やかに微笑んだまま、静かにこう続けた。
「きみとはぜひ、仲良くなりたいな」




