番外編17「埋まらない距離」
エイプリルフール!イェーイ!
幸運な巡り合わせというのは、きっとこういうことをいうのだろう。
「うさくん、ちょっと先生に呼ばれたから先行ってて」
「分かった。良は?」
「トイレ」
「本当かな〜……見かけたらサボんなって言っといて」
男子に向ける気安い口調でそう言い残し、掃除場所へ向かうのは、クラスメイトの宇佐神礼央くん。
何ヶ月どころか、何年も前。中学のときからずっと、わたしにとって特別な男の子だった。
髪はいわゆるブロンドと呼ばれるような金髪で、目はやや深みのある緑。入学直後のある事件の後はクラスでも少し浮いているようなところがあったけれど、今となってはただのクラスメイトとして溶け込んでいた。
いつまでも彼のことを特別に思っているのは、わたしくらいのものだろう。
自分の席から、そうとバレないように宇佐神くんの背中を追っていると、割り込むようにして友達二人が声をかけてきた。
「澪〜、掃除頑張って。席替えで班変わったし、今日からあの三人と一緒でしょ。鼻血出して倒れんなよ〜」
「ちょっと! そんなことないから!」
あまりな言い草に、ついムキになって大きな声を出してしまった。わたしの反論にもどこ吹く風、友達は「今さら何を」という顔をしながら、宇佐神くんの背中を追うように教室の入り口に目をやり、わたしの方を振り返る。
「いやいや、今めっちゃ恋する乙女の顔だったよ。好きな人追っかけるのもいいけど、一緒にいるの入学してすぐ上級生と揉めたガリ勉ヤンキーと、この歳にして霊感設定持ち出すふんわり変人だってこと忘れんなよ〜」
「マジで気を付けな。イロモノトリオは健在だぞ〜」
イロモノトリオ。入学直後、上級生と揉め事を起こしたあの三人は、何かというとひとまとめにそう呼ばれるようになっていた。
宇佐神くんがそんな風に言われているのは、わたしからすると釈然としないけれど、同時に少し安心している自分もいた。
上級生と揉めたのは、宇佐神くんがカツアゲを止めたのがキッカケだった。優しくて、けれど譲りすぎない宇佐神くんのいいところが凝縮されたようなエピソードだ。
そのことを多くの人に知ってもらえたら、宇佐神くんたちの名誉を回復できるのでは、という考えと、宇佐神くんのいいところを知っているのはわたしだけでいいという考えがぶつかり合って、結局こうした場面ではいつも弁明できないまま。どう答えたものか決めかねていると、友達のうち一人がもう一人の脇を小突く。
「あんまり引き止めちゃ悪いって。澪も早く掃除行きたいだろうし」
「わたしって、そんなに潔癖に見えてるの?」
何やらニヤニヤしながら言う友達に呆れながら尋ねると、彼女はどこか驚いたような顔で答えた。
「いや、だって今なら脇の二人いないじゃん。二人きりで話すチャンスでしょ?」
告げられた言葉を、ゆっくりと咀嚼して、幽霊のごとく立ち上がる。そうして十秒ほど沈黙を保ったのち、温まりきった言い訳を口にした。
「…………宇佐神くん一人に任せたら、悪いから」
「はいはい、分かってるって」
「早く行ってこ〜い」
応援しつつも揶揄っていて、揶揄いつつも応援している。そんな友達二人を置きざりに教室を飛び出し、掃除に遅れたから急いでいるんですと言い訳をしながら、廊下を駆け抜けた。
好きな人と二人きりという状況は、嬉しい反面怖くもある。気まずくなったらどうしよう。変なこと言っちゃうかも。ちょっとしたことで嫌われたら?
頭の中を駆け巡る懸念が片付かないまま、気付けば私の足は図書室の目の前まで辿り着いていた。それまでの急ぎぶりが嘘のように、扉の前で立ち止まり、慌てて前髪を整えた。
宇佐神くんにみっともない姿を見せたくないというのも本当だけれど、時間稼ぎの意味も少しある。どれだけ経っても、心の準備なんてできそうになかったから。
いつ入ろうか、なんて声をかけようか。そんな考えを脇に放り捨てて、どうにでもなれと図書室に足を踏み入れる。
すると、学校の喧騒から少し距離を置くそこに、誰かが佇んでいた。彼の他に人影はない。本当に、二人きりだ。
「あ、神倉さん。早いね」
振り返った宇佐神くんと目があって、つい逸らす。感じ悪いと思われるのが嫌で、忙しなくまた目を合わせた。
「ごめんね。待たせちゃった?」
「大丈夫、俺も今来たところ。先に始めてようか」
言いつつ、宇佐神くんは図書室角の掃除ロッカーから箒を取り出して、こちらに渡してくれる。何気ないやり取りだというのに、宇佐神くんが絡んだ途端、何もかもが覚束なかった。
どこから手をつけようか。宇佐神くんに近すぎては邪魔になる。かといって遠すぎても素っ気ない。掃除の開始地点一つで迷うわたしを見て、宇佐神くんはさりげない気遣いを見せてくれた。
「俺は窓際からやるから、神倉さんは廊下側頼んでいい?」
「あっ、うん! 分かった!」
勢い余って元気よく返事を返してしまい、一瞬怪訝そうな顔を向けられてしまった。宇佐神くんはすぐに何もなかったように振る舞ってくれたけれど、わたしの方はそうもいかず、赤くなった顔を隠すように、本棚の方を向きながら掃除を始める。できることなら数秒前の出来事をなかったことにしたかった。
お互い、背中を向けながら掃除を始めて、一分ほどした頃だろうか。まるで会話が生まれず、気まずい沈黙が流れる中、ふと宇佐神くんが声を発した。
「神倉さんってさ」
「なっ……何?」
宇佐神くんが声をかけてくれたことに舞い上がりかけて、必死に自分を律する。そうして宇佐神くんを振り返ると、彼は掃除の手を止めないまま、意外な問いを放った。
「委員会って何だったっけ」
唐突な質問に戸惑いながらも、答える。
「えっと……保健委員」
「あ〜、確かにそれっぽい。図書委員も似合いそうだなと思ってさ」
宇佐神くんの言うことはよく分からなかったけれど、つまり本が好きそうという印象を持たれているのだろう。文学少女、みたいな。根暗と思われていないことを願うばかりである。
保健委員は、自分の希望で入った委員会だったけれど、動機といえば不純なもので、宇佐神くんと同じ委員会になりたかったというだけのもの。
結局、彼はジャンケンで負けて美化委員になってしまい、不純な動機を持つわたしが残ってしまったというわけだ。
とても本人には言えず、さりげなく話題をわたしから宇佐神くんへと移してみる。
「宇佐神くんは……えっと、美化委員だったよね」
「すごい、よく覚えてたね。美化委員って何やればいいか微妙に分かんなくない?」
「う〜ん……花を飾るとか? あとは好きなキャラクターのぬいぐるみ置くとか」
「職権濫用じゃん」
宇佐神くんの好みを知りたくて、半ば本気で言うと、冗談と捉えたらしい宇佐神くんは小さく笑ってくれた。馬鹿にするでもなく、ただおかしくて笑ったような、友達に見せるような顔。それだけでわたしは満足してしまって、本来の目的はすっかりどこかへ飛んでいってしまった。
わたしが珍しい笑顔を噛み締めていると、宇佐神くんは少し困ったような笑みを浮かべてみせる。
「まぁでも、風紀委員とかじゃなくてよかったよ。金髪のやつに校則がどうとか言われたくないだろうし」
「宇佐神くん、校則遵守の優等生なのにね」
「そうでもないよ。今日も生物の時間やばかったし。半分寝てたからノートほとんど取れてなくてさ。もっちゃんあたり写させてくれないかな」
立てた箒に顎を乗せ、気怠げに呟く宇佐神くん。その姿もつい噛み締めてしまいそうになったけれど、よく考えればこれは一つのチャンスなのだった。
生物の授業は、きちんと板書を取っていたはず。授業態度は真面目な方だ。字も、読めなくはないはず。ノートの写真を送るという口実があれば、宇佐神くんと連絡先を交換できるかもしれない。
千載一遇の、チャンスだった。
図書室には二人きり。このやり取りを聞いている人はいない。さりげなく持ちかけよう。「わたしのノート写す?」「写真撮って送るよ」「連絡先交換しない?」の三拍子が揃えば完璧だ。
たったそれだけ。こんなチャンスはもう巡ってこない。分かっていても勇気が出なくて、掃除を再開した宇佐神くんの横顔を眺めていた。
何だこいつって思われるかも。写真だけ撮らせてって言われたら? でも、もうこんなこと二度とないかもしれないし。
自分との問答を繰り返した末、ありったけの勇気をこめて声をかけた。
「……あのっ、宇佐神くん」
力がこもりすぎた声を聞いて、宇佐神くんは不思議そうにこちらを振り返る。
お願い、この一瞬だけ、宇佐神くんがいろんなことに気付きませんように。
神様に願いを込め、頭の中で何度も繰り返した言葉を引っ張り出した。
「えっと、よかったらわたしの」
「お〜っす」
──のに、割って入った声で、続く言葉はわたしの口に収まったまま。
図書室の入り口を見ると、佐伯くんと茂木くんが遅れてやってきていた。なんで、この、タイミングで。
佐伯くんの背中を恨めしげに見つめていると、彼の後ろにいた茂木くんがわたしと佐伯くんを交互に見て、やがて合点がいったというように手を打った。
「もしかして邪魔しちゃった?」
「だ、大丈夫……」
何も大丈夫ではなかった。わたしが何も言えずにいるうちに、宇佐神くんは佐伯くんにノートを写させてもらう約束を取り付けている。
逃した魚の大きさに、つい項垂れてしまいそうになるけれど、気を取り直して掃除に取り掛かることにした。
次の席替えまで、あと数ヶ月。宇佐神くんと二人きりになる状況はそう実現しないかもしれないけれど、接点があるということは、また何かのきっかけでチャンスが巡ってくるかもしれないということだ。今はそう思うことにして、目の前の掃除に集中する。
いつか、わたしの頑張りを見た神様が、わたしの恋路をひっそりと応援してくれることを願って。




